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日本型マスメディア万能時代の終焉

佐藤清文

Seibun Satow

初出:2008年6月25日

無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



"Variety's the very spice of life, That gives it all its flavor".

William Cowper "The Task"

第1章 マスメディア広告万能時代の終わり

 『広告批評』が創刊30周年記念号を最後に2009年4月をもって休刊する。2008年5月19日付『日本経済新聞』は、同誌の初代編集長の天野勇吉マドラ出版社長とのロング・インタビューを掲載している。発行部数は2万5千から3万部を維持しており、経営状態は決して悪くはない。にもかかわらず、休刊に踏みきった理由は「マスメディア広告万能の時代は終わった」という判断からである。天野社主は、『広告批評』2008年4月号の編集後記に、「マスメディア一辺倒の時代からウェブとの連携時代へ、ふたたび大きな転換期を迎えています」と記している。ウェブ広告にはそれに適した広告の批評の法論が必要であるが、『広告批評』では扱うことができず、その歴史的役割を終えたというわけだ。

 それを裏づけるようなデータもある。テレビ・新聞・雑誌・ラジオの4媒体の広告は「マスメディア広告」と呼ばれる。電通が毎年発表している『日本の広告費』によると、『広告批評』創刊の1979年、広告費全体に占めるマスメディア広告の比率は77%だったが、2007年は51%にとどまっている。調査対象が当時と今とでは異なっているため、単純比較はできないとしても、マスメディア広告の優位さは今日の比ではない。1979年の総広告費は2兆1133億円であり、前年比114.5%の成長率を示し、新聞広告費が6554億円、テレビ広告費が7508億円と両者の間に今ほどの差はない。80年代、マスメディア広告費は右肩上がりに推移したけれども、90年代に入ると、前年割れするようになり、50%を切るのも時間の問題だろう。

 『日本の広告費』はメディア広告を四つに大別している。マススメディア広告以外は、プロモーションメディア広告・インターネット広告・衛星メディア関連広告の三つである。プロモーションメディア広告には屋外、交通、折込、DM、POP、フリーペーパー・フリーマガジン、電話帳、展示・映像などが含まれる。これは古代ローマの劇場やコロッセウムにも見られる最も伝統的な広告である。また、インターネット広告はウェブ上の広告、衛星メディア関連広告は衛星放送、CATV、文字放送向けの広告を指す。

 2007年版の『日本の広告費』はウェブ広告の伸張とマスメディア広告の低迷示している。広告費全体は7兆191億円となり、4年連続して増加したものの、伸び率は低下している。ウェブ広告費は6003億円で、雑誌広告費の4585億円を抜き、1兆9981億円のテレビ広告、9462億円の新聞広告に次ぐ第三番目の広告媒体に成長している。しかも、新聞広告費は2000年に入ってから急落しており、ウェブ広告に追い抜かれる可能性も現実味を帯びている。インターネット広告費は1997年には60億円だったが、2007年になると6003億円にと10年間で100倍に急上昇し、2004年にはラジオ広告費を追い抜いている。

 マスメディア広告の支配力を脅かしているのは、ウェブ広告だけではない。今回の調査から推定したフリーペーパーやフリーマガジンの隆盛によるプロモーションメディア広告費は2兆7886億円に及び、4年連続で前年を上回っている。また、衛星メディア関連広告費も603億円であるが、視聴者の嗜好や傾向が明確であるため、広告提供者にとってターゲットを絞りやすいメリットがあり、毎年伸びている。さらに、必ずしも広告を目的としていないブログや動画投稿サイトも影響力を持ち始めている。

 広告収入はマスメディアの経営にとって極めて大きい。テレビやラジオの民間放送を受信料を払わずに見られるのはスポンサーがいるからであり、新聞や雑誌が原価を下回る価格で販売できるのも、広告のおかげである。広告費をめぐる状況が変化すれば、メディアの構造も変容せざるを得ない。

 アメリカの新聞業界でも、発行部数が低落し、それに伴い、広告収入も減少している。ネット事業は、苦境の新聞業界において、唯一伸びている収入である。けれども、総事業収入に占めるネット分野はニューヨーク・タイムズ紙のような好調な新聞社でも1割程度にすぎない。新聞は広告収入によって安価に抑えられているが、それを理由に値上げをすれば、さらなる部数の低下につながりかねない。ネット事業の強化・拡充は新聞業界にとって死活問題となっている。

 天野元編集長はこの事態に対して「マスメディア広告万能の時代は終わった」と捉えている。しかし、それはマスメディア一般と言うよりも、むしろ、日本型マスメディア万能の時代が終わったと理解すべきだろう。マスメディア広告はマスメディア環境の現われである。しかし、日本型マスメディアは、後述する通り、特異な特徴を持っている。マスメディア広告の万能時代が終焉を迎えているとすれば、それはその日本型マスメディアの支配構造が変容している顕在化にほかならない。


第2章 日本型マスメディアの特徴

 日本型マスメディアには、三つの特徴がある。

 第一に、電通が広告代理店行において突出している点である。電通の売り上げ連結高は2兆円を超え、その規模は単体では世界最大である。しかも、それは国内業界2位の博報堂のおよそ2倍に相当し、日本市場で圧倒的なシェアを占めている。しかし、アメリカの広告代理店業は事情が異なる。世界第二位の売上高のBBDOの他、JWT、EBWA、マッキャンエリクソンなどが世界規模の企業が競争しており、決して一社だけが抜きん出ているわけではない。

