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半世紀の間に
70人の皇帝が誕生した時代


佐藤清文

Seibun Satow

2011年6月5日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「心の調子について一言すれば、不確定だからなんとかなるという心のほうが、不確定では心配だという心よりは、有利だと思う」。

森毅『受験数学居なおり術』

 危機的状況にある国家を立て直そうと努力するが、それはさらなる混乱を招く結果に終わる。この人物は指導者になるべきではなかったと周囲から引きずりおろされ、他の人がとって代わる。しかし、その後も意に反して、事態の深刻さは増すばかりで、短期間のうちに、また指導者が交代する。安倍晋三が政権を投げ出してから、日本の政界もこの悪循環に陥っているが、歴史にはそれ以上の前例がある。3世紀の帝政ローマでは、半世紀の間に、実に、70人の皇帝が乱立している。歴史家はその時期を「軍人皇帝の時代」あるいは「3世紀の危機」と呼んでいる

 始まりは235年のマクシミス帝の登場である。東部国境勢力を拡大しつつあったササン朝ペルシアの軍勢を討伐するため、セウェルス・アレクサンデル帝が軍を率いて戦ったものの、はかばかしい成果が上げられない。そこでゲルマン人を叩こうとライン川へ向かったが、その際、ペルシアと金銭による和平を試みる。これを知った兵士たちが軟弱な策を弄したと激怒し、帝のみならず、その母まで殺害、将軍マクシミヌスを皇帝に推戴する。このトラキア出身の牧童が元老院から登位の承認を得る見込みはまったくなく、また軍全体の支持をとりつけるのも厳しい。彼は兵士を味方につけようと給与を上げ、その財源として有産者の財産や神殿の資産をとり上げる。3年後、軍体内で反乱が起き、マクシミヌスは殺害される。

 この235年のマクシミヌス帝の即位から284年のディオクレティアヌス帝に至るまでの間、正統と見なされた皇帝が26人──うち殺害23名、戦死1、病死1、消息不明1──、共同統治者の副帝3人、地方勢力に担ぎ出された未公認皇帝41人が登場、これらのほとんどが軍人である。

 なぜこのような混乱に陥ったのかに関して、歴史家は財政危機と領土の肥大化を主な原因に挙げている。軍人皇帝時代の混迷はその前に用意されていたのであって、それが表面化したと考えるべきだ。2世紀後半のコンモドゥス帝の治世のときに財政危機が始まる。ところが、歴代皇帝は規律の健全化や税制改革ではなく、通貨の増発で事態を乗りきろうとしている。当時は紙幣ではないので、大量の銀を発行するために、銀の含有量を減らしている。膨張政策に伴い、軍の発言力が著しく高まり、優遇策をとらざるを得ない。帝国を防衛しているのは軍であり、その拡充が公共の利益につながる。しかし、当然、インフレが進み、238年以降、それは急加速する。

 また、支配領域が拡大しすぎたため、国境を警備する兵士を地元から重用せざるを得なくなる。しかも、ローマは遠く、有事の際にも、援軍がすぐには到着できない。各軍が地方に密着し始め、独立心と他との対抗意識が強くなる。兵士たちは帝国全体ではなく、所属する地方軍への忠誠心を優先させ、自分たちが信頼する将軍を皇帝に推戴する。彼こそがこの乱れきった社会をよくしてくれるはずだ。しかし、そうすると、他の軍も黙ってはいない。あいつは信頼ならないとおらが将軍を皇帝に担ぎ出す。財政悪化が続く中、こうした論理で地方の将軍が皇帝に即位し、成果どころか、事態をより混迷させて怒りと失望の声を浴びながら、この世を去っていく。

 危機の克服を理由に下から突き上げてトップの座に着くと、自身にも同様の状況が待っている。この混乱は上層部の統制が下層に及ばなくなって起きている。強いリーダーシップがこれを収拾させるというのは素朴な考えである。顔の見える人間関係の中で彼が選ばれたのは将来的なヴィジョンではなく、信頼感や勇気といった曖昧な人間性である。その外部でそれが共有できるとは限らない。ヴィジョンがないままでは、復古主義や場当たり、思いつきで政治を行わざるを得ない。

