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書き下ろし長編

コモンウェルス
Commonwealth: 20th Century Regime

第二章 アメリカの世紀とコモンウェルス

佐藤清文
 Seibun Satow

2013年2月18日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁


第二章 アメリカの世紀とコモンウェルス

第一節 帝国主義


I met a traveler from an antique land
Who said: Two vast and trunkless legs of stone
Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read,
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them, and the heart that fed,
And on the pedestal these words appear:
"My name is Ozymandias, King of Kings:
Look upon my works, ye Mighty, and despair!"
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.
(Percy Bysshe Shelley ”Ozymandias”)

 第二次世界大戦の終結後、帝国主義国家の大半は解体したものの、間接的な支配に基づく経済的利益に重点を置いた帝国主義が取って代わる。内地延長主義と特別統治主義の違いにかかわらず、英領インドを除き、植民地経営はどこも赤字である。もともと、帝国主義は資本主義国家による自国の経済的拡張を外交・安全保障上の政策ならびに未開に対する近代文明の普及によって覆い隠すための方便である。

 この拡張主義は、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で丹念に分析したように、かつてないほどイデオロギーを必要とする。帝国主義は、イデオロギーの共同体である国民国家と共に、発達しており、領土の併合と主権を奪うという古典的世界にも見られる政治的支配である植民地主義と違い、もっと広範囲である。国民国家も帝国主義も伝統的な共同体・境界を分断する。

 その分離によって新たな権威を形成しようとする。イスラム過激派の活動を抑えこむ目的で、アメリカとフィリピン軍が合同で、掃討作戦を行っている、けれども、一九世紀のフィリピンの小説家ホセ・リサールは、スペインによる植民地化の結果、フィリピンがイスラムのマレー世界から切り離されたことに異議を唱え、マレー世界の原理に基づく「村落国家」を描いている。国家の直接介入を含むか否か、あるいは政治的であるか経済的であるかにかかわらず、他国に支配や影響力を行使する姿勢を指す。博物館は、先進国では、しばしば帝国主義による戦利品の展覧場であるけれども、植民地化された記憶を持つ途上国においては、その反発から、国民国家意識の高揚の場となっている。

 一九世紀半ばになると、帝国主義は植民地を直接支配する重商主義から自由貿易的帝国主義へと変容する。イギリスを筆頭に、ヨーロッパ諸国は、抵抗運動に消耗したため、外交的・経済的手段を用いて植民地に権力と影響力を拡大する方が得策だと考えている。ところが、日清戦争が起きた一九世紀末には、列強が海外領土の併合を目指す帝国主義を再開し、アフリカやアジア、太平洋地域に進出する。けれども、この大国主義は、露骨に利害が対立し、両世界大戦を招く一因となってしまう。

 一九四五年以降、強大な経済力を持った合衆国は、世界銀行やIMFなどの国際金融組織を通じて、第三世界諸国に対して大きな力を及ぼし、ヨーロッパの大国も表面的には植民地支配を確立せず、効果的に主権を行使して旧植民地の政治・経済に影響を与えていく。Visibleな帝国主義ではなく、invisibleな帝国主義とも言うべき政策は戦後も一貫として続けられていたのであり、グローバリゼーションはその帰結である。

 アマゾンの少数民族をめぐる状況の変化は一九世紀のvisibleな帝国主義と二〇世紀のinvisibleな帝国主義がいかなるものであるかを典型的に語っている。アマゾン川流域では、古来、首狩りの風習が続いていたが、ヴィクトリア朝の紳士淑女はそれを野蛮と見下しておきながら、干し首貿易が彼らとの間でしっかり成立している。

 部族も干し首がビジネスになると知るや、無関係の死体の首を使って干し首を製造し、貿易商人に売っている。本来、干し首は部族間の争いの際に倒した敵の首を儀式によってつくられる。彼らにとって、こういった抗争は祝祭であり、環境を破壊せず、部族が食糧不足に陥らないための間引きとして機能している。「味の上では論議する余地なし(de gustibus non est disputandum)」。エクアドルのシュアル族は、中でも、人間の頭部を半分の大きさにまで縮めた干し首をつくりあげることで知られている。

 資本主義以前、環境問題は農業によって引き起こされている。工業はまだ産業規模が小さく、環境を根こそぎ変えてしまうほどの力はない。古代の都市文明の多くは灌漑農業のもたらす塩害によって滅亡している。親米軍事政権のブラジルは、新古典派総合の経済専門家を登用し、一九七〇年、国家統合計画を発表する。アマゾン横断道路の建設や資源の大規模な探査を開始して、農村に適さない地域であるにもかかわらず、農場や牧場を建設,鉄鉱石など地下資源を採掘した結果、広大な熱帯雨林が急速に減少してしまう。一九九二年のリオデジャネイロで開催された国際環境開発会議で、この開発は、地球環境の保護という観点から、極めて問題があると警告される。首狩りが政府によって禁止された彼らは、現在、観光と研究に協力して、自らの生活を維持しつつ、伝統的文化の保存とその思想の現代的意義を訴えている。アマゾン川流域の森林伐採が環境をすっかり変えてしまっている以上、首狩りをする必要はそもそも消失している。

 このアマゾン川のケースが示している通り、一九世紀と二〇世紀の搾取には外部性に違いが見られる。近代的な工業化の成功は人口一人当たりの所得の増大につながり、所得配分・生活水準・労働条件・社会行動にも変化を与える。ところが、欧米の産業革命の初期には、労働者の購買力の低下や生活水準の悪化などの弊害が生まれている。そこで、労働運動が起きる。賃金上昇、労働時間の短縮および労働条件の改善のために闘う組織的な労働組合運動が確立される一方、独占ないし取引制限を防ぐ反トラスト法が各国で導入される。

 二〇世紀になると、労働条件に関する社会的費用への対処に加えて、さらに環境問題が顕在化する。十分に処理されていない工業用水や排気ガスが自然環境を破壊し、人々の健康被害の原因となっている。他にも、女性とマイノリティへの平等な機会と報酬の拡大、危険な製造物の製造責任が求められるようになっている。労働問題にしても環境問題にしても、本来払わなければならないコストを負担しなかったために起きているのであり、外部性は想像力の領域にかかわる。「資本主義の非常な成功こそがそれを擁護している社会制度をくつがえし、かつ、『不可避的に』その存続を不可能ならしめ、その後継者として社会主義を強く志向するような事態をつくり出す」(J・A・シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)。


第二節 エントロピーの世紀

 環境問題は、現時点で、労働問題以上に民主的手続きの浸透を見るのに適している。途上国における環境問題は、マレーシアのパーム油製造による環境汚染が示している通り、貧困の解消と汚染を抑制する先進的な工業技術を導入すれば、解決するわけではない。住民の生活は環境に依存しているのであり、環境問題は生活問題である。にもかかわらず、途上国の政府とパーム油を消費している日本のような先進国の企業の関係によって、意思が決定され、住民はそこから排除されている。

 意思決定過程の民主化が環境問題解決には不可欠である。司法の判断は、従来、国内に限定されている。しかし、水俣病をめぐる判例は日本国内にとどまらない。世界各地の有機水銀公害にも適用されている。日本の三権はそれを十分に承知していないため、恥ずべき状況を招いている。しかも、今では、環境ホルモンのような微量汚染の問題まで浮かび上がっているというのに、彼らはまったく対応できていない。国際的な共通認識が環境問題の対処には何よりも大切である。UNESCOによる世界遺産の指定やラムサール条約が開発を抑えている通り、将来の民主主義は外部性による共通感覚の改変であり、二〇世紀に限っては、環境問題が試金石にほかならない。