日本の広告業界には、欧米などと違い、一業種一社制をとっていないため、大手に仕事が集中し、電通を頂点とした寡占状態が続いている。一業種一社制は同じ業種内に属する複数の企業の広告代理を引き受けないという原則である。家電メーカーで言えば、SONYを担当する代理店はSHARPを扱ってはならないという決まりである。しかし、日本の広告代理店は競争相手である同業他社の広告も受け持っている。2005年、こうした広告業界の現状は独占禁止法に抵触する疑いがあるとして公正取引委員会が調査に入っている。電通による広告業界の極端な一社優位制は日本政界における自民党以上に強固である。

 第二に、新聞業界の資本規模が巨大で、マスメディア産業全体に及ぼす影響力は大きい点が挙げられる。新聞社はテレビ・ラジオの放送局も系列化ないし資本提携し、テーマ・パークの運営からプロ野球球団経営、出版、不動産業、信用組合、スポーツ・文化イベント開催など極めて広範囲に亘る事業をグループで展開している。

 いわゆる全国紙はそれぞれスポーツ紙や放送局と資本や人材を含めた系列関係を結び、グループ内のテレに局をキー局とする全国に民間放送網を形成している。

新聞 主なグループ内マスメディア  民間放送局網 
読売新聞 スポーツ報知、日本テレビ、ラジオ日本、中央公論  NNN 
朝日新聞 日刊スポーツ、神奈川新聞、テレビ朝日  ANN 
毎日新聞 スポーツニッポン、TBSテレビ・ラジオ  JNN 
産経新聞 サンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送、夕刊フジ FNN
日本経済新聞  テレビ東京、日経CNBC、日経BP TXN


 グループと言っても、ライブドアのニッポン放送株買収や楽天によるTBS株習得の経緯が世間的に知らしめたように、資本関係や人材交流の点で個々に違いが見られる。また、全国紙ではないが、中日新聞社も東京新聞や中日スポーツ、中部日本放送などをグループ傘下に置いている。地方紙も地元の放送局、特にラジオ局との間で密接な関係にあることが多い。

 日本における新聞とテレビの密着度を示す好例としてテレビ欄が挙げられる。世界的に、新聞が常設のテレビ欄を持っているケースは稀である。一週間分の番組表が折込みの形で配布されていることはあっても、毎日毎日1面を割いてテレビ番組の詳しい状況を紹介することはない。

 欧米の新聞は必ずしも経営規模は大きくなく、昨今、経営不振に伴うリストラや買収攻勢にさらされている。ニューヨーク・タイムズ紙は、2008年2月、ハービンジャー・キャピタル・パートナーズとファイアブランド・パートナーズの投資ファンド2社に買収を仕かけられ、資産売却や本業への集中、取締役4人の交代、電子版の充実などを要求されている。また、ルモンド紙は、2008年4月14日、経営陣が提案したリストラ案に抗議する労組のストにより、休刊している。昨春から、経営の安定化を目指す株主ならびに経営陣と報道の独立性を守ろうとする記者との間で対立が続き、抜き差しならない事態に陥っている。

確かに、ルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションのような巨大な複合的メディア事業体も存在する。1979年にアデレード・ニュース紙から出発し、今ではタイムズや20世紀フォックス、FOXテレビジョンなどを傘下に収めている。しかし、1996年、同社がソフトバンクと連携してテレビ朝日株を収得して買収を試みた際、朝日新聞社によってそれを阻まれている。欧米では、新聞社が巨大メディア産業の中核にいるなどということはない。

 2008年5月13日付『毎日新聞』によると、毎日新聞は北海道で同年9月1日から夕刊を廃止する。それに伴い、新聞紙面も「毎日jp」との連携を強化する。すでに、産経新聞が2002年4月より夕刊を全面的に廃止している。食後のコーヒーを飲みながら、朝刊に目を通したり、通勤電車の中で折りたたんで読む習慣はこれからも続くだろうが、夕刊を読む習慣はすたれつつある。新聞社の発行部数の下落は、日本の場合、たんに新聞社だけの問題にとどまらない。日本型マスメディアの構造的な変化に及ぶ。

 こうした日本の新聞社が発行している一般紙は全国紙・ブロック紙・地方紙の三相秩序をしている。

 全国紙はほぼ日本全国で販売されている新聞で、通常、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞の5紙を意味する。発行部数は、いずれも公称ながら、読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部、日経310万部、産経219万部である。発行部数だけを見るなら、公称550万部の聖教新聞が毎日新聞を上回るが、新聞協会に加盟していないため、これに含めない。

 ブロック紙は複数の都道府県にまたがった広域を販売エリアとしている新聞であり、北海道新聞・中日新聞・西日本新聞のブロック紙三社連合を指す。中日新聞社は中日新聞だけでなく、編集が独立している東京新聞と北陸中日新聞も発行している。また、華北新報や中国新聞もブロック紙に含める場合もある。北海道新聞は北海道、中日新聞は東海地方と長野県の他、滋賀県や和歌山県、福井県の一部、西日本新聞は九州地方および山口県で圧倒的なシェアを持っている。弱行部数は北海道新聞が120万部、中日新聞は276万部(東京新聞などを併せれば355万部)、西日本新聞は85万部である。

