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被災と物語

第四章 葬儀

佐藤清文
Seibun Satow
2014年3月11日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第4章 葬儀

 死者を葬る儀礼が葬儀である。葬式をなんとなくすることはない。非常に明確な意図を持って執り行われる。それは遺体の処理と生者の相互行為の儀礼である。これにより生物的死から文化的死が分けられる。

 生物的死においてすべての動物に違いはない。人間と畜生、虫けらも死ぬことでは同じだ。貧富の格差もない。一方、文化的死は存在するものを区別する。人間と動物を分けるだけではない。生前の社会的属性・身分・地位・財産などが死者の扱いに反映され、残された生者も異なった対応をする。

 遺体は放置していても、通常、腐敗して自然に帰っていく。人間はそこに手を加えて、その過程を促進させる。そうやって、死者を文化的領域に位置づける。また、葬儀は社会や時代、文化によって非常に多種多様である。相互行為であるから、このように多彩になる。

 こう考えてくると、葬儀を執り行う宗教がその共同体において最も中心的なそれだということになる。その国や地域の文化的に属する宗教が何かを知ろうとするなら、葬儀をどこが担当しているかを見ればよい。「葬式仏教」という揶揄は決して正当ではない。

 近世仏教の実態について近年新たな研究が進んでいる。今一般に流通している近世のイメージは80年代前半までの成果に基づいている。それは主に文書史料の読み解きによって形成されている。しかし、80年代後半のバブル経済は多くの開発事業をもたらし、それに伴い、大量の考古史料が発掘される。それは近世の歴史研究にも考古学的アプローチが本格的に導入されることを意味する。その成果を根拠にした文書史料の再検討も促される。文献史料が残っていない対象を扱え、あっても記されていないことを明らかにでき、執筆者の視点に規定されない見方を持てるなどの利点がある。考古学なしの近世研究はもはやあり得ない。政治史に偏りがちだった近世史研究はより広範囲な社会史へと関心を拡大する。要求される実証性の質の向上によって史料の読み取り方も繊細になっていく。近世仏教の実態もこうした史学の転換により変更されつつある。朴澤直秀日本大学准教授の『幕藩権力と寺檀制度』(2004)はその一例である。

 また、第二次世界大戦後、福祉国家の英国が「ゆりかごから墓場まで」と唱えたのも葬儀の目的を考慮してのことだ。しばしばレトリックとして日本では扱われ、福祉の専門家以外にはそれが実態を示していると知られていない。墓地は福祉・行政サービスの一環として、都市計画に盛りこまれている。死が文化的領域に属するのなら、墓場にも格差が生じる。

 公共部門が先進国最小の部類に属しているとは言え、日本も福祉国家体制を採用している。経済的理由により葬儀・埋葬が困難である場合、相談すれば、自治体が解決策を提案する。近年社会問題化している孤独死は忘れられた死者となる可能性が高い。生者に記憶されていることが死者の幸福であるとするなら、供養が必要である。引き取り手がない遺体は、発見地の自治体が合同の無縁塚もしくは無縁墓に埋葬している。

 さらに、福祉国家の限界も露呈している。グローバル化に伴い、国内に居住するイスラームの信徒数が増加している。かつては大都市圏に住む人が多かったが、今では地方にも広がっている。最後の審判の後の復活を待つために土葬が前提であるので、埋葬許可や墓地確保などの課題が顕在化している。これには地域コミュニティと信徒、行政が話し合うほかない。葬儀においてもコミュニケーションを通じた動的解決の時代を迎えている。

 葬儀は文化的死のために行われる。それゆえ、死者も文化的である。死者は、単独ではなく、彼らだけの共同体に属している。それには、「あの世」を始めさまざまな呼び名はある。「あの」は話し手と聞き手のいずれのテリトリーにも属していない対象に用いる指示代名詞である。それは死者の世界を指すのにふさわしい。その死者の世界は生者の社会観がよく反映される。世界宗教は死後の世界も詳細に構築し、現世との異質さを強調する。それに対し、無階級社会では、彼岸も平衡性が高く、此岸との連続性も強くなる。他者の死の意識が非常に強い反面、自分の死には無頓着ですらある。「お迎えかい?」