 環境問題は熱力学第二法則、すなわちエントロピーに関わっている。エントロピーは国境によって制限されない。古典的な公害や森林伐採、砂漠化だけでなく、地球温暖化、環境ホルモンや下水から流れている医薬品成分による生態系への悪影響など環境問題自身が拡散を続けている。生産がエネルギーを必要とするとすれば、消費はエントロピーに基づいている。二〇世紀を通じて、エネルギーをめぐって各国が経済的・政治的・軍事的に争い続けてきたが、真に主流の問題はエントロピーである。「個別情報にそれほどの力があると思わない。それよりは、その情報を組みあわせて判断の構図を作ることが問題である。情報の理論というのは、まだ個別情報の段階であって、配置の構図におよんでいない。エントロピーというのは、エネルギーのような物質的量ではなくて、配置にかかわる概念のはずなのに」(森毅『エントロピーの世紀』)。

 エントロピー的な二〇世紀は唯心論でも、唯物論でもなく、配置の観点から認識できる世界できる。システム全体がエントロピーによって拡散していっても、要素間に相互作用が働けば、サブシステムが構成され、その部分はばらばらにはならない。ネパールのゴーパール=プラサード・リマールは、『献げる』において、「愛する」の代わりに「はらませる」という即物的な表現を使い、封建制から近代への転換を見事に表現したが、エントロピーの時代にはさらなる別の表現が必要となる。プラスティックは丈夫で長持ちするという物質的特性にもかかわらず、二〇〇〇年の日本では、五年以内に全プラスティック製品の半分以上が廃棄されている。プラスティックは厄介なごみだ。ごみは生きているとも死んでいるとも言えない決定不能な物質である。これが明らかにしているのは物質でも、精神でもなく、配置の問題にほかならない。

 資本主義における外部と内部の境界は、それがエントロピー的に発達するにつれ、決定不能になっている。経済学における外部性は取引されないものである。哲学と関連させるなら、外部性は他者性である。他者は自己の暗黙知を問いつめる論理主義者だ。労働市場は市場が均衡状態を迎えたとしても、現実的には不十分である。ある人が職を得たとき、マイケル・ジョーダンが大リーガーを目指したり、原節子が銀幕に復帰しなかったりするように、それがその人にとって有意義であるか、社会にとってそうであるかは必ずしも一致しない。なるほど労働は劣等財だ。

 労働市場が均衡を迎えていたとしても、個人の充実感が満たせるとは限らない。オランダのワーク・シェアリングやアメリカのジョブ・シェアリングは、決定的解決策ではないが、経済的な諸矛盾と同時に社会的・個人的な問題の融和策として機能している。一九世紀の労働問題には劣悪な環境で働く労働者の健康被害が含んでいたが、二〇世紀になると、工場の外で生活する住民の健康も工場の廃液や排煙は蝕んでいく。一九世紀にも偉大な田中正造が訴え続けた足尾鉱山の鉱毒被害があったものの、社会問題の主流は労働問題であり、環境問題が深刻に認識されるには二〇世紀を待たなければならない。一九八六年のチェルノブイリ原発の事故は国境を超えて、被害を拡大している。ラルフ・ネーダーの行動が広範囲になっていくように、二〇世紀の資本主義における外部と内部の境界は決定不能と認めるべきだろう。

 その環境問題の中で、最も急を要するものの一つが温室効果ガス──二酸化炭素(CO2)、メタン(CH4)、一酸化二窒素(N2O)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)、パーフルオロカーボン(PFC)、六フッ化硫黄(SF6)──の抑制である。そこには、気候が非線形的なカオス現象の典型であるように、「二〇世紀」が凝縮されている。一九九七年一二月、京都で開催された気候変動枠組み条約第三回締約国会議(COP3)で「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書(Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change)」が採択される。この京都議定書では、温室効果ガスの二〇〇八年から一二年における排出量を先進国全体で、一九九〇年レベル(HFC、PFC、SF6は一九九五年としても可)から五%以上の削減が求められている。

 実現するために、議長国の日本は六%、アメリカは七%削減など先進国はそれぞれ数値目標が決められている。EUにおいては、全体としては八%削減であるが、EUバブルが認められている。ルクセンブルクの二八%削減からポルトガルの二七%増加まで各国ごとに異なる目標が設定されているし、今後、EUが拡大しても二〇〇八年から一二年の目標は変更されない。また、森林などによる温室効果ガスの吸収量の増減も計算に含められる。さらに、先進国の間で排出枠を取り引きする排出量取引、先進国間で共同事業を行い、資金を提供した国が排出枠を得ることができる共同実施(JI)、先進国が途上国に対して資金を提供して事業を実施し、先進国が排出枠を得るクリーン開発メカニズム(CDM)、通称「京都メカニズム」まで採用されている。

 ところが、二〇〇三年五月、一〇八ヶ国とEUが批准し、翌年にはロシアも批准の意思を明確にしたため、二〇〇五年二月から発効する。けれども、ロシア議会は、二〇〇四年一〇月の批准法可決の際、枠組みに加わるのは「〇八年から一二年までの第一段階」であり、以降残るかどうかは未定という付帯条項をつけているし、そもそもアメリカは離脱を宣言している。議定書が発効するには、五五ヶ国以上の国が締結し、かつ締結した先進国の一九九〇年における二酸化炭素排出量の合計が全先進国の合計の五五%を上回るという二つの条件が定められている。確かに、第一の条件を満足しているが、先進国の排出量の合計は四三・九%しかないので第二の条件(2)の条件を満たしていなかったけれども、排出量が一七・四%のロシアの締結により、五五%以上という条件をクリアする方向へ一歩前進している。

 このような情勢を省みるとき、先進国の三六・一%を排出している合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領が、二〇〇一年三月、議定書に途上国が参加していないこととアメリカの経済への悪影響が懸念されるとして、議定書への不支持を表明したことは非難されて然るべきである。国際条約には批准インセンティブの問題がつきまとうのは確かだ。しかし、南太平洋の島々が水没してしまう危険に脅かされても、その住民には合衆国大統領を選ぶことはできない。その島を地図上に残せるか否かはモンタナやケンタッキーの選挙民、ならびにシカゴやデトロイトの企業次第だというわけだ。アメリカは今の地球の命運を左右している。ただし、少なくとも、野球場に限っては、天然芝に回帰しているアメリカは、人工芝だらけの日本以上に地球温暖化の抑止に貢献していることは付け加えておかなければならないだろう。

 特派員の三浦俊章は、二〇〇二年一月一六日付『朝日新聞』の「大統領にあきれ顔」において、その決定を下した最高責任者に関して次のように述べている。

 ブッシュ米大統領がテレビを見ながら食べていて、のどに詰まらせたプレッツェルというスナック菓子を味見してみた。材料は小麦粉。ひもを結んだ形に焼き上げ、塩がふってある。米国では、これをつまみにビールを飲み、テレビでスポーツ観戦するのがお父さんの休日だ。禁酒しているブッシュ氏は、プレッツェルだけ楽しんでいたようだ。
 硬いので、よくかまないとのどを通らない。周囲の米国人に聞くと、大きなかけらをのみ込んで、のどを痛めた人はいるが、「よほど不注意でないと窒息しない」と、気絶した大統領にあきれ顔だ。

