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公共芸術と太陽の塔


佐藤清文

Seibun Satow

2011年3月1日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「ほんとうの対決というのは、自分を相手にぶつけ、相手も自分にぶつかってきて、お互いがそれによって、活きることが対決なんだよ。」。

岡本太郎

 その高さ65mに及ぶ巨大な塔の写真や映像を見た瞬間、そこで語られているのが1970年3月14日〜9月13日まで開催された大阪万博あるいはその時代だと認知できる。それはまさに完璧なシンボルである。太陽の塔は岡本太郎の代表作である同時に、現代公共芸術の最高傑作の一つである。

 公共芸術は、公共空間に市民が共有する理念を具現化した美術展示品である。公共芸術は消費の非競合性と消費からの非排除性の二つの仮定を満たす公共財である。ただし、非排除性に関しては、その公共空間への入場料金が設定されている場合もあり、「準」と附加すべき作品も少なくない。いずれにせよ、公共芸術は、一般の美術品と違い、投機の対象にならない。

 明確に理念を示すため、公共芸術では一義的なシンボルもしくはシンボルの作用を持つイメージが用いられる。シンボルは、各種のシンボル事典が刊行されているように、社会的に認知されており、芸術家の恣意性が入りこむ余地はない。十字架と言えば、それはキリスト教のシンボルである。この宗教が世界的に定着した現在、その認知は揺るがない。シンボルはなんとなくそう思われている表象ではなく、その起源・意味を説明できる社会的に共有されている記号である。

 シンボルは時代によって変化する場合もある。初期キリスト教会では、それは魚である。弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描く。魚はギリシア語で「イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)」と言い、それは「イエス キリスト 神の 子 救世主(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ) 」の頭文字に当たる。加えて、福音書に魚の比喩が用いられているというのも理由の一つである。ユダヤ教が肉食を推奨していたのに対し、その違いを示すために、かつてはキリスト教徒が魚食にアイデンティティを見出している。修道院によっては肉食を禁止し、魚食を実践していたところもある。また、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』も、下書きの段階では、メインディッシュが魚だったと判明している。

 ところが、日本の公共芸術の大半はその名に値しない。駅前広場や自治体の管理するスペースに設置された彫刻や彫像は制作者の恣意的な思いつきや思いこみだけで、理念を表象するシンボルがない。全裸の少女像には、どのシンボル事典を開いてみても、市民が共有する公共の理念が見つからない。オブジェに至っては曖昧で、シンボルの機能を持っていない。制作者も依頼主も公共芸術が何たるかをまったく理解していない。無知蒙昧と厚顔無恥を具現化しているにすぎない。これこそ「無駄な公共事業」である。公共芸術において自治体の「有益なる怠惰」はあり得ない。

 岡本太郎の太陽の塔は、こうした無内容の見本と違い、現代における公共芸術とは何かという問いに向き合っている。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」である。問題となるのは、それを表象している作品であるかどうかだけである。

 岡本太郎がシンボルに関して、太陽の塔以前より深い理解を持っていたことは、千葉茂監督に依頼されてデザインした近鉄バファローズの球団マークからも読みとれる。この前衛芸術家は1959年3月10日付『毎日新聞』に次のようなエッセイを寄せている。
 先日、千葉君から「バファロー」の旗印を頼まれた時、すっかりうれしくなって、二つ返事で引き受けた。
 ところが、バファローを象徴化しようとするのだが、この牛みたいな動物、一般の日本人にはなじみがない。字引を引けば何のことはない、水牛だ。しかし、アメリカ当たりで、俗にバファローというのは北米に住む原始的な野牛パイソンのことだ。首が寸づまりで、こいつはドウモウだが、鼻づらが小さくて、あごひげがはえ、角はわりに細くて曲がっている。うっかり様式化するとヤギ面になってしまう。牛では困るし、牛でなくては困る。また「絵」ではマークにならないし、ただの図案ではつまらない。しかも、《私》らしさが生きなければ、わざわざ頼まれたかいがない。苦心した。

 岡本太郎がシンボルの役割を本質的にわかっていたことはここからも判断できよう。

 こうした認識を有する岡本太郎が作成した太陽の塔は、全体ならびに部分までもすべてにシンボルが使われている。詳細は割愛し、大まかにしか言及できないが、それぞれに曖昧さがない。塔の高さは65m、底の直径は20mであり、未来を表わす上部の黄金の顔、現在の正面胴体部の顔、過去を示す背面に描かれた黒い顔の3つの顔を持つ。この他、地下空間も設けられており、そこにも「地底の太陽」と呼ばれる第4の「顔」が設置されている。

 地下に 過去、すなわち「根源の世界」が設けられ、生命の神秘を意味する。地上は、現在の「調和の世界」であり、現代のエネルギーが表わされている。空中は未来である。それは「進歩の世界」であり、分化と統合が物語られる。塔の内部には、高さ45mの「生命の樹」がつくられ、それは生命を支えるエネルギーの象徴である。未来に向かって伸びてゆく生命の力強さを表現している。生命の樹は、単細胞生物から人類が誕生するまでを約300体の模型をシンボルとして用いて辿っていく。

 この塔は、丹下健三が設計した「お祭り広場」中央にその全体を覆う銀色のトラスで構築された大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられ、テーマ館の一部も担っている。観客は、万博会期中は、「過去」の地下部分から透明のトンネル状の通路を抜けて太陽の塔内に入るようになっている。過去を通らなければ、現在に至れない。

 過去・現在・未来の三つの世界の中でも、最も古い時期に関して岡本太郎の強い表現意欲が感じられる。現在と未来は万博全体のテーマを記号化している。彼はその表われを可能にする根源として過去を具象化している。