 死者は生者の記憶と忘却の間にいる。死者は生者に自分を覚えていることを望む。日本で僧侶が無縁仏を葬り、定期的に念仏を唱えてきたのは、忘れていないことを死者に伝えるためだ。少なくとも一人は愛情を寄せる人がいると死者は安堵する。

 けれども、生者はいつまでも死者に懐かしさや悲しさを抱き続けることはない。死者の時間は止まるが、生者のそれは動いている。死者はいつまでも変わらない。一方、生者は年をとる。愛着は時間の経過と共に蓄積されていくものだ。生者同士はそれが共有できるが、死者とは困難である。

 いるべき時に、いるべきところにいるべき人がいない。そう感じた時、その人が死者になったと生者に意識される。この喪失感が悲しみや嘆き、怒り、虚しさをもたらす。記憶が蘇ってくるからだ。

 死者は生者の世界にはもういない。生者の世界に死者の占める場所はなくなる。しかし、その喪失が生者の世界の秩序を不安定化する。生者は死者にふさわしい位置づけをどこかにしなければならない。それがなされない間、死者は生々しく生者に感受される。葬儀は生者の世界の秩序を回復する儀式である。

 葬儀が執り行われないために、生者の世界が混乱する。それは中国で現実の抗議活動として使われている。上田信立教大学教授は、『武器としての死体』において、そうした歴史と実例を紹介している。

 中国では、遺体を使った抗議が伝統的に見られる。明の時代の書物にも記録されている。小作人が病気の親に自殺を勧め、その遺体で地主への小作料の支払いを拒否するというのは初歩的なことだ。行き倒れの遺体があると、どこからともなく、遺族と称するものが現われ、その遺体を金持ちや役人の家の前に行き、それを放置するなどということさえある。もっとも、同情できる場合だけでなく、総会屋さながらのケースも多々見られる。

 遺体は邪気を放つ恐ろしいものと考えられている。遺体を安全にこの世から出て行かせるには、正しい手順に則った葬儀が必要である。ところが、それには、遺族の役割が極めて重要になっている。遺族が葬儀を拒めば、いつまで経っても、遺体はこの世にとどまることになってしまい、邪気を放ち続け、社会を非常に危険な状態に陥らせてしまう。そこで、周囲の人々は当事者に働きかけて、和解させようとする。このようにして遺体を放置した人の目的が達成される。

 この考えは革命後も続いている。1988年の夏、中国のある地方政府の門前に遺体が放置される。旱魃のため、収穫が例年の半分に落ちこんだにもかかわらず、地方政府が徴収する税金を変えようとはしない。68歳の男性が農民の窮状を訴えたが、逆に、役人に殴られ、追い返されてしまう。男性は、それに抗議して、首をくくる。真相を知った遺族は憤慨、埋葬をせず、棺を乗せたトラクターを政府の建物の門の中に乗り入れ、タイヤをパンクさせ、そのままにして帰ってしまう。夏なので、遺体の放つ悪臭は相当なものだったと想像するに難くない。1989年冬、事件を知った中国共産党の省委員会の幹部が現地に赴く。幹部は遺族の説得にあたり、問題の役人を処罰する。それに納得した遺族が事件発生から260日後にようやく埋葬している。

 秩序回復のため、生者は死者を先祖として位置づけて受け入れるようにする。近代社会はともかく、伝統的に見れば、先祖祭祀が世界的に広く認められる。死者は葬儀を通じて先祖へと変わり、生者もその喪失感が和らいでいく。当該者の死から一定期間、喪に服さなければならない。その期間は死者との関係によって異なる。この期間を開けた時、生者の世界は日常性を取り戻す。

第五章につづく