 9月11日以前の大統領を思い出させる。動詞の変化を間違えたり、外国の指導者の名前を知らなかったり、どうかと思わせるような人だった。それが、テロ事件を機に、人々は大統領のよい面だけを見ようと変わる。側近もブッシュ氏が第2のチャーチルかのように指導力を絶賛した。

 今回も大統領報道官はユーモアで対応しようと、報道陣にプレッツェルを配るなど「危機管理」は一見巧みだ。しかし実は、危機の時ほど、政治家を等身大で見る目が大切なのだ。米国人が大統領のへまをまた楽しんでいるのをみると、そんな平常心が戻り始めたような気がする。

 スティーリー・ダンの名作『プレッツェル・ロジック』が聴こえてきそうだ。プレッツェルをのどにつまらせる「よほど不注意」な人物が世界を左右する権限を握っている。President Strange Love.訴訟社会と呼ばれるアメリカだが、ブッシュ大統領が、PL法に基づき、メーカーを訴えなかったのは、おそらく彼がそれをプレッツェル・ロジック法の略だと思っていたからだろう。「私は自由が欲しかった。そのために笑いを選んだんだ」(ノダル・ドゥンバゼ)。


第三節 ドル箱

 こうしたアメリカの巧妙かつ偶発的な世界支配はニクソン・ショック以降、徐々に、進められている。ローマ・クラブが「成長の限界」を主張した頃から、世界全体の経済成長率は低下し続けている。長期的に経済成長率が低下すると、事業投資機会が失われる。過剰流動性に行き場を与えるため、金融自由化への圧力が当局に市場から強まる。そういった政策を背景に余剰なマネーは株や土地に投資され、資産価格の変動が景気循環を主導するようになってしまう。

 八〇年代に先進諸国で土地バブルが生じ、九〇年代になると、金融のグローバル化が途上国にも拡大して、国際的な金融不安が何度も起きている。さまざまな対策が考案されてきたものの、金融市場・労働市場・財サービス市場がシンクロすることは稀であり、依然として、恐慌は姿を変えつつも経済を脅かしている。バブル経済では、実体経済ではなく、株や土地といった資産価格の上下によって高・中所得者の消費が引っ張られる。この資産効果が雇用を流動化し、企業の収益が改善され、設備投資が回復する。そうは言っても、バブルは株価が暴落するまでの好況が維持されているにすぎない。「大きな幸運を望んでも、それは短い(brevis est magni fortuna favoris)」。

 アメリカのGDPは七割が消費によって占められ、九〇年代以降、極端に個人貯蓄率が一〇%程度から一、二%にまで低下した反面、株式市場における個人投資家の比率が高まっている。合衆国の銀行決済システムから見れば、リスクが個人に分散したため、危機に陥っても、一気にリスクを負わなくてすむが、個人投資家にシワ寄せがいく。ババは、最後に、誰かの手に残る。資本主義には、金融市場の先行性があるため、金融経済が統計上の景気を左右し、その後、実体経済に影響を与えることも少なくない。

 金融から始まり、購買力を支えるための法的・社会的整備に支えられている労働市場や財サービス市場──特に、自然的要因に左右されやすい農産物市場──がその対応に遅れ、金融市場の傍若無人ぶりに反発する。金融市場が肥大化するにつれ、資本主義経済は実体があるともないとも言えない決定不能性にある。消費者のニーズにしても、金融市場が成熟した先進国においては、財に比べてサービス市場に偏っている。金融の自由化は長期的には経済成長率をさらに低下させ、過剰流動性がますます増えていく。

 ドル本位制は、金本位制がイギリスに与えた以上に、アメリカに利益をもたらしている。日本が巨額の貿易黒字やアメリカの債権を持っていたとしても、ドル本位制である限り、莫大な財政赤字を抱え、経済的停滞に陥ると、効力を失う。合衆国は金融資本のグローバル化により世界中から資金を集め、アメリカの株価を上昇させ、国内消費を誘導する。日本を含めた東アジア諸国、北米自由貿易協定(NAFTA)はその消費に応えるべくアメリカに製品を輸出するため、合衆国は貿易赤字を抱えてしまうけれども、彼らの貿易黒字は市場を通じてアメリカに還流する。

 しかも、恒常的な対米貿易黒字を出していないEUからも証券投資を呼びこんでいる。財政赤字はともかく、アメリカの経常収支(貿易サービス収支・所得収支・経常移転収支)の赤字は見かけほど深刻な打撃を与えることがない。実際、合衆国のエスタブリッシュメントは経常収支の赤字が経済活動の重荷になると考えていない。赤字により、海外から流入するマネーが国債を買って財政赤字を補填したり、貸し出しに回ったりして、消費や住宅投資に向かい、国内の生産・雇用を拡大しているからだ。日本の対米貿易収支の黒字は、実質的に、たいした効力がない。

 合衆国の歴代政権も双子の赤字を改善しようという姿勢は見せている。確かに、二〇〇〇年、ビル・クリントンは財政赤字を解消し、二三〇〇億ドルの黒字を達成している。もっとも、後任の元テキサス州知事はそれを元の木阿弥にしてしまっている。製造業からの支援を受け、減税政策を公約に掲げながら、軍事費を拡大する共和党政権は、ロナルド・レーガン以降、双子の赤字を減らすために、ドル安を誘導し、Made in USA製品の購買を日本など対米貿易黒字国に要求している。USA means “Unconditional Self-Acceptance”.

 双子の赤字があっても、アメリカは、アルゼンチンなどと違い、デフォルトの危機に悩まされることはない。タンゴの国は長期の軍事政権により、短絡的な近代化政策の結果、外資の流入に依存している。一九八九年に就任したカルロス・メネム大統領は、関税を下げて貿易を自由化して、国営企業を民営化、投資制限を解除して海外からの資金流入を増やし、政府による経済規制を減らして市場に任せるという経済自由化を行う。九一年からのドル・ペッグ、すなわちカレンシー・ボード制によってハイパー・インフレ──八九年には五〇〇〇%──を終焉させ、九八年まで平均で五%を越える経済成長を達成してきたが、アジアやブラジルの通貨危機の影響を受け、九八年から深刻な経済危機が続いている。国際競争力を持った産業を育成することなく、輸入代替時代同様の国内産業の保護に回帰している。

 財政悪化進めば、国債の格付けが下落し、ドル建てをしている外国人投資家は国債を売って国外に逃げてしまう。グラウディング・アウト、すなわち国債の大量発行によって財政赤字が民間投資を圧迫して金利を押し下げる状態に陥る。外貨が不足して経常収支の決済が困難となるため、外国為替市場での通貨価格が下がり、自国通貨建ての国内投資家も海外に資金を避難させる。資金を失って、株価は暴落していく。国債・通貨・株の順番で価格が下落する。合衆国の場合、国内外共に、決済はドル建てである以上、こうした事態は起きにくい。このように、アメリカは、いささか理不尽である要求であっても、いつでも、世界を脅せる。

 金本位制では金の準備高が規制だったが、ドル本位を背景に、金融機関の自己資本比率、すなわち国際決済銀行(BIS)規制やバランスシートを「グローバル・スタンダード」として、合衆国は他国にも要求している。これは国家と言うよりも、企業の次元に属する。しかも、アメリカの歴史が反映されており、他国にア・プリオリに適用できない。”Heads I win, tails you lose”.