 地方紙は一つの府県で発行部数が圧倒的なシェアを持っているいわゆる県(民)紙のことである。全国的ならびに国際ニュースは通信社からの配信記事を掲載することが多い。岩手県における岩手日報や富山県の北日本新聞、高知県における高知新聞などが地方紙に当たる。都道府県全体ではなく、その一部地域を対象としている新聞を含める場合もあるが、これは「地域紙」の方がふさわしいだろう。

 第三に、記者クラブ制度である。これは、首相官邸や中央省庁、地方自治体、地方公共団体、警察、業界団体などに設置された記者室を取材拠点とする特定の報道機関の記者による排他的な取材組織である。一般紙や通信社、放送局などが会員であり、週刊誌や夕刊紙、フリーランスの記者、ブロガーはここから排除されている。記者室の運営は記者クラブの自治に任されているが、維持は各団体が経済的な負担を含めて提供し、両者は持ちつ持たれつの関係にある。

 以上の三点は、日本型マスメディアが独占ないし寡占の体制にあることを告げている。それは言論の自由を基本原則とする業界にしては、あまりに自由主義的とは言えない実態である。この得意な情報環境はその出自に由来している。日本型マスメディアは資本の論理や新技術の登場によって形成されたのではなく、戦時体制下の統制の産物であり、それを引きずり続けている。


第3章 日本型マスメディアの形成過程

 幕末から各地で無数の新聞が発行され、進歩的思想の啓蒙、自分たちの政治的主張、政財官界の腐敗や堕落の糾弾などを民衆に訴えるメディアである。福沢諭吉や中江兆民、幸徳秋水など新聞を活動の場にしていた言論人は少なくない。また、二葉亭四迷や夏目漱石。石川啄木など新聞にかかわった文学者は数え切れない。石橋湛山は、『湛山回想』において、官界が帝大出以外を相手にしていなかったのに対し、新聞はそれに対抗する人の受け皿だったと述懐している。しかし、日中戦争からポツダム宣言受諾までの戦時体制下で政府が言論統制を行うために、新聞と関連産業を再編成させる。本来戦争遂行の目的で築かれたその秩序が戦後にも維持・強化され、日本特有のマスメディア体制を確立していく。

 1936年、外務省の天羽英二が主導して、日本電報通信社の通信部と新聞聯合社が合併してニュース配信会社「同盟通信社」が設立される。聯合は朝日新聞・毎日新聞・報知新聞など8社が出資して設立したニュース発信を業務とする新聞組合である。日本では、1887年、最初の通信社として時事通信社(現在の時事通信社とは無関係)が創業して以来、長らく、小通信社が乱立する時代が続く。1930年前後になって、日本電報通信社と新聞聯合社の2社競合時代を迎える。日本電報通信社は当初合併に乗り気ではなく、聯合が積極的に推進して実現する。同盟は、国家を代表する通信社、すなわち唯一の通信社として、国外ニュースの入手を独占し、情報を管理・統制する機能を果たしていくことになる。

 この日本電報通信社が現在の電通の全身である。1901年、日清戦争で従軍記者を務めた光永星郎がまず日本広告、次いで電報通信社を創立し、広告代理店と通信社の業務を始める。広告代理店業は明治10年代にすでに誕生しており、この時点での創業は必ずしも早くはない。光永星郎は記者経験からニュース配信を本業とし、経営維持のために広告業をと考えていたが、諸般の事情により順序が逆になっている。社名に「電報」が入っているのは、当時、電信電話が遠距離のニュース通信に用いられるようになり、その最新さをアピールするためである。

 当初経営状態は芳しくなかったが、1904年の日露戦争の勃発が事態を一変させる。ベトナム戦争がテレビの戦争、湾岸戦争がCNNの戦争という意味で、日露戦争は新聞の戦争である。戦争報道のおかげで新聞は飛ぶように売れ、新聞社は喉から手が出るほどニュースを欲している。そこで、光永星郎は新聞社へのニュースの配信料を新聞社に支払う広告掲載料で相殺する営業方法で、新聞社と密接な関係を強化している。1907年8月、前年に電報通信社を改組して発足した日本電報通信社と日本広告を合併して、通信と広告を併営する「日本電報通信社」に発展する。同年5月には、UP通信社(現UPI)とも特約して国際ネットワークを築き、通信社として基礎を固め、日本を代表する通信社に成長していく。

 当時の新聞の紙面構成や広告の取り扱いは、現在とはかなり異なっている。日露戦争終結から10年後の1915年6月分の東京朝日新聞を例にとってみよう。1面には全面に広告だけしかない。『実業之日本』といった雑誌や本など出版物の宣伝で占められ、記事は一切ない。2面は衆議院、3面は貴族院の模様がそれぞれ書かれている。国会答弁なども詳細に記され、広告はまったくない。 4面は国際面で、上半分がヨーロッパの第一次世界大戦の戦況、下半分は対華21条以降の中国との交渉の現状が説明されている。ここにも広告はない。5面はスポーツ欄と社会面が混在している。スポーツと言っても、相撲のことでほとんどが占められている。社会面の記事は殺人事件や寺の騒動などあまり今と変わらない。ただ、真ん中に広告が入っており、正直、読みにくい。 6面と7面は文化面と広告であるが、広告の方が多い。医薬品や健康食品など出版以外の広告が目につく。出版社による原稿募集といったものも小さくある。7面の中央に連載小説が載っている。 8面は株式市場など相場の表と記事が掲載されている。株の銘柄数は非常に少なく、2段程度に収まっている。紙面は以上の8面で、写真は一枚あればいいほうである。家庭欄もまだなく、女性の読者はほとんど想定していない。

