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官僚たちの冬


佐藤清文

Seibun Satow

2010年12月25日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.

T.S. Eliot The Waste Land

 2010年における重大ニュースの一つに、特捜の不祥事が挙げられる。2009年6月、大阪地検特捜部が村木厚子厚生労働省雇用均等・児童家庭局長を虚偽公文書作成・行使容疑で逮捕したものの、担当の前田恒彦検事による証拠の改竄が発覚、2010年9月、寛恕の無罪判決が確定する。ロッキード事件以来続いていた特捜への信頼感はかつてないほど落ちていく。

 ところで、自ら証拠の不整合を見抜いた村木局長が記者会見した姿は、かつてメディアに登場していた高級官僚と印象が異なる。それは、官僚も時代に応じてタイプが変わることを市民に印象づけている。

 高級官僚は時代によって三区分できる。第一は45年から65年までの時期であり、理論型の「夏の官僚」である。第二は、そこから93年までの時期、調整型の「秋の官僚」である。第三はそれ以後の時期であり、実務型の「冬の官僚」である。この区分は便宜的である。霞ヶ関の文化が突然変わるわけではなく、過渡期がある。

 終戦から高度経済成長期の間、官僚は明確な国家目標に向かって、政策を立案、資源の選択と集中を進める。霞ヶ関は、自分たちが日本を背負っているのだという強烈な自負心と責任感に溢れている。省内で激しい理論闘争を繰り返し、不合理だと思えば、そんな要求をする政治家との対決も辞さない。それはまさに城山三郎の『官僚たちの夏』の世界である。

 夏がすぎれば実りの秋がやってくる。日本は、64年に東京オリンピックを開催、翌年には海外旅行を自由化、68年には完全雇用の達成とGNPが西側第二位に成長する。増えたパイをどう分け合うかが政治課題となり、官僚の仕事もその調整が大きな割合を占めざるを得ない。野人のような猛者は消え、人当たりがよく、バランスに配慮する聞き上手が増していく。調整するには、情報が欠かせない。しかし、それには政界や業界とのやインフォーマルな交流を増やし、親密になる必要がある。ここに不適切な関係が生まれる。かつてのいささか独善的ではあっても清廉潔白な国士に代わって、霞ヶ関に清濁併せ呑む政治的人物が支配的になる。

 秋の後には厳しい冬が訪れる。バブル経済が急速に収縮し、日本は長期に亘る慢性不況に陥る。パイを分け合うどころではない。連立政権が常態化し、各種の「改革」が政治課題として浮上してくる。問題山積で、国家の目標さえはっきりしない。おまけに、前タイプの官僚のしでかした数々の不祥事が明るみに出て、霞ヶ関の権威は失墜する。冬の備えがおろそかだったこの状況下、官僚は確実に当座の実務をこなすことに専念する。個性的でもなければ、人づきあいがいいわけでもない。おとなしく、面白味に欠け、ただ与えられた仕事を黙々と処理する。インフォーマルなつきあいを必要としないのだから、政界や業界との癒着も生じない。前田検事の筋の見立て自体古臭いということになる。

 旧来型の官僚も省庁内にはまだ残っているし、天下り先にはそうした体質のOBも少なくないだろう。けれども、霞ヶ関の主流は冬の官僚が大半である。彼らに理論や調整は期待できない反面、実務処理能力に長けている。政治家は現在の官僚のタイプを承知した上で、彼らと交流し、政治課題にとり組む必要がある。政治家にはヴィジョンと調整力が要求され、それに乏しければ、政官がかみ合わなくなる。自民党は調整型の官僚と連携することに慣れていたが、変化に対応できていない。また、民主党もそれを十分に理解していない。

 春の官僚が出現したとき、日本社会が新たな時代を迎えるだろう。しかし、それがどういうタイプなのかはまだ予想がつかない。冬のすごし方によって決まる。冬は厳しさにたるだけの時期ではない。そこに春の暖かさの予兆を見出し、そのときに備えて十分に用意をしておく。冬を見ているだけでは、それを理解できない。春を思ったとき、冬の真の姿がよくわかる。

〈了〉