 3世紀の危機を終息させたのがディオクレティアヌス帝である。この解放奴隷出身の軍人は広大な領土を一人の皇帝で統治するのは現実的には不可能と考え、二人の正帝と二人の副帝による四分治制を敷く。属州を細分化して12の管区に再編成し、それに伴い、官僚制を整備、軍民分離を実施する。元老院を事実上消滅させ、皇帝と官僚による中央集権的な統治を強化する。人口調査・土地測量を断行、税制改革と通貨の安定に着手している。

 ディオクレティアヌスの政策は一定の成果を上げたが、必ずしもは目覚しくはない。軍隊が支持基盤であり、その増強を続けている。また、改革を進めるためには、実務を担当する官僚と既得権益に執着する軍隊の協力が不可欠であり、その優遇をとらざるを得ない。歳入は増えたものの、歳出も増加し、インフレはとまらない。産業振興にまで至らなかったため、人々には物価高と重税感も募る。305年にディオクレティアヌスが亡くなると、ローマは再び派閥抗争が始まる。ただ、元の木阿弥というわけではなく、後継者たちも彼の改革路線を堅持している。

 どれだけ混乱していても、この間、皇帝やその支持者たちは事態を悪化させようとしていたわけではない。もともと、将軍であるから、リーダーシップもある。また、軍隊や官僚も同様である。ところが、彼らが正しいと思ったことをするほど、どつぼにはまっていく。局部ばかりに囚われているからそうなってしまうのであって、全体を見ればいいと思ってみたものの、帝国が広くなりすぎて、それがつかめない。危機に陥ると、既存秩序が崩れ、社会が断片化してくる。全体が見えにくいので、確かさがつかめるいくつかの断片に着目して、それを拡張して類推する。うまくいかないと、選んだ断片が間違っていたと、別を探し始める。

 ディオクレティアヌスがそんな混迷を収集できたのは、彼が曲がりなりにも将来的なヴィジョンを持っていたからである。混乱の際に、理論を軽視すべきではない。それは他者との意識の共有を可能にするから。その理論が論理的に精緻である必要はない。他者が共有できて、やりくりする際に使い勝手がいいプロトタイプであればいい。ディオクレティアヌスの理論は「再編と集中」に要約できる。巨大化した帝国を再編して分割統治しつつ、税制改革を進め、官僚制を強化して中央集権化の国家体制を構築する。これはローマ的と言うよりは、ペルシア風であるが、ヴィジョンを提示したことがその前の皇帝たちと彼を分かつ。

 このローマの歴史を見てくると、今日の日本の政治とも重なるところがある。強いリーダーシップを備えた指導者がこの危機を救うと多くの人が口にする。短期間で内閣総理大臣が下から突き上げられて交代するが、危機は深まるばかりで、また地方の首長が首相気取りで振る舞っている。まったくのヴィジョンもない人物が身内の都合や世間の人気で選ばれ、復古主義や場当たり、思いつきの政策が打ち出される。政権交代に期待したものの、民主党は無様な失態を繰り返し、人々から怒りと失望をかう。とは言っても、民主党が日本を混乱に陥れているとして、自民党政権を懐かしむとしたら、それはあまりに近視眼的である。今の混迷はその時期に用意されていたからである。民主党は期待はずれ、自民党は利権まみれでは有権者の選択肢はあまりにも狭い。何しろ、「持続可能性社会に向けて─循環と協創」という程度のヴィジョンさえいまだに政治家から聞こえてこない。

 バラバラの断片をつなぎ合わせるのは理論の力である。それなくして、首相を交代させても、大連立をしようと、混乱は増すばかりだ。政治家も財界人もジャーナリストも有権者も気づくべきである。危機を克服するために、リーダーシップを求めても効果的ではない。まず理論だ。

〈了〉

参照文献

村川堅太郎他、『ギリシア・ローマの盛衰』、講談社学術文庫、1993年
本村凌二他、『古代地中海世界の歴史』、放送大学教育振興会、2004年
森毅、『居なおりのすすめ』、ちくま文庫、1993年