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領土問題によせて


佐藤清文

Seibun Satow

2010年11月23日掲載


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「狂信から野蛮までは一歩しかない」。

ドニ・ディドロ『長所と徳について』


 領有権をめぐる事件が起きると、しばしば関係国の政治家やメディア、世論が加熱する。政治的に対立している勢力の間でも共闘が組まれることも少なくない。確かに、領土問題はゼロサム状況であり、一方が得をすれば他方が損をする。領土問題をめぐって対立が激化する理由を生物のテリトリー争いの比喩で説明するものさえ見受けられる。

 けれども、領土問題が必ず関係国にこうした排外的な精神状態を引き起こすわけではない。

 中国はポルトガルからのマカオ返還に必ずしも積極的な姿勢をとっていない。明朝は、1557年、海賊征討を援助したポルトガルにマカオの居住権を与える。ポルトガルはそこを金や銀、磁器、アヘンなどの貿易の中継点、ならびにキリスト教布教の基地として利用する。アヘン戦争まで、マカオは中国で西洋人の居住が唯一許された地域である。1887年にポルトガルと清朝との条約で正式にポルトガル領に組みこまれる。51年、中華人民共和国は、香港同様、マカオを祖国統一の対象とする。

 1966年、マカオで暴動が発生、ポルトガルが鎮圧に失敗する。このとき、中国はマカオを実質的に掌握し、回収しようと思えばできる状況にある。当時のポルトガルはアントニオ・サラザールによる長期独裁政権で、アフリカの植民地で独立運動を始まると、容赦なく軍事制圧を実行し、国連から非難されるような体制である。ところが、中国共産党はマカオ獲得の意思を見せない。

 75年にポルトガルのファシスト体制が崩壊し、民主政権が樹立される。新生民主ポルトガルは反植民地主義をとり、マカオの返還を中国に打診する。けれども、北京は香港が片付いていないことを理由に断っている。79年に両国が国交を樹立し祭、マカオの主権は中国、統治権はポルトガルにあると確認するにとどまる。香港の後追いをするように、86年から両国間で返還交渉が始まる。87年に返還時期を1999年12月20日とする協定が両国の間で締結、その通り実施される。2050年まで現在の社会・経済システムが継続されることが基本法で保障されている。

 また、19世紀にアフガニスタンが建国された際、当時の国王はワハン回廊の領有を拒否し、イギリスが補助金を払って渋々了承させている。ワハン回廊はワハン渓谷とも呼ばれ、アフガニスタンの領土の中で中国と接する虫垂のような形をした地域である。7世紀にこの地を訪れた三蔵法師こと玄奘は、『大唐西域記』の中で、自然環境は苛酷で、麦や豆がとれる程度、良馬の産地だが、住民は粗暴で礼儀知らず田舎者と記している。国王にすれば、あんな山奥のあんな連中とはかかわりあいになりたくないというわけだ。

 19世紀、イギリスは南下政策を進めるロシアとユーラシア大陸各地で対立を繰り返している。これを「グレート・ゲーム」と呼ぶ。インドを支配するイギリスは、ロシアの勢力拡大を牽制・阻止するために、二度もアフガニスタンに軍を進め、フリードリヒ・エンゲルスが予想した通り、手痛い目にあっている。第一次アフガン戦争(1838〜42)は完敗、第二次アフガン戦争(1878〜80)は同国の保護国化には成功するものの、2001年から始まったアフガン戦争とほぼ同様の状況に陥っている。世界最強の海軍国イギリスではあるが、このヒンズークシ山脈の戦闘での主力はインド兵で、多くが犠牲になっている。なお、ヒンズークシとは、ペルシア語で、「インド人殺し」の意味である。他に、ロシアの支援を受けたイランがアフガンに侵攻したのにイギリスが対抗、このイギリス=イラン戦争の結果、1857年、王国のイランからの独立を認めさせている。

 こうしたグレート・ゲームが進展する中で、イギリスとロシアが直接接触しないように緩衝地帯を設けることが考え出される。そのために誕生したのがアフガニスタンである。ワハンがアフガニスタン領に入らなければ、英露が国境線で対峙してしまう。窮した挙げ句、大英帝国は補助金を支払うことで、領土に組み入れることを国王に何とか同意させている。

 以上のように、領土問題がゼロサム状況であっても、関係国の間で領有をめぐって対立するとは限らない。その件で排他的な熱狂が生じるのには別の要因も絡んでいる。

 領土や権益をめぐって関係国の政治家やメディア、世論が沸騰するようになったのは、19世紀後半からである。近代化が進む国家では、人々の政治参加が拡大し、国民意識が形成される。政府や議会を握る旧来の政治勢力は、有権者数が増大すれば、相対的に支持層が小さくなる。支持層の拡大・強化を講じるが、資本家と労働者を初めとして有権者間には利害の対立がある。そこで、ナショナリズムが選ばれる。これならば、敵を国の外に設定できるから、有権者間の利害対立が少なくてすむ。

 支持が弱まった政治家や政党がナショナリズムに訴える作戦は成功する。しかし、それは外交交渉を窮屈にしている。領土や権益の問題で他国に譲歩すれば、「弱腰」と罵られ、国民からの支持を失ってしまう。一切の妥協が外交交渉で許されないとすれば、戦争の選択しかない。政府はさして重要でもない領土や権益のために、国費と兵員を投入しなければならない。欧州以外の地域で列強は無益な衝突・紛争を繰り返す。戦争はもはや外交手段ではなく、選挙活動である。

 こうした経験を経て、責任のある政治家や政党はナショナリズムに訴えることを控えるようになる。けれども、支持が衰えを見せると、それを挽回するために、ナショナリズムに頼る手法が依然として見られる。その典型が1982年のアルゼンチンの軍事政権である。左派勢力の弾圧や経済政策の失敗で人心がすっかり離れた軍事政権は、英領フォークランド(マルビナス)諸島を軍事占領する。国民は領土の獲得に熱狂し、支持は回復したかに見えたが、アルゼンチン軍はイギリス軍にあっさりと敗れてしまう。軍は、国民からの激しい罵声の中、すごすごと兵舎に戻っていく。

 それでも、この手口に依存する政治家や政党は後を絶たない。彼らは支持が弱い、もしくは弱くなるほど、それを挽回しようと強気に出る。しかし、それは外交の選択肢を奪うことになり、今日のように、相互依存が進んだ世界では自殺行為に等しい。ナショナリズムは政治にとってのアヘンである。

〈了〉

参照文献
高橋和夫、『改訂版国際政治』、放送大学教育振興会、2004年
西村成雄他、『現代東アジアの政治と社会』、放送大学教育振興会、2010年