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消えた高齢者問題と
報道のレトリック


佐藤清文

Seibun Satow

2010年8月28日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「そのまま現地にとどまるべし。貴殿は挿し絵を描いてくれ。私は戦争を仕立てる」。

ウィリアム・ランドルフ・ハースト


 2010年7月28日に東京都足立区で生きていれば111歳の男性の一部ミイラ化した遺体が発見されて以来、全国各地で100歳以上の高齢者の所在が確認できない状態であることが発覚する。マスメディアは、この消えた高齢者問題をめぐって、熱心に報道し、ワイドショーの司会者やコメンテーター、目立ちたがり屋の政治家たちは役所の怠慢や家族の絆の希薄化と放言を繰り返している。

 ところが、江戸時代生まれの人の「生存」が次々に見つかるのに伴い、確かに個別の事情も認められるが、次第に、この問題において戸籍制度の不備が原因の一つであることが明らかになる。戸籍法では、戸籍が抹消されるのは自治体に死亡届が出されてからと規定されている。戦争や災害で一族全員が亡くなってしまったり、家族そろって移民に出発していたりして、親族から死亡届が出されないケースが少なくない。身内からの届出に頼っていれば、戸籍上生存している人が多数生まれるのは当然であろう。戸籍を相対化できる制度があれば、こうした事態はなくなる。

 しかし、真相が明らかになるになってくると、マスメディアがその扱いを縮小する。刑事事件として親族が逮捕されることは伝えるものの、制度的不備に関する解説は申し訳程度でしかない。他国の死亡の管理との比較ともなると、具体的な説明にはほとんどお目にかからない。

 ニュースには、個別的な事件と制度的な問題が入り混じって報道される。これは活字媒体にしろ、電波媒体にしろ、違いがない。アカデミズムであれば、前者は特定の意図がある場合を除いて、後者を取り扱う。ジャーナリズムは個別性と制度性を受け手がわかるように分けて伝えるべきだが、速報性の誘惑に負けて、混合させている。そのため、次の四つのレトリックが報道について回る。

 第一が「典型のレトリック」である。ある特別な事例であるにもかかわらず、それがあたかも母集団の典型であるかのように伝える修辞法である。このタイプの報道は見出しに職業を入れる。容疑者を今時のそれの「典型」と印象づける。

 第二が「堕落のレトリック」である。制度的な不備・欠陥から発生している点も大きいにもかかわらず、関係者の道徳的堕落が主因であるかのように思わせる修辞法である。今回の消えた高齢者問題はこれに含まれる。

 第三が「実感のレトリック」である。実証的データや科学的根拠に基づいていないにもかかわらず、それがあたかも実態であるかのように実感に訴える修辞法である。この最も知られた例が「相次ぐ」である。統計では決して増えているわけではないのに、そう印象づける際に用いられる。指摘されると、逆に、これをエクスキューズにする。

 第四が「擬似のレトリック」である。定量的データや科学的根拠を示しているものの、その分析に妥当性を欠いているにもかかわらず、あたかも信憑性があると示す修辞法である。最近で言うと、日本はギリシア以上に財政赤字の対GDP比が高いので、かの危機は人事ではない、がこれに当たる。ギリシアの国債は70%が国外、日本は95%が国内で購入されている。これだけでも同じにはならない。

 なお、この四つのレトリックのいくつかが交えて使われている場合もある。また、ここでは言語に絞ったけれども、レトリックの具体的な用法は媒体によって異なる。

 ある断片を体系に位置づけることをしないで、それを拡大してその全体だと言いくるめてしまう。冷静に考えれば、このようなレトリックに引っかからないと思える。しかし、ニュースは、読者や視聴者の驚きと怒りに訴える。この感情は「情動」と呼ばれ、具体的な対象と結びついて急速に思考を占領する。そのため、冷静な判断が阻害され、レトリックを無批判的に受容してしまう。

 報道にはこうしたレトリックがつきまとう。報道機関には検証作業が、そのため、つねに不可欠である。レトリックのロジックへのすり替えを明示化し、今後の適正化につなげる。一方では、受け手にもメディア・リテラシーの教育が必要だろう。しかし、それはシニカルにマスメディアに接することではない。したたかな市民になるためである。
〈了〉