 なお、この年の6月1日、公務員に対して、その職務行為の対価として将来の公私の一定の職務上の地位の提供を約束すること、いわゆる天下りは収賄罪が成立すると大審院(現在の最高裁判所)が判断を示している。これは、1978年8月31日の参議院決算委員会によると、戦後も判例として踏まえられている。

 戦争を契機に成功してきた光永星郎だったが、泥沼化していく日中戦争は彼の夢を打ち砕く。1936年の通信部門の委譲の代わりに、聯合の広告部門を譲り受け、広告専業企業となる。皮肉なことに、これが現在の電通へと至る出発点である。電通は、言論統制の強化と共に、成長していく。

 1937年、全新聞広告数量は2億5766万行に及び、戦前の広告業界が最盛期を迎える。1940年には、「献納広告」が登場する。8月1日、国民精神総動員本部等により銀座など東京市内に「贅沢は敵だ」の旗が立てられ、「華美な衣装はつつしみませう」と記されたビラを通行人に配布している。この国策標語は雑誌『広告界』の編集長宮山峻の作とされている。公共標識以外のネオンサイン並びに広告塔の点灯一斉禁止となる。

 1943年には商工省の勧告による広告代理業整備に電通は積極的に尽力し、16社を吸収し、東京、大阪、名古屋、九州に本拠を置いている。この国策の結果、全国に186社あった広告代理店はわずか12社に激減している。広告も、ナチズムを持ち出すまでもなく、新聞や雑誌同様、管理統制対象である。電通は決戦標語「撃ちてし止まむ」を手がけ、その陸軍記念ポスター5万枚を全国に配布している。この最も有名な国策標語は1947年から電通の第4代意社長となる吉田秀雄の作とも言われている。しかし、出展は古事記や日本書紀の歌謡の久米歌「みつみつし久米の子らが垣下に植ゑし薑口ひひくわれは忘れじ撃ちてし止まむ」等の末尾の句であり、創作ではない。

 戦後は広告代理店業だけでなく、放送局の創設に協力したり、イベント事業を展開したり、総合的広告企業へと成長する。1974年、アメリカの広告専門誌『アドバタイジング・エージ』が前年の広告取扱高で電通が世界第1位になったと発表し、89年には取扱高1兆円を超している。この間、1955年7月、創業以来の通称だった「電通」を正式名称としている。

 同盟通信社は、終戦後の1945年、GHQによる解体を避けるため、自主的に解散し、一般報道部門などは共同通信社、経済報道部門などは時事通信社が同盟の施設、資産、人員を引き継ぐ。当初は再統合を視野に入れていたが、東京オリンピックをきっかけに、両者は競合状態に突入している。

 同盟通信社の創設により政府は情報の一元化に成功する。1937年に盧溝橋事件が勃発すると、政府は軍機保護法を改正し、軍事・外交に関する情報への制限をさらに強化している。外堀が埋まった状態であり、これの実施はたやすい。次に、1939年3月、内務省は新聞紙法による新聞・雑誌の創刊を原則として新たに許可しないと決定する。活字メディアは紙を押さえられると、そもそも発行できない以上、従うほかなくなる。

 言論統制は仕上げの段階に入る。1941年11月、政府は、すべての新聞社に「新聞統制会」への加盟や記者クラブの整理などを求める「新聞ノ戦時体制化ニ関スル件」を閣議決定する。記者クラブ自体はこれ以前にも存在する。1890年、第一回帝国議会の新聞記者取材禁止の方針に対して、『時事新報』の記者が在京各社の議会担当に呼びかけ、「議会出入記者団」を結成する。同年10月、これに全国の新聞社が合流し、「共同新聞記者倶楽部」と解消し、記者クラブ制が始まる。

しかし、この統制のため、記者クラブの数は3分の1減らされると同時に、自治も禁止されている。1941年12月、日米開戦後内閣情報局が「記事差し止め事項」を作成し、報道に対する管理統制を強め、政府は「新聞事業令」を公布し、新聞社を統合・削減し、「一県一紙」体制を確立させていく。さらに、1942年、 戦時特別税として屋外広告物に広告税課税となり、1944 年、農商務省によって全国50新聞社に対する新聞広告公定料金が公認し、 各新聞は夕刊を廃止している。

 この一県一紙制により、地方紙と中央紙という区分で大幅な新聞再編が進む。地方紙では、一つの道府県で最低でも3地区に分かれ、それぞれに一つの地方紙がシェアを持っていたが、強引に一元化されている。徳島日日新報と徳島毎日が徳島新聞、京都日日新聞と京都日出新聞が京都新聞、新愛知と名古屋新聞が中日新聞、福岡日日と九州日報が西日本新聞にそれぞれ統合している。東京では、都新聞と國民新聞が合併し、夕刊紙として東京新聞が発足している。エリアの広い北海道に至っては、(旧)北海タイムスや小樽新聞など11紙を合併して北海道新聞が創刊されている。この統合は全国紙にも及ぶ。毎日新聞は地域ごとに別会社が独立して発刊していたが、合併によって一つに集約せざるを得なくなる。結局、この勧告により、700以上もあった新聞が最終的に54にまで削減する。