 ドル本位制を崩すための動きも見られる。ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相がロシアのウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン大統領に原油取引の決済をドル建てからユーロ建てへの変更を提案している。ロシアは、その段階で、世界第二位の原油輸出国であり、ユーロ決済に転じれば、原油取引の基軸通貨ドルにとっては打撃となる。プーチン大統領はシュレーダー首相との会談後の会見で「可能性を排除しない」と述べているものの、対米協調を重視し、アメリカへの原油輸出拡大を目指すプーチン政権が実際にドル決済と決別するかははっきりしないし、ロシアの世界貿易機関(WTO)加盟をめぐり厳しい姿勢のEUに対する取引材料でもあろう。しかし、ドル本位制からの脱却を世界が模索しているのは確かである。

 とは言うものの、ドル本位制が崩れれば、ドルは暴落する。巨額の経常収支の赤字を抱える合衆国は貿易決済に必要な通貨を確保するため、金融の引き締め政策を採用せざるを得なくなる。そうなれば、合衆国への輸出に依存する諸国の経済は大混乱に陥る。合衆国は世界経済を人質にとっているというわけだ。金本位制と異なり、ドル本位制は覇権国の交替を困難にしている。

 一九二〇年代、金準備高が減少したため、世界の覇権は大英帝国からアメリカ合衆国へと移っている。一方、ドルを発行できる権利は合衆国の連邦銀行にのみある。ドルは合衆国の一通貨であると同時に、世界の基軸通貨である。ドル以上に流通している通貨は現段階ではない。さらに、この制度において、金本位と違い、それを維持できないとしても、そのネットワークから離脱できない。

 合衆国政府はドルを発効する限り、責任を伴うものの、すべての貨幣を回収できないため、利益を得られる。ドルは市場経済における外部である。なのに、合衆国経済の危機は世界経済の混乱に直結する以上、世界は合衆国を他の国家以上に守らなければならない。それでも、さすがにブッシュ政権の好戦的な政策によるあまりに膨らんだ赤字が合衆国の生産・雇用を縮小させ、成長率も引き下げている。イラク戦争により、有事の際のドル買いという神話が崩れ、投資対象が金へ回帰さえしている。アメリカは強く見えなければならないという強迫観念が、毎度のことながら、自滅を招いている。このままでは、アメリカが世界に心中を迫っているも同じである。Too Big To Fail.

 グローバリゼーションを背景に発展したのは、言うまでもなく、合衆国だけではない。中国やインドがその代表である。「この生産は、人口の増加によってはじめて出現する。人口の増加はそれ自身また個人相互のあいだの交通を前提している。この交通の形態は、こんどは生産によって規定されている」(カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。中国の経済成長率は、二〇〇二年までの過去五年間で、毎年八%前後、インドでは、七%弱であり、三%程度のアメリカを上回る。両国の事情は異なる。中国は相対的に安い人件費によって外国からの投資を呼びこんでいる。世界第一位の人口を抱える国では、都市労働者の賃金が高くなっても、地方から安価な労働力を補充できる。技術力も上がり、衣料品など部門によっては、日本に引けをとらない。

 好調な中国経済が日本経済に奇妙な現象をもたらしている。デフレに陥りながら、日出る国では景気が回復している。二〇〇三年度から日本の経済は景気に向かっているが、消費者物価の前年比は小幅ながらマイナスであり、GDPデフレーターに至っては、大幅なマイナスである。デフレは物価下落と景気悪化のスパイラルを招くという経済学の神話は打ち破られている。経済学的には、景気回復にはマネー・サプライの増加を誘発するマネタリーベースの増加が必要である。

 ところが、マネタリーベースが高水準であるけれども、その伸び率が鈍っているにもかかわらず、景気は回復している。合衆国の景気回復と中国の経済発展、企業の人員削減を含むリストラによってそれは実現している。インフレ・ターゲット論は期待インフレ率が高まっても、名目金利が上昇しないという前提で主張されてきている。だが、実際には、期待インフレ率が上昇すると、名目金利もつられる現象が起きており、この理論がまったく効果的でないことを証明している。

 日本は、人口ボーナスもいずれなくなるとしても、中国なしにはやっていけない状況にある。「人口は、制限せられなければ、幾何級数的に増加する。生活資料は算術級数的にしか増加しない。多少とも数学のことを知っている人ならば、前者の力が後者のそれに比してどれほど大きいか、それがすぐにわかるであろう」(T・R・マルサス『人口の原理』)。

 また、世界第二位の人口の国家インドは英語力を背景に、コンピューター・ソフトウェアの開発によって、発展している。両国とも、グローバリゼーションに伴い、経済成長しただけではなく、地域・階層の貧富の格差が拡大し、貧困層からの不満が高まっている。二〇〇四年の総選挙において、グローバリゼーションを推進し、経済成長をもたらしたインド人民党が敗れている。GDPの拡大と貧困の是正は別の次元にあるというわけだ。これはアメリカの世紀につきまとう現象である。

 社会倫理のアメリカ的なバランスに問題がないというのは、私の主張したいことではない。まったく逆である。合衆国についていうなら、自助の哲学が深刻な限界を持っているという事実、公的支援が医療の適用やセーフティーネットの供給においてとくに重要な果たすべき役割を持っているという事実を、理解できるようにならなければならない。アメリカの一部の仕事が低賃金であることは、しばしば指摘されているが、事態はこの面でも確実に改善可能である(略)。だが、次のように論ずることもできる。すなわち、恐らく低賃金以上に重要な失敗は、すべての人――豊かな者と貧しい者に対するヘルスケアや、より良い公共教育ならびに平和なコミュニティ生活の要因を発展させる必要をアメリカが無視したことである、と。

 この必要を無視したことが、合衆国において社会的に困窮したグループの間で高い死亡率を生み出した要因の一つである。例えば、アフリカン・アメリカン――アメリカの黒人は、老齢人口に達する機会が、中国ないしスリランカ、あるいはケララ州のインド人よりも低いのである(略)。第三世界のこれらの人々が合衆国の住民よりもはるかに貧しい(そして、アメリカ黒人と比べても貧しい――アメリカ黒人は、例えばケララ州のインド人と比べて、一人当たりの所得で20倍も豊かである)という事実は、アフリカン・アメリカンの生存における比較劣位をいっそう不可解なものにしている。

 ちなみに、アメリカ白人と比べたアメリカ黒人のはるかに高い死亡率は、合衆国内の様々な所得変動を調整した後においても、統計的に立証されている。死亡率の差は、暴力による死とだけ結びついているものではない。それは、メディアがアフリカン・アメリカンの低い寿命を説明するときにしばしば描くステレオタイプである。実際には、暴力による死は若い黒人男性にとってだけの大きな要因であり、さらにこのグループの高い死亡率にとってもその一部を説明するものでしかない。実際には、アメリカ黒人の死亡率の劣位は、女性や高齢者にも明確に当てはまることなのである(略)。
(アマルテイア・クマール・セン『不平等、失業および現代ヨーロッパ』)


第四節 帝国とアメリカ

 “His ego nec metas rerum nec tempora pono : imperium sine fine dedi. [....] Romanos, rerum dominos gentemque togatam“(Publius Vergilius “Aeneis”, I.1).アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、二〇〇〇年に『〈帝国〉(EMPIRE)』を刊行する。アメリカによる一極支配(ユニラテラリズム)に伴うグローバリゼーションの状況を把握し、批判する考え方である。「帝国」は国家を超えた存在として認識され、世界全体の秩序をアメリカの支配下で維持しようとする傾向、情報産業のコングロマリット化による情報操作の拡大、インターネットによる情報の拡散、それらに伴う「国境」の事実上の消滅といった現代世界の急激な変化がある。そのような現代世界を新たな「帝国」として見ようとする試みである。