 岡本太郎は過去に対して鋭い洞察を有している。彼が縄文文化を高く評価していたことはよく知られている。日本の思想史・文学史には、国学以来、『万葉集』・『古事記』に日本固有の心性があるという信念がある。しかし、これは、美術史から見れば、滑稽なイデオロギーでしかない。弥生時代以降、朝鮮半島や中国大陸の文化圏に組みこまれたが、縄文時代の土器・土偶はそうした影響を受けていない。また、弥生時代から美術品の制作者はほぼ男性に独占されているけれども、それ以前は事情が違ったと推測されている。さらに、縄文美術は呪術性が著しく強く、その後の簡素でストレートな傾向と一線を画している。もし国学の主張する漢意のないやまとごころを日本の固有さに認めるとしたら、縄文的なものがそれに当たるのであり、『万葉集』・『古事記』は外来に汚染されている。『万葉集』・『古事記』を相対化できない垢抜けない迷信を続けていては、思想史・文学史研究は田舎根性から抜け得ない。岡本太郎は、こうした浅はかで狭量な連中と違い、はるかに根源的である。

 公共芸術としての太陽の塔の重要性は作品自体だけでなく、ことによってはそれ以上に、過程にある。この奇抜な塔の構想を岡本太郎が明らかにすると、思いとどまるように彼の元を数多くの関係者が訪れる。しかし、この塔の意味を説明して一人一人を説得し、最終的に全員から賛同を受けている。ユルゲン・ハーバーマスは、『公共性の構造転換』の中で、現代における公共性はコミュニケーション過程を通じて形成されると指摘している。太陽の塔が公共芸術としてふさわしいか否かが一人の芸術家だけでなく、多くの人々とのコミュニケーションによって判断されている。

 公共芸術は市民と芸術家に本質的な問いを突きつける。市民には、公共性とは何か、あるいは公共空間とは何か、そこで共有する理念は何かの再考を促す。他方、芸術家には、世界に向けて発信すべき現代における美とは何かを吟味することが求められる。公共芸術には、こうした問いを自覚させるため、サイズの大きさが要求される。大要の塔はまさにこれらに適っている。

 公共芸術の性格をよりはっきりさせるために、他のケースにも言及してみよう。公共芸術を語る際に欠かせないのがクリストである。彼は公共空間・建築物を包装する芸術家として知られている。中でも、最高傑作はライヒスタークの包装だろう。最初にアイデアが構想されたのが71年であり、実現したのは95年である。

 ライヒスターク(Reichstag)は、1871年のドイツ統一を記念して、74年に完成した「帝国議会議事堂」である。この建築物はドイツの近現代史をまさに象徴する。1918年11月9日皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命、ベルサイユ講和会議は彼を戦争犯罪人として訴追するも同国が引渡しを拒否、19年8月11日、新政府は議会制民主主義に立脚した連邦共和国と宣言され、世界で最も革新的なワイマール憲法が施行される。ところが、33年2月27日、ナチスが議事堂を放火、それを共産党の仕業にでっち上げて弾圧、全体主義体制へとドイツは突き進む。45年4月30日、ベルリンでのドイツ軍と最後の戦闘の後、ソ連兵はその屋根に昇り、大きな赤旗を掲げ、第三帝国の滅亡を世界に発信する。ドイツは東西に分断され、それは西側に組み入れられたが、ドイツ連邦共和国は首都機能をボンに置いたため、ドイツ歴史展示場として使用される。61年8月13日、ドイツ民主共和国はベルリンの壁を建設、それはその建物のすぐ後に迫っている。89年11月9日、ベルリンの壁が崩壊、90年10月3日、東西ドイツは統一、首都はベルリンと制定され、ライヒスタークは連邦議事堂として復活、現在に至っている。

 こうした歴史を持つ公共建築を包装するというプロジェクトに対し、賛否両論の間で議論が重ねられる。94年2月25日、連邦議会においてこれを認める旨の法案が記名投票の末に可決、詳しい結果は賛成292、反対223、棄権9、無効1である。85年6月23日から7月6日までの二週間、ライヒスタークは包装される。その光景を眼にした瞬間、反対論は消えていく。直接的経費だけで1150万ドイツ・マルク、当時のレートで約7億円がかかったが、それはクリストの自腹である。今は、そして、あの作品はもう跡形もない。

 クリストは岡本太郎とアプローチが違うが、公共芸術をめぐる状況をよく物語っている。異なっていながらも、両者共に公共芸術を通して今日における芸術ならではの表現を提示していることが理解できる。

 公共性は現代社会における最も重要な課題の一つである。現代社会に直接的に向き合ったポップアート以後、公共芸術はその方向性を最も推し進めている。公共芸術は、その芸術家に十二分な社会性がないと、創作できない。現代の芸術家は感性や直観を表現していればいいというわけにはいかない。芸術家は、市民とのコミュニケーションという相互作用を通じて、社会的課題と現代の美を表現しなければならない。公共芸術は、芸術家と市民が理念を共有し、社会をよりよいものにしていこうとする意思の表われである。

 このように考えてくると、岡本太郎のあの言葉の意味が真に理解できるだろう。

 「芸術は爆発だ!」

〈了〉

参照文献
青山昌文、『改訂版芸術の理論と歴史』、放送大学教育振興会、2006年
岡本太郎、『日本の伝統』、知恵の森文庫、2005年
ユルゲン・ハーバーマス、『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 第2版』、細谷貞雄他訳、未来者、1994年

アト・ド・フリース、『イメージ・シンボル事典』、山下主一郎訳、大修館書店、1984年
ハンス・ビーダーマン、『図説 世界シンボル事典』、藤代幸一他訳, 八坂書房、2000年
太陽の塔
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kitada/doc/taiyo/