 ポツダム宣言の受諾により、こうした非民主主義的な政策は無効になったはずだったが、戦後もこの一県一紙制は、アメリカの占領下に置かれた沖縄を除いて、ほぼ維持される。その主要因の一つは広告である。一県一紙制は各紙に広告市場の独占ないし寡占を与えている。広告主は、県内あるいはブロック内、全国で最も読まれている新聞に広告を載せる方がメリットにつながると考えて、支配的な新聞に優先的に広告を依頼する。新聞社は潤沢な広告収入を背景に、積極的な経営を行い、部数拡大は図る。このような状況では、同業者が新規参入することは困難である。戦後の自由化の波に乗って、数多くの新聞が設立されたけれども、既存新聞の露骨とも言える拡販もあって、少数を除いて、つぶされてしまう。

 大政翼賛会体制下は、言論機関としてのあるべき姿はともかく、新聞は言行一致している。しかし、戦後は言論の自由が憲法で保障され、それを自ら尊重しておかなければならないはずであるにもかかわらず、反する経営姿勢で産業的発展を遂げている。新聞拡張員の不快で厚かましい押し売りまがいの勧誘がそれをよく物語っている。

 しかも、広告主と新聞を仲介するのは広告代理店である。広告業界は全国的にはそれ以上の寡占状態にある。広告代理店も、新聞業界の発達につれ、それ以上に成長する。

 1950年代に入って、ラジオとテレビに民間放送がスタートする。その際、放送局設立にも新聞社や広告代理店が積極的に関与している。

 ラジオ局は新聞社や地元の有力企業などが主な出資者になって生まれている。中には、文化放送のように、財団法人によって開局されたケースもある。同局は、1952年、カトリック修道院「聖パウロ修道会」が布教を目的に設立した財団法人「日本文化放送協会」によって設立されている。1951年、郵政省から許認可を受けた16社のうち、中部日本放送が最初に放送を開始する。電波を扱う放送は許認可事業であるため、事実上、一県一紙制度が踏襲される。東京や名古屋、大阪などの大都市圏には複数の出力の強い広域放送局、他の府県では県域放送局が開局される。ただし、千葉県や埼玉県、群馬県、三重県など民間AM放送局がない県もある。

 1954年、日本経済新聞などが出資した日本短波放送がスタートする。同局は国内唯一の日系系列のラジオ局であると同時に、世界で唯一の商業短波放送である。短波放送であるため、第1放送と第2放送の二波を持ち、全国を放放送エリアとしてカバーする。コンテンツは専門性が強く、株式、先物取引、中央競馬、医療、無線・BCL、大学受験講座、百万人の英語、アナウンサー養成講座など中波とは一線を隠す番組で、コアなファンを獲得している。78年にラジオたんぱ、さらに2004年、ラジオNIKKEIに愛称を変更している。

 本放送が70年代からであったため、FM局にも、新聞社やテレビ局などが出資しているケースが多く、他媒体との親密度は局によって異なる。FM岩手はテレビ岩手と従来より密接な関係にあったが、2006年、同社はテレビ岩手の本社ビル内に社屋を移転している。FM放送は、1970年、FM東京(現TOKYO FM)の開局を皮切りに各地でスタートする。エフエム東京は1960年から東海大学が実験放送を続けていたFM東海を前身としており、現在でも同大学が筆頭株主である。FMは使用周波数の特性上、送信所から届く距離が近いため、県域放送とならざるを得ず、コミュニティ局を除いても、AM局以上の数の放送局が活動している。ただし、全国の多くの(県域)FM局は全国FM放送協議会(JFN)に加盟しており、主に地方局がそのネットワークを通じて番組配信を受けている。

 1953年8月28日午前11時20分、日本テレビは日本最初の民間テレビ放送を開始する。正力松太郎読売新聞社社主が放送免許の申請を行ったこの放送局は、開局からわずか7ヶ月で黒字に達し、58年9月に、マスメディアとして初めて東京証券取引所1部上場を果たしている。それはテレビが日本でもマスメディアの王様として君臨する予兆であろう。

 1955年から1960年にかけて、新聞社や既存ラジオ局などが中心となって次々とテレビ局を開局させる。1970年代半ばには、先に言及した全国紙を中核とするマスメディア・グループが形作られ、そこに属するテレビ局をキー・ステーションとして地方局との間で民間放送網を形成している。

 言うまでもなく、このマスメディア・グループの首が据わるまでには紆余曲折がある。

 1957年、富士テレビジョン(現フジテレビジョン)がニッポン放送と文化放送を中心に、映画会社を呼びこみ、設立される。1956年に文化放送が株式会社される際に社長に就任して水野成夫が初代社長の選ばれ、さらに、彼は、58年、産経新聞社社長している。在京の新聞・ラジオ・テレビを握ったため、彼は「マスコミ三冠王」と呼ばれることになるが、これを基礎として後のフジサンケイグループへと発展していく。

 水野は、1940年に軍部の協力を得て創立された大日本再生製紙の幹部を経た後、1938年に成立された国策パルプ工業株式会社に同社が1945年11月に吸収合併されると、1951年に社長、1960年には会長に就任している。製紙業は、戦時中、新聞統制にかかわる産業である。ジャーナリストではなく、それを統制する側に近い人物がマスメディアのグループを掌握したというわけだ。

