エントランスへはここをクリック   


自己主張する日本国憲法

佐藤清文
Seibun Satow
2012年11月3日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「自らが現代社会によって状況づけられており、その中でいやおうなく一つの立場をとらざるを得ない」。

ジャン=ポール・サルトル『シチュアシオン2』


 御厨貴放送大学教授は、2012年10月28日放映の『サンデーモーニング』において、日本の保守と革新には「ねじれ」があると指摘している。戦後憲法を変えようとするのが保守で、守ろうとするのが革新であり、これが「ねじれ」だというわけだ。しかし、日本における保守と革新は戦前をどう捉えているかに区別が求められる。戦前を復古させようとするのが保守で、それを許さないのが革新である。革新が守ろうとする現憲法と自民党の憲法草案とを比較すれば、一目瞭然だ。前者が20世紀後半以降の時代精神に基づいているのに対し、後者は19世紀後半であり、こういうのを一般的に「反動」と呼ぶ。ここに「ねじれ」はない。

 確かに、「革新」は、通常、現状打破や改革の意味で使われる。戦前、「革新」は、革新官僚のように、議会制民主主義を否定し、ナチス・ドイツのような全体主義体制を志向した勢力を指して用いられている。右翼と呼んでいい岸信介が「革新官僚」と呼ばれた理由はそこにある。ただ、平沼騏一郎ら観念右翼は新体制運動を江戸時代への回帰と見なしている。

 御厨教授は、『「保守」の終わり』(2004)において、興味深い保守と革新に関する考察をしている。しかし、今回の「ねじれ」論が展開されてしまった理由は、ドイツと違い、日本では戦後民主主義体制の尊重が政治参加において共有されていないからだろう。

 都議会新会派「東京維新の会」は、12年10月4日の都議会第3回定例会最終本会議において、現行の日本国憲法を無効とし、大日本帝国憲法の復活を求める請願に賛成している。地方自治は日本国憲法によって立憲主義に位置づけられたのであり、それを地方議員が否定することは自殺行為である。

 大日本帝国憲法は、制定当時、君主を立憲主義に位置づけた点などで欧米から評価されている。しかし、第一次世界大戦後には、国民主権を欠いている点を代表に時代遅れと国際的に見なされている。国民主権が前提の国際条約との兼ね合いが悪く、改憲が必要である。国際法は国内法より優先される。だが、天皇主権の欽定憲法だったため、それが事実上閉ざされている。

 こうした議員がドイツにおいて活動できる余地はない。ドイツでは戦後の価値観を尊重しないものは政治参加を許されない。ドイツ基本法は、「戦う民主主義(Streitbare Demokratie: Militant Democracy)」の現代憲法である。ドイツ基本法は「自由で民主主義的な基本秩序」を自らの価値として主張する。この具体的な内容は、連邦憲法裁判所が次のように規定している。基本法に具体化されているさまざまな人権、特に生命及び自由な発展のための人格権の尊重、国民主権、権力分立、責任内閣制、行政の法律適合性、裁判所の独立性、憲法に適合した組織と活動を行う反対党の権利を伴う複数政党制、すべての政党の機会均等などである。この基本秩序を侵害する個人・結社・政党などは「憲法の敵」として基本権の保障を与えられない。

 この戦う民主主義に対して憲法愛国主義という批判もある。変化が激しく、価値観が多様化・相対化する現代において、憲法がそれを規定するのはふさわしくないのではないかというわけだ。しかし、その多様性・相対性を確保するために、戦う民主主義が必要とされているのであり、こうした批判は必ずしも適切ではない。

 この思想はナチスの経験を踏まえている。けれども、その源流はそれ以前のデュルケムに見られる。

 エミール・デュルケムは、『道徳教育論』(1925)において、規則の自己主張としての罰を論じている。罰は規則違反の予防手段でも、罪への応報でもない。それは規則が自らへの挑戦に対する自己主張である。違反は規則にとって攻撃を意味し、それに対抗して立ち向かう力を示すことが罰にほかならない。違反は、動機はともあれ、規則を破ってよいという主張である。規則は、その挑戦に対して、守らなければならないと異議申し立てをするために罰を持っている。違反は社会的な意味を有し、規則はその反論として罰を用いる。

 この自己主張論を発展させたのがジャン=ポール・サルトルの「アンガージュマン」である。個人の行為は社会との関わり合いから捉えられる。それは社会的な意味を持つ自己主張である。現代憲法は、この意味で、実存主義的憲法と言える。

 日本国憲法は近代憲法に属するとされている。それは国民主権と基本的人権を保障するための為政者の権力制限を原理としている。日本国憲法は、制定から半世紀以上が経ち、なおかつ一度も改正されていないにもかかわらず、比較法学において国際的に非常に高い評価を受けている。

 ワシントン大学教授デヴィッド・ローとヴァージニア大学准教授ミラ・ヴァースティーグは、2012年、『没落する合衆国憲法の影響』と題する論文を発表する。これは、1946年から2006年までの期間に制定ないし改正された世界188か国の憲法を調べ、権利とその保障に関する項目を比較・分析した研究である。世界の憲法が採用している権利保障のベスト20のうち、実に19も入っている日本国憲法は世界で最も先進的である。変更する必然性はない。ちなみに、しばしば取り上げられる9条のような条文は多くの国の憲法で記されている。思いつきや思いこみだけで憲法を論じるべきではない。

 ※ベスト20のうちひとつ抜け落ちているのは推定無罪
   
 戦後民主主義がさまざまな問題を抱えていることは確かである。しかし、だからと言って、それを否定し、現行憲法を変更するのは未熟な暴論だろう。外交における交渉力の乏しさを憲法のせいにする見苦しさを何度となく目の当たりにする。これはそんな例だ。むしろ、あるがまま認めて、そこからどうするかを考える方が健康的である。日本国憲法にコミットメントする必要がある。

 日本国憲法を現代憲法と解釈すべき時が来ていると認知すべきだ。司法のさらなる民主化や市民の参加の観点からもこの方向性は必要である。先の都議会議員や石原慎太郎、安倍晋三、橋下徹などを始め、憲法が保障する権利を利用して、それをもたらした価値観を否定する改憲論を主張する政治勢力がいる。他人に厳しく自分に甘い彼らは、現代憲法はおろか、近代憲法が何たるかさえを理解していない。憲法の精神に反する変更は整合性を欠く。改憲論は社会的意味を持っている。自身が主張する戦後民主主義体制の価値観への挑戦に対して日本国憲法は異議申し立てをする。日本国憲法は自らの敵と戦う。

〈了〉

参照文献
廣渡清吾、『比較法社会論』、放送大学教育振興会、2007年
御厨貴、「保守」の終わり』、毎日新聞社、2004年
ジャン=ポール・サルトル、『サルトル全集9』、加藤周一他訳、人文書院、1962年 
エミール・デュルケム、『道徳教育論』、麻生誠他訳、講談社学術文庫、2010年
佐藤清文、『衆知としての日本国憲法』、2012年
http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/otjc.html