 ネグリ=ハートによれば、これは「地球規模の帝国(グローバル・エンパイア)」の出現である。「帝国」はアメリカが世界情勢に対し決定権を握る世界ではなく、国民国家を中心としない世界秩序である。WTOやIMFなどの経済組織、G7と呼ばれる主要国民国家、さまざまなNGOならびに多国籍企業が一体となって機能する中心なきネットワークを指す。アメリカのネオコンの帝国主義はかりに政治的・軍事的に覇権を獲得したとしても、世界から反発を招き、失敗に終わる。「帝国」がそれを克服する。アメリカを内包する世界秩序が形成される。しかし、ネグリ=ハートは、この新しい帝国も、かつてのローマ帝国と同じように「衰亡」の要素をはらんでいるとする。「自分の武器によって滅びる者は二重に破壊される(bis interimitur qui suis armis perit)」(プブリウス・シルス)。

 ネグリ=ハートの「帝国」という概念は不用意であり、彼らの意図に従って使われることはジャーナリズムには少なく、ローマ帝国の再現と見られている。アメリカのネオコンは「帝国」をアメリカ帝国主義と混同しているが、これは無理もない。西洋の歴史を辿ると、ベニト・ムッソリーニのイタリア王国やアドルフ・ヒトラーのドイツ第三帝国のように、何度かローマ帝国の復興を自称する国家が登場している。これはヨーロッパ人に限らない。

 ローマの劇場跡が点在する中東地域でも似たような正当化が見られる。トランス・ヨルダン首長国のアブド・アッラーフ・ブン・フサイン国王も、パラシュート国王としての地位の正統性を古代ローマ帝国とのつながりによって強調している。ローマ帝国は、その意味で、西洋人にとって政治的な「父の名(Nom du pere)」(ジャック・ラカン)である。

 ジョージ・W・ブッシュ政権のネオコン政策を契機に、世界的に「アメリカ=帝国」論が、左右を問わず、議論されている。実際に、アメリカ帝国主義にしても「帝国」にしても、両者は決して遠くない。と言うのも、アメリカは、ドルが示している通り、二〇世紀にとって内部であると同時に外部であり、それはアメーバ運動である。ネグリ=ハートの中心=非中心ではなく、その決定不能性が二〇世紀の表象である。

 ネオコン的な帝国の対抗概念として、アラン・ジョクスは、『〈帝国〉と〈共和国〉(L'empire du Chaos)』において、アメリカ「帝国」の混沌に抗するヨーロッパの理念「共和国」を提唱している。多国籍企業を優先し、貧富拡大を放置、軍事化する〈帝国〉は「混沌」=「万人の万人に対する戦争状態」の管理人にすぎない。フランス革命の理念やトマス・ホッブズを再検討し、現在の政治・社会・経済軍事状況を鋭利に分析して、新しい〈共和国(La republique)〉のための理論的・実践的戦略を提起する。けれども、こうした議論は、問題の機軸から見ても、帝国のヴァリエーションである。

 他にも、アメリカを排除せず、国際社会に引っ張りこむ方策を模索している論考も少なくない。この背景には現在の国際情勢が、そのキーワードをきっかけにすると、理解しやすいという認識が蔓延しているからであろう。キーワードはファイルの拡張子であり、メディアの一種である。合衆国をパックス・ロマーナとのアナロジーで語った行のはかのマルクス主義者が最初ではない。トマス・ジェファーソンは「自由の帝国(Empire of Liberty)」を唱え、合衆国が南北アメリカを統一すべきだと主張している。

 KKKは、自分たちの組織を「見えない帝国(Invisible Empire)」、そのリーダーを「帝国の魔王(Imperial Wizard)」と呼んでいる。また、ハロルド・マクミランは、アメリカが古代ローマ帝国であるとすれば、イギリスは古代ギリシア文明を演じていると考え、在任中、JFKの相談役を自認している。彼は、第二次中東戦争に、フランスと共に、スエズに派兵したものの、アメリカを中心にした国際的非難を浴びた責任をとって、一九五七年に辞任したロバート・アンソニー・イーデンの後任であり、この政権下でイギリスは近代帝国のさらなる解体とヨーロッパへの回帰を志向することになる。マレーシアやキプロス、ジャマイカもこの時期に英国から独立している。イギリスのマレー半島における植民地支配の狡猾さはアブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カディールの『アブドゥッラー物語』に詳しい。

 アフリカでは前年にスーダンが独立しており、他のイギリス植民地も次々と独立を果たす。これらの新国家の多くは英連邦内にとどまったが、アパルトヘイト下にあった南アフリカ連邦は一九六一年に脱退を表明し、「南アフリカ共和国」と宣言している。制度撤廃後の一九九四年、総選挙でアフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任し、国連と同時に英連邦にも復帰している。このように大英帝国の解体は進んだが、一方でこれら旧植民地からの本国への移民は増加し、イギリス社会内に緊張を生みだした。その結果、イギリスは、アメリカを背景にして、ヨーロッパ内で、発言力を確保する外交方針を選択する。スリム化に伴い、ヨーロッパの重要性を認識したマクミラン政府はヨーロッパ経済共同体(EEC)への加盟を申請したもの、フランス大統領のシャルル・ド・ゴールに拒絶される。一九六三年、赤恥をかかされたスーパー・マックは辞意を表明する。”A man who trusts nobody is apt to be the kind of man nobody trusts”.アメリカをローマ帝国とのアナロジーで認識する試み自体は、博識高い知性であろうと、凡庸な俗物であろうと、出版社社長であろうと、ありふれたものでしかない。

There is a tide in the affairs of men,
Which taken at the flood leads on to fortune;
Omitted, all the voyage of their life
Is bound in shallows and in miseries
(William Shakespeare “Julius Caesar” Act4. Scene3)

 アメリカとローマ帝国とのアナロジーは自由を標榜しつつも、軍事力に訴える拡張主義と自閉性に一つの理由があるだろう。伝統的に、合衆国の外交政策は、ヨーロッパの「国益(National Interest)」優先に対するアンチテーゼとして、二つの柱によって支えられている。合衆国は、建前上、「国益」に囚われない。一つは孤立主義であり、もう一つはイデオロギー外交である。両者共、ナポレオン戦争にゆれる欧州への中立と「自由の帝国」という第三代大統領の政策方針にすでに見られる。

 前者はジェームズ・モンローが唱えたため、「モンロー主義(Monroe Doctrine)」とも呼ばれ、後者は、原則的には孤立主義を保持するものの、合衆国は自由と民主主義を輸出しなければならないという外交方針であり、セオドア・ルーズベルトの「棍棒外交(Big Stick Diplomacy)」、ウィリアム・タフトの「ドル外交(Dollar Diplomacy)」、ウッドロー・ウィルソンの「宣教師外交(Missionary Diplomacy)」、フランクリン・ルーズベルトの「善隣外交(Good Neighbor Doctrine)」が含まれる。しかし、それは、しばしば、アドホックなものに見える。

