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日本変革のブループリント





第三章 グローバルな小日本主義
「ミニマ・ヤポニア」(12)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


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全体目次



11 憲法

 日本国憲法の形成過程は、一般に考えられているよりも、はるかにこみ入っています。憲法史における主流の学説は、占領下という特殊な状況であるものの、日本国憲法は日米合作です。

 しかも、それはアメリカ対日本という国家間の抗争の結果ではなく、かかわった個々人の憲法観の対立と妥協の産物なのです。ステロタイプによる短絡化は本質を見失います。

 例えば、
GHQの女性職員が女性の権利を拡大したいと考えていたのに対し、男性職員がそれを認めないといったこともありました。考えてみれば、日本国憲法は国際協調を謳っていますから、この共同作業はその趣旨とも矛盾しません。

 条文を見るだけでも、日本国憲法が単純に占領軍によって押しつけられた憲法ではないことは明らかです。

 例えば、25条の生存権は、20世紀における憲法のプロトタイプと呼んでよいドイツのワイマール憲法からの影響ですが、こうした発想は英米系の憲法観にはありません。環境権やプライバシー権なども生存権を援用して、日本の司法の場では確定されていくでしょう。

 当時、日本各地で多くの団体や個人による新しい憲法の作成が取り組まれていました。各政党も憲法草案を起草していますが、五五年体制を担う保守政党も日本社会党も、不甲斐ないことに、国民主権すら書けていないのです。

 実は、GHQは、有名無名や専門の如何に問わず、膨大な文献や資料、提案、意見を英訳しており、それを汲み上げて、日本国憲法に書き記したのです。憲法を変えることが目的なのではなく、日本人の間に定着しなければ意味がありません。

 それには市井の声を反映させる必要があります。例えば、憲法の口語化は作家の山本有三らのグループ「国民の国語運動」の提案です。日本国憲法は、その意味で、集団的匿名の作品だと言えます。旧体制であれば、支配層によって排除されてきた人々のアイデアや知恵の結実が日本国憲法なのです。日本国憲法は現在の市民による参加と行動の民主主義の魁にほかなりません。

 古関彰一獨協大学教授は、『新憲法の誕生』において、依然として日本国憲法は「新憲法」と呼ぶのにふさわしいと次のように述べています。

 にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。

 かつて米国憲法150周年記念(1937)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。

 古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。

 日本国憲法をGHQによって押しつけられた憲法と考えるのはその意義を矮小化するだけです。日本国憲法は「素人の力」、すなわち民衆の思いの表象なのです。

 その意味で、この新憲法は世界に誇れるものです。近代日本が始まって以来、これほど人々に愛された法律はありません。民衆による参加と行動の民主主義の現われという点でも、日本国憲法は依然として「新しい」のです。

 石橋湛山の理念を継承するグローバルな小日本主義から見れば、九条を含め、日本国憲法を改定する緊急性はありません。政治家が挙げている変更の理由はとても納得できるものではありません。

 例えば、国民の権利ばかりで義務規定がないと訴える政治家もいますけれども、近代憲法は権力が自らを律するための法ですから、この不満は不当です。そもそも、日本国憲法は大枠だけ提示していますから、誠実なる解釈者としての司法が機能すれば、時代の変化に対応しやすいようになっています。現憲法を超える程の「新しさ」がない改憲論は大日本主義的動向であると警戒しなければなりません。

 もちろん、未来永劫に変更するべきではないというわけではありません。「当分の間」だけです。憲法はあくまで国内法です。国際条約の方が国内法よりも上位にあります。将来的に、アジア共同体が設立され、その取り決めとして国内法の整備が必要になることもあるでしょう。

 例えば、少数民族並びに先住民族の権利の保護を義務付けられ、現行の法の解釈・規定では不十分と見なされた場合、憲法を改正し、そういった条文を加えることになるかもしれません。「国民」という観点から制定されている以上、先住民族の権利に日本国憲法は、厳密には、対応しきれていないのです。

 これからの時代には、国家の相対的な地位のさらなる低下は不可避です。憲法を含めた国内法も、国際的な流れによって、決定されていくことでしょう。


つづく