 また、現在、テレビ朝日は朝日新聞系列であるが、開局当時は日経が最大の新聞資本である。日本教育テレビとしとして創立したけれども、日経が東京12チャンネルの救済に乗り出した際に、朝日新聞社が傘下に収めている。その東京12チャンネルは、1964年、財団法人日本科学技術振興財団によって設立された教育専門チャンネルであったが、1969年、深刻な経営危機に陥る。財界の後押しによって、日経が出資することとなり、それを捻出するために、NET株を朝日新聞社に売却する。他にも、1973年、日本テレビとTBSの新聞資本の統一が読売・朝日・毎日の間で合意し、翌年、TBSの新聞資本が毎日新聞社のみになっている。

 このように決してすんなりとマスメディア・グループが築かれたわけではない。

 さらに、記者クラブ制も復活する。これは政府や国会、行政機関、自治体、各種組織・団体などを担当する記者達がお互いの親睦を高めるための自治会である。もちろん、これは建前であって、実態はそうではない。特定の報道機関のみが参加できず、ニュース・ソースとの接触をほぼ独占し、一見さんお断りの極めて閉鎖的な制度である。このアクセス制限によりニュースの入手こそが報道機関の仕事ということになり、いわゆる発表ジャーナリズムにとどまり、検証性や分析性に乏しい日本のメディアのお粗末な現状の一因である。

 現在の記者クラブは、戦時下に内務省指導によって結成された「日本新聞会」とは別組織ということになっている。しかし、現行の制度は、日本新聞会の傾向を受け継いでおり、それ以前の自主的な記者クラブとは異なっている。言論統制の前は、登録制がなく、クラブと言うよりもサロンであって、相当ゆるやかな集合体であり、そもそも複数の会が併存し、一元的ではない。戦後の記者クラブにはこうした風通しのよさはない。しかし、規制は既存メディアにとっては既得権益の保障につながる。ジャーナリストの資格は、その結果、専門的な学習機関で体系的・総合的にジャーナリズムを学んだ後、現場で訓練・経験を積むのではなく、マスメディア企業に就職し、クラブ会員となることに堕してしまう。

 戦時中の言論統制政策によって生まれた制度が戦後になっても維持・強化されていくが、そうさせたのはたんに独占や寡占のもたらす甘味だけではない。軍隊的な感覚が戦前以上に戦後に全国中に蔓延したことを見逃してはならない。

 森毅京都大学名誉教授は、『景気の還暦』において、戦時体制が戦後に与えて影響について、次のように記している。

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。
 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。
 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。
 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。

 さらに、御厨貴東京大学教授も、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 この状況は日本だけでなく、ある程度、参戦国の間で共通している。「軍隊的な感覚」が戦後を支配したのであり、経済発展もその産物である。60年代に登場した新左翼運動を戦後民主主義の矛盾などとしたり顔で解説・批難する論調がしばしば見られるが、極めて表層的な見方でしかない。それではなぜ世界的な同時代性を持ちえたかの説明にならない。

 ベビー・ブーマーは、パックス・アメリカーナ、すなわち未曾有の豊かさと狭量なマッカーシズムに覆われたな社会で成長している。その彼らが60年代に入り、怒れる若者と化して、社会に抗議の声を挙げ始める。経済的に恵まれた環境で育った子供たちがなぜそんな行動をとるのか親たちには理解できない。しかし、彼らの反抗に理由がなかったわけではない。軍隊的な社会の空気に対し、自由を求めている。戦争中、程度の差はあったものの、各国共に国家総動員体制を敷き、老若男女を問わず、人々を戦時体制へと組みこまれる。それは一部の人々の間でのみ共有されていた「軍隊的な感覚」が国全体へと行き渡る契機となる。なおかつ、冷戦というイデオロギー的な戦時体制はこうして維持される。ベビー・ブーマーの反抗は、そのため、国境を超えて類似し、時に、連帯している。

 この統制体制と軍隊的な感覚の相互作用が日本型マスメディアの戦後の発展を推進した重要な要因であるが、それは次に示す吉田秀雄による電通の「鬼十訓」に如実に見られる。

一 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
二 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
三 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
四 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
五 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
六 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
七 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
八 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
九 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
十 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 このほとんど帝国陸軍を思い起こさせる社訓を考案した吉田秀雄は、1947年、上田碩三3代社長がGHQの改正公職追放令に該当したのに伴い、社長に就任している。これは公職追放の適用範囲が有力企業の幹部にまで拡大する法令である。吉田は公職追放という戦後の到来を印象付ける出来事により43歳という若さで電通の社長に就任したが、その成功はむしろ戦時的なるものによって可能となっている。日本型マスメディアを最も体現した人物の一人だと言っていいだろう。

 なお、上田前社長は、1949年、親友のマイルス・ボーンUPI通信社極東担当副社長他三名と共に東京湾浦安沖で遭難し、死亡している。日米のマスコミ界の有志が二人の死を悼み、1950年、ピュリツァー賞に倣い、国際報道に貢献した報道者を表彰する目的で、ボーン・上田記念国際記者賞を設けている。