 ただ、第四一代大統領の息子は、待ってましたとばかりに、イラク戦争を起こしているが、これは第二次世界大戦後の大統領の姿勢としては異例である。地域紛争に対する大規模介入を決断したハリー・S・トルーマンにしろ、リンドン・B・ジョンソンにしろ、当初はそれに消極的である。彼らの共通の認識は「そんなところにアメリカの若者が死ぬほどの価値があるのか?」である。特に、ベトナムに関しては、米軍にはゲリラ戦に通じた兵士が少なく、勝ち目がないから手を引くべきだとある側近から”Let’s Continue!”をスローガンにした大統領は助言を受けている。けれども、彼らは、アメリカは強く見えなければならない、あるいは敵に見くびられてなるものかという強迫観念によって陸上部隊の投入を決定している。負けることがわかっていても、弱虫と見られるのが怖くて後に引けない。意図的に腰抜けと見られる柔軟さの持つ強さをアメリカは、未熟にも、体感できない。アメリカは外面的には比類なき怪力を持ちながら、内面的には思慮深さに欠けるヘラクレスである。

 自由と民主主義は別の概念である。自由が外部志向の発想であるのに対し、民主主義は内部志向である。国民国家的な民主主義はルサンチマンを利用する。ルサンチマンは国民国家において、内部と外部が強調され、増幅される。それは否定的根拠だけではなく、内部と外部の境界から生じ、内部は外部の設定の反動によって規定される。外国人の規定の反動が国民を規定する。

 そのアメリカ的な調停が彼らのイデオロギーに自由民主主義である。アメリカは、東西冷戦の崩壊後、唯一の超大国になっているが、どうも、「いやいやながらドクトレにされ(A Doctore Despite Himself )」という思いがあるようだ。古代ローマにおいて、ドクトレはグラディエーターの指導教官を意味する。「皇帝万歳!死にゆく者たちが貴殿に挨拶を(ave imperator, morituri te salutant)」。

 そうした前政権の態度に不満だったジョージ・W・ブッシュ政権の「空爆外交(Air Bombing Doctrine)」とも言える外交方針は合衆国の伝統から逸脱しているわけではない。ネオコンが左翼からの転向者であり、そのイラク政策が、日本のマルクス主義に影響された革新官僚による満州国政策に類似している点は興味深い。アメリカの古典的な保守派は孤立主義者であり、彼らを蛇笏のごとく嫌っている。

 イデオロギーは、認識上、たんなる駒にすぎない兵士を栄光ある戦士へ、恥ずべき搾取を正義へと変えるが、合衆国は、ローマ人が驚くほど熱心にも、そうした倒錯を重要な外交方針にしている。古代ローマの拡大政策の理由として、従来、安全保障や将軍の野心、イタリア同盟諸国の兵士の確保が強調されてきたけれども、経済的利益の追求を見るべきだろう。軍団は既得権を絶対に手放さない。皇帝は彼らの顔色を伺いながら政策を実行する。ローマは戦争で奪った地域を属州として経済的に搾取している。イデオロギー外交にもそうした恩恵が合衆国にもたらされてきたことは否定できない。イデオロギー優先の点でブッシュのアメリカは、明らかに、ローマと異なる。ただ、膨張主義が自国を疲弊させた点は両者に共通している。

 イデオロギー外交は、イラクへのアメリカの干渉が示している通り、民主的な「選挙」の実施を目標に掲げられている。自分たちとの価値観の共有を求めている。けれども、民主主義が選挙に基づいているというのは近代の誤謬である。古代ギリシアのアテナイで行われていた民主政において、選挙は貴族政治に属している。当選者が世襲を含めて長期的に固定化し、腐敗の温床だからだ。むしろ、民主政の基礎は民会と輪番制である。広場に市民が集まって意思決定するのが民会である。

 女性と奴隷に参加資格がないという点で、アテナイの民主主義もやはり内向きである。一〇人の将軍だけは選挙で選ばれるものの、他の公職は抽選で選ばれ、任期も短期間である。抽選は人知を超えた神の意思が反映され、政治は一部のエリートではなく、市民によって実施されるべきだからである。ディエゴ・マラドーナは、一九八六年のメキシコ・ワールド・カップにおいて、「神の手」によってゴールを果たして、そのままアルゼンチン・チームを優勝に導いている。選挙の弊害を補うために、デマコーグの登場の一因ともなった陶片追放が採用されている。

 古代ローマ人は、古代ギリシア人と違い、理想を追求するよりも、現実感覚を重視している。彼らはパワー・バランスによって利害を調整する君主政・貴族政・民主政を組み合わせた混合政体を選択している。今日の民主主義が普及した地域で、選挙が民意を反映していないという理由から、投票率が下がるのは当然の現象である。また、NPOのグローバル・エクスチェンジは合衆国の大統領選挙に国際社会全体から選挙監視員を派遣することを提唱している。いくつかの州や郡で、マイノリティならびに低所得者の一部の投票が拒否されていたり、タッチ・スクリーン式の電子投票機の安全性に疑問点が見られたり、有力企業および個人の資金が選挙に懸念ある影響を与えていたりするからである。

 二〇〇四年はともかく、合衆国の大統領選挙の投票率は通常五〇%前後であり、先進国の中では最低のパーセンテージであって、その上、多くの州が「ウィナー・テイク・オール」を採用している。二〇〇〇年に至っては、総得票数五〇四五万六一六九(総得票率四七・九%)が世界の命運を左右している。五〇〇〇万人強の有権者の決定が約六〇億の人間と無数の生物の生死に影響を及ぼしているのである。選挙は近代において、数量化の絶対性のために、権力の正統性の証として特権化されている。民主主義は未完のプロジェクトでもないし、永久革命でもない。

 「その点でぼくは、多数派を優位におく『民主主義』にいくらか冷たい。多数派はたいてい安定志向で、時流によりかかる。さりとて、少数派にいつも真理があるとも思わぬ。少数派は損なところがあって、つぶれやすいし、運よく文化の流れを先どりしていても、世に認められないことが多い。ゴーギャンやゴッホが少数派の見本。だから、多数派で安定を維持するのが、民主主義の消極的効用。しかしそれをイデオロギーにすることもあるまい。せいぜいが、安定性のためのブレーキであって、それをイデオロギーとして扱うモラルは二十世紀的すぎる。まだ存在しない、多様性を優先したモラルをどう作るか、それこそが二十一世紀の課題だろう」(森毅『文化と伝統』)。アテナイ市民よりも、近代人は、政治的理想において、後退している。イデオロギー外交は、その意味で、ローマ人が得意とした記憶の断罪である。

 また、多数決を民主的な意思決定と認めていても、古代のユダヤ人は満場一致を統一された意思とは見なしていない。議会であると同時に宗教裁判でもあるサンヘドリンにおいて、満場一致の決議を無効としている。さまざまな背景を持っている人が集まっているのに、満場一致になるのは、一時の感情あるいはその場の雰囲気に流されたか、買収されたか以外にありえないと彼らは考えている。

 ところが、一世紀に、その原則が破られてしまったことがある。サンヘドリンの議長である大祭司カヤパに促された議員たちはかのナザレ人への処刑を満場一致で決定してしまう。古代のユダヤ人にとって、絶対的なものは神以外ありえないから、満場一致を完全とするのは思い上がりも甚だしい。もし人間が完全なら、エデンの園から追放されることもなかったし、ノアの方舟をもたらした大洪水もなかったし、ソドムの滅亡もありえない。こうした発想は現代にも通じている。J・S・ミルは、『自由論』において、民主主義は多数決が原則であるとしながらも、少数意見の尊重を説いている。人間は過ちを犯すことがありうるからである。満場一致制は各構成員に、濃淡の違いはあっても、責任を分担させてしまう。

