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本質的思考

第三章 定量分析と定性分析

佐藤清文

Seibun Satow

2010年4月28日


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第3章 定量分析と定性分析

 定義と相対化によって対象の概観は理解できても、その具体的な面を詳細に分析しなければ、例えば、定義や歴史、修理を知れば「政党」というプラットフォームの全体像は認識できる。

 けれども、それは多分に抽象的であり、具体的な把握とは言い難い。政党がどのように経済的に運営されているのか、あるいはどう組織構成されているのかなど直裁的な疑問が次々とわいてくる。より実体的に理解するためには具体的な側面を分析する必要がある。

 ただ、自明性にとらわれたまま、つまり概観をつかまないまま、具体的な問題に向かうと、断片から全体を性急かつ恣意的に拡大解釈してしまう危惧がある。そもそも、その対象に最適な分析方法を選ぶには、定義における主観性依存の有無が鍵になる。主観性非依存型定義の場合には定量分析、主観性依存型定義では定性分析がそれぞれ適している。概観を理解していなければ、対象を分析する資格がない。そんなものは本質的思考ではない。

 定義が主観性に依存していないとすれば、対象は人間の意識の外部に存在すると見なすことができる。「実在論(Realism)」の範疇にあるのなら、「決定論(Determinism)」の態度をとれ、この対象には、「自然科学的(Natural Science)」な「実証主義(Positivism)」に立脚した「定量分析(Quantitative Analysis)」の方法論が適している。

 それは仮説を立て、その妥当性を検証する手順がある。コストと時間を念頭に置きつつ、必要もしくは可能な限りに収集したデータを数量的に解析し、客観的基準に基づく一般的な結論を導き出す。

 一方、主観性に依存した定義ならば、対象は人間の意識の内部に形成されていると考えられる。「唯名論(Nominalism)」の範疇に属している対象には「主意主義(Voluntarism)」で臨むことになり、「道徳哲学的(Moral Science)」な「解釈学(Hermeneutics)」に基づく「定性分析(Qualitative Analysis)」の方法論が適当である。

 文化人類学のフィールドワークのように、対象の固有な質的側面に着目して解釈する分析として用いる。調査して、その意味を抽出する手順を辿る。その際、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers)が提案したカウンセラーの三条件を守る必要がある。それは、「無条件の肯定的配慮(Unconditional Positive Regard)」・「共感(Empathy)」・「自己一致:純粋性(Congruence: Genuineness)」である。対象を尊重し、共感的に理解しようと努め、私利私欲に囚われ関係を不安定化させてはならない。

 あまり偏向していないのに、同一対象でも解釈が分かれる場合がある。概して、事実関係の記述にはさほど差が見られないが、それを学説・理論の体系に位置づける際に、そうした事態が生じている。特定のテキストや人、集団、組織、事象に寄り添いつつ、その固有の状況を考慮した個別的な対応を判断する。

 本論では広義で用いているけれども、狭義では、定量分析や定性分析は化学の分野における分析方法を指す。一般的に、「定性」は、「定量」と対をなし「性」は「質」の意味として用いられる。定性分析は試料中にいかなる成分が含まれているか、定量分析はその成分量はどうかを解析する手法である。

 前者を行った後に、後者を始めるので、両者は一連の手順として連結している。厳密さの強調から用いているが、どうしても化学との混同を避けたい、もしくは「分析」に抵抗があるのならば、これを「研究」と置き換えてもかまわない。

 意識調査や世論調査などの社会調査は主観性にかかわる項目の回答を求めていることが少なくない。しかし、これらは社会のトレンドに関心があるのであって、個々人の主観性を対象にしていないので、定量分析が適用できる。

 コンピュータの急速な発展に伴い、従来、定量分析とは無縁だった歴史学や地理学、考古学、文学などの領域にもその方法が導入され、画期的な成果を挙げている。1980年、トマス・メリアム(Merriam Thomas)は、コンピュータを使った定量分析によって『サー・トーマス・モア(Sir Thomas More)』の作者をウィリアム・シェイクスピアと鑑定している。

 シェイクスピアの文章の癖、すなわち文紋とこの戯曲のそれが一致する。もちろん、この文献学的成果は彼だけの手柄ではないし、シェイクスピア作説には異論もある。

 何と言われようと、主観性に依存していると、その対象の範囲や境界が曖昧になり、数量化できない。定量分析の方法を用いるために、定義から主観性依存の部分を除外するか、非依存型定義の概念に入れ替えるかといった工夫が要る。

 メリアムは、文体という曖昧で主観性に依存した概念ではなく、文章を解体し、品詞や単語の使用頻度などを統計データにして、比較している。まさに「定量革命」と呼んで差し支えないだろう。政治・経済・研究・スポーツにおいて、定量分析を無視することはできない。

 コンピュータの性能のみならず、ネットワークと検索機能の充実も定量分析の可能性を大きくしている。「暴走族」を例にしてみよう。新聞のデータベースにアクセスし、「暴走族」を検索する。最初にそれが見出しに登場したのはいつで、その後に使われた頻度の推移をたどることで社会現象としての「暴走族」の変遷の一面をつかむことができる。手作業となると気の遠くなる話だが、コンピュータであれば、朝飯前だ。

 対象が主観性非依存型定義の概念であるにもかかわらず、定性分析を選ぶと、科学的根拠に乏しい恣意的な意見に陥ってしまう。議員の間からも、国会議員の定数が多すぎるので、削減すべきだという主張が発せられているが、これなど典型例である。議員定数は主観性に依存しない以上に、定量分析は適している。
 
 多いか少ないかは、各国の議員定数と人口比率を国際比較すれば、容易に判明する。実態と実感がずれているとしたら、さらに、議会内での活動に関する定量データを国際比較すると、その理由も明らかになる。定義が主観性非依存型である場合、定性分析では勝手な思いこみが提案されるだけである。

 定量分析の進展によって、定性分析も再考を促される。かつては解釈学アプローチがとられていた感情や記憶、認知といった心理学の領域も脳研究を通じて定量的に研究されている。定性分析ならではの領域と手法を明確化することが迫られている。定量革命が起きる前は、実証性を欠いた一人合点の日本人論あるいは日本文化論が心理学者によって、社会学者や文学者も同様だが、発表されている。

 文芸批評家の小林秀雄は『アシルと亀の子』の中で「批評するとは自己を語ることである。他人の作品をダシに使って自己を語ることである」と言ったが、定量革命以前の定性分析はこの意見にとどまるものが少なくない。しかし、これは解釈ではない。告白だ。定性分析に必要な姿勢は、ロジャーズの三原則が示しているように、相手と息を合わせて、その話に耳を傾けることであって、自分の考えをベラベラ披露することではない。


つづく