 80年代、日本社会は高度消費社会に突入し、日本型マスメディアは絶頂期を迎える。それは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル)の時代に呼応している。

 しかし、それは、かつての皇軍同様、勝っている間は機能できるが、一度負け始めると歯止めがきかない。独占や寡占体制は、逃げ道がないため、状況の変化が起きた際に、対応するのが難しい。90年代に入ると、日本型マスメディアは凋落していく。

 〈男味〉の代表例は、太平洋戦争中の帝国陸軍だろう。戦後は、旧帝国陸軍の精神的な残党が、そのメンタリティで経済戦争に突入したのだと言われている。敵から見ると、旧日本軍は進む道を決めたら、他の道の可能性を考えようとしなかったので、非常に扱いやすかったらしい。一筋にやっていくことが最高の価値である、と考えたのが帝国陸軍だった。みんながこうと決めたときに他のことを考える奴は放り出される。〈男味〉の立場からすると足並みを乱すことはゆゆしきことなのだ。
 しかし、〈男味〉ではゲームには勝てない。ゲームというのは、状況によって態度や決定が変わるのが当然なのだ。あいつはグーを出し始めたらグーを出し続けるとわかってしまったら、もう絶対に勝てるわけがない。グーもチョキもパー も出すかも知れないから、ゲームが成立するのだ。
(森毅『男味と女味─集中と分散について』)



第4章 1930年体制の後に

 バブル経済が崩壊し、景気が後退してからも、マスメディア業界はそれに急激に直面してはいない。人件費抑制のために、工場を海外移転したとしても、その商品の広告は国内で行わざるをえない。中には、儲けを社員に還元せず、広告費につぎこむ企業さえ現れている。そのため、テレビの広告費は、90年代に入っても、伸び続けている。

 しかし、収入の減少や少子高齢化により人々は紙媒体の購入を控えるようになり、次第に、雑誌や新聞の多くは発行部数を落としていく。さらに、インターネットや携帯電話が普及し、テレビ離れも始まる。企業もマスメディアよりも、インターネットなど元気なメディアに広告費を使う方が効果的であると考えても無理からぬところである。

 加えて、90年代から衛星放送も身近となり、数多くの専門チャンネルに触れる機会が増え始める。高い専門性に彩られた番組は、あまりにも低俗化した従来の地上波の番組に呆れていた視聴者をつかみ出す。キラー・コンテンツの一つとしてとしてニュースが挙げられる。しかし、分析性と検証性が脆弱な発表ジャーナリズムを続けてきた日本型マスメディアはCNNやBBC、アルジャジーラとニュースの吸引力・発信力ではお話にならない。

 ぬるま湯になれた民間放送局は、各国のテレビ局がYouTubeと連携を強化していく動きにも立ち遅れてしまう。著作権はともかく、使用したニュース映像がウェブ上で流通することはジャーナリズムには本質的な問題ではない。誰もがニュースの発信者となれるとすれば──可能性は往々にして義務となり、評価へと歪曲される。誰もが発信者になれるのなら、誰もが発信者にならなければならなくなり、そうしない者は負け犬と烙印を押されてしまう──、ジャーナリズムにとって重要となるのは映像の入手ではなく、分析力・検証力である。それこそがリアリティTVとジャーナリズムを分かつ点である。情報入手に意味があるのは、そこが独裁ないし独占の体制においてである。秋葉原無差別殺傷事件のマスメディアのみならず、ネット上にも事件直後の模様の映像が氾濫したが、それが発表ジャーナリズムの行き着く果ての光景である。

 森毅京都大学名誉教授は、『五五年体制じゃない、三〇年体制の崩壊なんだ』(1993)において、食管法や教育体制、雇用形態など戦後の制度の多くは戦時下に生まれたものが、「1930年体制」と呼ぶべきだと提唱している。

 その上で、1930年からの日本を「人生になぞらえるとしっくりくる」と次のように述べている。

 青春時代は暴走族でオートバイを乗り回していた。これが戦前。二十歳になると更正してシュンとなり、ネクタイを締めて満員電車に揺られて会社に通うはめになった。この時期が戦後で、まさしく昭和二十年の敗戦は青春の蹉跌風。
 その後、日本は立ち直って高度成長で変わった。人生でいえば四十歳前後で、社宅に住んでいたのが、無理をしてローンで一戸建てをやっと手に入れた。よし、がんばって働かなくては、といった年代だ。
 やがて六十歳近くになってゆとりがでてきた。ゴルフ会員権やリゾートマンションでも買って少しは遊ぶかで、これが平成バブル。でも、やっぱり定年がきてしまった、というのが現在である。
 どうだろう、一九三〇年から現在までは、一連の時代の流れのなかにあるとは言えまいか。ひとわたり人生が終わったのなら、もう一度生まれ変わるしかない。
 だとしたら、まったくちがうワンサイクルが来ようとしているのだから、これまでのシステムを維持しようとか、状況をとりもどそうではやっていけぬ。重要なのは、新しい形態にどう適合していくか、である。

 戦時体制に確立された制度は、戦後になっても、そのままなし崩しに続いてしまったり、一旦変更されたものの元に戻されたりして、数多く生き残っている。1990年代前半から、戦後の制度と思われていたものが、実は、1930年代に始まる国家総動員体制の産物であることが一般的にも知られることとなり、次々と変革を迫られている。1930年体制の崩壊と新たな体制の形成が進行している。日本型マスメディアもこうした1930年体制の一環であり、「これまでのシステムを維持しようとか、状況をとりもどそうではやっていけぬ」。今、日本のマスメディアに求められているのは「新しい形態にどう適合していくか」に答えていくことである。