 森毅は、『元兇還元主義からの脱却』において、満場一致体制によって戦争へと突き進んだ日本について次のように述べている。
 
 戦争が終わったとき、悪いのは将軍たちで、その手足となった兵士たちに罪はない、といった言説が幅を利かせた。実際に迷惑だったのは隣組の軍国おじさんや、下っ端の兵隊たちだったのに。悪いことはたいてい、手足の仕業である。頭のせいにして、手足の大衆を免責するのは不満だった。
 昔から王殺しというのがあって、社会の悪を浄めるのに、王を殺すカタルシスによって、秩序をとりもどす。しかし、本当のところ、悪は社会の秩序そのものになかったか。
 戦闘にあって、手足は頭の思うとおりに動いてもらわぬと困るかもしれない。だから、軍隊がきらいだったのだ。戦前はそれでも、軍隊と別の論理もあったのに、かえって戦後になって日本中が帝国陸軍になってしまったような気がしている。手足がもっと、自分の判断をするべきだったはずなのに。

 “Tyger! Tyger! burning bright, In the forests of the night, What immortal hand or eye Could frame thy fearful symmetry?”(William Blake “The Tyger”)’満場一致は、もともと、対立をはらんでいるところで採用される。満場一致が原則であるとすれば、構成員は拒否権を行使できることになる。拒否権は構成員の間の勢力均衡を目指して設定される。拒否権を国内の政治慣習として確立したのには、異文化間の共存を目的とする多極共存型デモクラシーがある。多民族国家で政策決定が多数決で決められれば、多数派民族の利益だけがつねに優先されてしまう。言語や民族、宗教などで対立する集団を抱えるオランダ、スイス、ベルギーなどでは、多数決原理は国内の集団対立を激化させかねない。

 そこで、これらの国においては、少数派集団の自律性を保証するために、それぞれの集団には拒否権が慣習的に保証されている。こうした相互拒否権の存在は、政策決定の満場一致の原則を設定して、国内における集団間の対立を回避することを目的としている。拒否権は国際連合の常任安全保障理事国ではしばしば問題解決を滞らせている。この拒否権に関しては、最初から、形成過程や法的根拠などさまざまな問題をはらんでいる。構成員はそれを使い、見返りを要求できる。

 直接的な利害関係がなくても、その取引を使い、自分の利益を手にすることができるというわけだ。各構成員はすべての領域に関与していることになり、そこには濃淡がある。構成員の間で、調整が計られるが、調整は一つのパイをどのように分け合うかである。まったくパイを手にしないものもいない代わりに、パイを独占するものもいないのです。不平不満は、パイがある限り、最小限でとどまる。このように、拒否権を行使できるために、権限のないものが有力になりうる。組織体における影響力は能力ではなく、拒否権の行使するタイミングによる。民主主義は決してア・プリオリではない。

 今の間接民主制の起源は古代ギリシアではなく、ヨーロッパ中世の身分制の統治契約にあり、国民議会は身分制議会の延長である。統治契約に基づき、封建家臣は封建君主に対して助力と助言を与えているが、封建的主君にすぎなかった国王は、一三世紀以降、王国の諸身分代表を招集するようになる。身分制議会は、戦争といった緊急事態に際して、援助金を王国全域の臣民から徴収する課税承認を承認する機能を果たしている。この頃、通常の王国財政は王領地からの収入や流通税などによって運営されており、それ以外の臨時の特別課税を行う場合には、その理由や金額、徴収期間について、対象となる被課税者の同意の必要があったからである。

 王権と身分制議会との関係は時代と地域に応じて多様である。王権が強大であるため、議会は国王の要求に追従するだけの場合から、課税承認権を武器にして臣民が王権の圧政に抵抗する場合まである。後者では、議会は王権と諸身分との交渉の舞台であり、課税承認の対価として、さまざまな請願受理や特権拡大が要求されている。絶対王政期、全国的な徴税システムや常備軍が整備されると、権力を集中した王権により、それに従属する諸身分に交渉の機会が与えられなくなり、社会危機の時期を除けば、身分制議会の招集は稀になってしまう。この儀式化した議会への不満が王以外の人々が封建制を破棄し、国民国家設立に取り組ませるきっかけの一つである。現代社会を考えるなら、古代ローマ以上に中世を省みるべきだろう。


第五節 帝国と皇帝

 西洋の「帝国」は、歴史的に、「皇帝」の支配と不可分の関係にある。「皇帝」は、ヨーロッパにおいて、古代ローマのみならず、中世を含めた王国や民族を超えた最高支配者の称号であり、その普遍的支配領域は「帝国」と呼ばれる。しかし、この「帝国」という概念はあまりに西洋的、西洋的である。中国では「皇帝」はいても、「帝国」という概念がない。また、インドやイスラム圏、中南米、アフリカにも、多種多様な王朝が誕生し、その支配者の称号が「皇帝」と見なせるかどうかは、西洋的な認識によって判断されるものでしかない。彼らの権力はローマ皇帝を凌ぐものさえ少なくないし、「皇帝」という概念によりその独特な支配形態が見失われてしまうことがある。皇帝支配の一形態が「帝国」にすぎない。「皇帝か無か(Aut Caesar aut nihil)」。

 「ローマ帝国」は”imperium Romana”の訳語である。これは「インペリウム(imperium)」、すなわち「コンスル(consul)」と呼ばれる執政官による支配を意味している。コンスルは共和政ローマ最高位の官職であり、任期は一年、定員二名である。市民集会で選出され、元老院の承認を受けて就任する。皇帝の存在は、ヨゼフ・ハイドンからルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン、リヒャルト・ワーグナーに至るまで西洋の音楽家の創造力を刺激してきたが、ヨーロッパにおける「皇帝」という称号の起源は、前二七年に、帝政前期に元首政を開始し、事実上の初代ローマ皇帝となった「アウグストゥス(Augustus)」が、自らの肩書きの一部とした「インペラトール(Imperator)」と「カエサル(Caesar)」である。「幕は終わった(acta est fabula)」。インペラトールは、命令する者、すなわちローマ軍最高司令官の意味であり、カエサルは、アウグストゥスがその養子相続人となったガイウス・ユリウス・カエサルである。前者からは、英語の「エンペラー(Emperor)」やフランス語の「アンペルール(Empereur)」、後者からは、ドイツ語の「カイザー(Kaiser)」やロシア語の「ツァーリ(Царь)」が派生している。皇帝がいて、初めて、帝国はある。

 「帝国」はたんに地中海的な政治体制として発達したわけではない。東の影響が見られる。元首政の時代には、共和政の制度や建て前が残存し、事実上は独裁的な権力者=皇帝だった尊厳ある者も、市民の第一人者という意味の「元首(princeps)」と称している。プリンケプス・アウグストゥス・インペラトール・カエサルと名乗っていたというわけだ。共和政以降のユリウス=クラウディア家の皇帝やフラウィウス家の皇帝は、事実上、君主以外の何者でもない。ローマではさまざまな占いが軍事行動の前に行われている。特に、鳥占が重要視されている。ただし、ローマの占いは神に結果を伺うのではなく、神に自分たちの選択を承認させるものでしかない。鳥を空腹にさせ、自分たちの選択を導き出せるように用意している。小ブッシュ政権の合衆国でも、神は彼らの選択を承認する存在に堕している。”What you see is what you get”.