 天野元編集長が指摘する通り、ウェブ広告は、まだ発展途上で、マスメディア広告の完成度とは比較にならない。「インフォメーション」の伝達にすぎず、「表現性」は乏しい。ほとんど駅まで配っているティッシュのチラシとしか思えないものも少なくない。マスメディア広告はアイデアをコピーやデザインなどで加工する必要があったが、ウェブ広告ではアイデアだけを配信し、受信者がそれをカスタマイズすればよいという前提がある。コアとなるアイデアを考案することが求められる。ビジネス・モデルがある程度定着しないと、「クリエイティブ」な広告は登場しにくい。しかし、そのときは、少なくともアメリカでは近づいている。

 IAB(Interactive Advertising Bureau)とPWC(Pricewaterhouse Coopers)は、2008年月17日、ウェブ広告の四半期売上高が2004年以来初めて前四半期をわずかながら下回ったと発表している。1月から3月までのインターネット広告費は58億ドルで、2007年第4四半期の史上最高記録である59億ドルから減少している。アメリカではすでにウェブ広告が定着しており、これからも伸びは見込めるにしても、日本のように急上昇する可能性は少ない。アメリカではウェブ広告がすでに定着し、次の段階に向かいつつある。

 「マスメディア広告万能の時代は終わった」は、マスメディアが凋落し、その広告が万能である時代は終わったということである。「万能時代の終焉」とはダニエル・ベルが提示した「脱工業化社会」の「脱(Post-)」を意味している。広告は日本型マスメディアが衰退しても、粗暴の危機に陥ることはない。広告の歴史はマスメディアとは比較にならないほど古い。その万能時代が終わっただけで、マスメディア広告自体が消滅することはない。これからも存続していくだろう。しかし、ニュース映画が消えていったように、マスメディアは、広がりすぎた領域を縮小し、他のメディアとの共存を見出していくに違いない。

 天野元編集長はマスメディア広告が「あいさつ機能」として残っていくと予測している。「あいさつ機能」とはファティック・コミュニケーションのことである。あいさつは内容があるわけではないが、発せられること自体に相手との関係を確認する意義がある。これは、むしろ、マスメディア広告が一般に定着したことを意味する。

 新奇に登場したものは、概して、暴力的になりやすい。それは自分たちの声や重いが伝わっていないのではないかと送り手が感じてしまうからである。

 後藤滋樹早稲田大学教授は、2004年にNHKで放映された『ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け』の第6話「JUNETの幸運」の中で、なぜ携帯電話で相手の声が小さいと自分の声が大きくなるかについて次のように述べている。

 それからメールを使うと、喧嘩が激しくなるという現象。今日の社会問題にもなってますが、これは他の国でも研究がありまして、人間というのはですね、細いチャンネルだと思うと声を強くするんですね。携帯電話で相手の声が小さいと自分の声が大きくなる。メールというものが十分自分の気持ちが伝わらないと思うと、自動的に強く書くんです。メールというものを人間が十分に使いこなしているという証拠なんですけど、メールの喧嘩はしつこいと。

 太いチャンネルを保持しているなら、「声を強くする」必要はないので、アグレッシヴに訴えることもない。市民権を獲得したのに、マスメディアが昔を懐かしみ、人の話をさえぎり、自分のことばかり喚き続けたり、まだまだ若いものには負けないと年寄りの冷や水に躍起になったりするのはみっともない。むしろ、経験に裏打ちされた洗練さをさりげなく示しながら、いつもと同じような声であいさつする姿が望ましい。

 天野元編集長は「テレビ広告は視聴者が見たくなくても見せられちゃうところを暴力的と言っている」が、その意味では、ネット通信を占拠するスパム・メールはより「暴力的」だろう。また、ウェブ上のコミュニケーションもしばしば暴力的・攻撃的となるのは、必ずしも匿名のせいばかりではない。「細いチャンネルだと思うと声を強くするする」からである。「細いチャンネル」しか持っていないと感じている人がネットを使い、そこでも「十分自分の気持ちが伝わらないと思うと」、攻撃性が誘発される。電子メディアは、時にマスメディアが怯えてしまうほど暴れてしまう。ネット上の書き込みで強い言葉を見かけたら、それは「細いチャンネル」の表出だと推測できる。

 ついついそうしがちだが、声を大きくすれば、自分の思いが伝わるというものでもない。騒々しさにうんざりして、話を聞く気になれなくなる。静かに穏やかな口調でその人だけに語りかけるなら、小さな声であっても、むしろ、耳を傾けてくれる。

 戦時下は大きな声が支配する。本音は信頼できる相手と小声でひそひそとささやきあうほかない。日本型マスメディアはそうした1930年体制に確立し、戦後も大声偏重のまま発展している。だからこそ、天野元編集長は、優れたクリエーターたちはその暴力性を避けるようにマスメディア広告をつくってきたと言っている。しかし、1930年体制の崩壊の時がきている。それに伴い、日本型マスメディア万能の時代が終わり、大声でなく、小声が伝達力を発揮する時代が到来しつつある。

〈了〉


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