 しかし、二八四年に即位したディオクレティアヌス帝に始まる帝政後期には、専制君主政が確立し、皇帝は名実ともに地中海世界を統治する世界帝国ローマの最高支配者となり、その神聖化も企てられる。二人の正帝と二人の副帝が共同で統治する「四分治制(テトラルキア)」を導入しつつも、ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは専制君主政を強化している。宮廷儀礼にペルシア風の拝跪礼を採用し、皇帝を神の代理人であると称して「ヨウィス(ユピテルの代理)」の呼称を与え、もう一人の正帝マクシミアヌスには「ヘラクリウス(ヘラクレスの代理)」の名を冠している。こうした儀礼は自由を尊ぶローマの慣習とは相反している。これを契機に、ヨーロッパ中世に至るまで宮廷の儀式にペルシア流がとり入れられていく。三一三年のミラノ勅令によってキリスト教を公認したコンスタンティヌス一世の下で、カナン生まれのキリスト教が皇帝の支配理念の一つとして付け加わる。「帝国」は東西の専制政の融合、もしくは「東洋的専制主義」(カール・ウィットフォーゲル)の西方化と考えるべきだろう。

 G・W・F・ヘーゲルの『歴史哲学』に見られる東洋から古典地中海、プロイセンへといたる自由の発展の歴史は、むしろ、倒錯した意識である。東洋的あるいは「アジア的生産様式」(カール・マルクス)と言われる強固な中央集権的な支配が達成できないがゆえに、西欧の政治体制が形成されてきたのであり、その引け目は優越感へと変わる。

 確かに、古代ローマでは、ギリシア同様、「自由(libertas)」が尊ばれる。ただし、自由はあくまで身分制に基づいている。貴族の自由は政治を直接的に行い、単独的・長期的な権力に反対し、元老院を尊重させることである。他方、平民の自由は護民官の拒否権を行使して、民会の機能を高め、土地の分配を有利に運ぶことを指す。自由は自分が所属する身分の政治的発言権と経済的利益の確保である。

 こうした自由観は、近代の個人主義ではなく、今日のロビー活動に似ている。合衆国は、イデオロギー外交において、古代ローマ以来の自由を訴えているだけだと国際社会に働きかけている。

 歴史を顧みると、確かに、長らく、帝国が国際情勢において非常に大きな影響を及ぼしてきたことがわかる。ただ、歴史を知るほど、なぜネグリとハートが現代に帝国の議論を再燃させているのか理解できない。帝国は中心のないネットワークではない。元代の国際秩序は帝国概念から捉えるのには無理がある。帝国論を読む限り、ネグリとハートの知識は西洋史に偏っていて、東洋の帝国をあまり認識していない。建設的論議の際に、帝国を持ち出すとその妨げになる。帝国をめぐる曖昧な通念を整理するため、欧州と中国の帝国の歴史をたどってみよう。


第六節 ヨーロッパの帝国

 三九五年にローマ帝国が東西に分裂し、四七六年に西ローマ帝国が滅亡した後には、ギリシア語で王を意味する「バシレウス(Βασιλευ?)」と称される東ローマ皇帝が、一四五三年の滅亡まで政教の全権を支配し、唯一の正統なローマ皇帝としてその権威を主張している。六世紀頃から、ギリシア語が帝国の公的な場で使われ、政治・宗教・文化の東方化が進み、コンスタンティノープル教会はローマ教会とキリスト教の正統性を争うようになり、一〇五四年、三位一体における精霊の地位をめぐる論争から、お互いに破門し合い、大分裂を迎えてしまう。

 コンスタンティノープルは、西ヨーロッパと違い、コンスタンティノープル総大主教の任命権を握るなど皇帝教皇主義を採用したが、それが宮廷の不安定さの要因となり、後継者を自称するロシア帝国の宮廷内でも続くことになる。一五世紀になって、南ロシアを実効支配するモンゴル人をうまく利用して力をつけたモスクワ大公国のイヴァン三世が最後の東ローマ皇帝の姪を娶って、「皇帝」の名称と「双頭の鷲」の紋章を手にしている。以降、モスクワ大公国の流れを持つロシア帝国はビザンティン帝国の正統な相続人を自認して、ツァーリは絶対的な政治権力・宗教的権威として君臨し、最盛期には北アメリカのアラスカまで支配する大帝国に成長していく。

 これに対して、西ヨーロッパでは長い間、皇帝が登場しなかったけれども、教義問題でビザンティン帝国と対立し、有力な世俗権力の後ろ盾を必要としていたローマ教皇レオ三世が、八〇〇年のクリスマスの日にカロリング朝フランク国王であるカール大帝を「皇帝」として戴冠させる。以後、中世西ヨーロッパにおける皇帝は、ローマ教皇や都市ローマの保護者だけでなく、キリスト教徒の共同体全体の守護者としての立場をとるようになる。皇帝がローマにおいて教皇の手によって戴冠される習慣となったことは、両者の協力関係を示しているが、一方で、皇帝と教皇のどちらが上位にあるかという微妙な問題を生み出してしまう。

 歴史的に、西の帝国は、東と違い、不安定であり、それを「帝国」と呼ぶことさえ首を傾げるほどである。為政者たちは、その脆弱さゆえに、磐石な「帝国」を渇望していたとさえ見える。

 カール大帝の息子であるルイ敬虔帝の時代には、彼の死後にカロリング帝国がゲルマン古来の分割相続の原則により複数の息子たちの間で分割されることが予想されていたため、そういった分裂を懸念するランス大司教アインハルト・アンギルベルト・フラバヌス=マウルス・ヒンクマールといった教会理論家たちは皇帝や帝国の普遍性、さらに皇帝のキリスト教的使命についての理論を展開する。しかし、八四三年のベルダン条約によってフランク王国が三分割されると、皇帝位はカロリング家の諸国王の間を転々とし、名目的な称号に落ちていく。

 カロリング朝の家系断絶後、九六二年に、ザクセン朝ドイツ国王であるオットー一世が教皇ヨハネス一二世の手により戴冠されて皇帝位に就いて以降、多くのドイツ国王が皇帝として即位し、その支配領域が「神聖ローマ帝国」と呼ばれるが、そのような名称が実際に登場するのは一三世紀半ばである。オットー一世の孫で、ビザンティン皇女を母に持つオットー三世の時代には、「ローマ帝国の復興」という理念が明確に追求される。かつてアウグストゥスの宮殿があったローマのパラティヌスの丘に皇帝宮殿が建てられ、そこを古代風の帝国支配の中心にしようとしている。

 ザクセン朝に続くザリエル朝時代には、長年に亘って懸念されていた叙任権闘争が起こり、聖職叙任権をめぐって皇帝とローマ教皇が対立する過程で、キリスト教世界のリーダーシップも同時に争われる。その結果、少なくとも教権に関する教会聖職者の叙任権がローマ教会にあることが確認される。同じ頃、ドイツ王国内において諸侯に対する皇帝の優位が失われたこともあって、一三世紀初頭には教皇権の皇帝権に対する優位が明らかとなる。教皇インノケンティウス三世は、次のように演説して、皇帝選挙にまで介入し、皇帝承認の権限を主張している。

 造物主は教会のもとに二つの主権をおいた。その一つは教皇権で、これは太陽のようなものである。いま一つは皇帝権で、これは月のようなものである。それゆえ、太陽が月の上に位するように、教皇権が皇帝権の上に位することは自明である。神は聖ペテロに全世界の教会だけではなく、宇宙のすべてを支配すべき使命を託した。万人が教皇に服従することは、あたかも羊が牧人の杖にしたがうごとくである。

 しかし、一四世紀以降、ドイツ国王は教皇支配からの独立を目指し、一三五六年の金印勅書によって七名の選定侯によるドイツ国王 = 皇帝の選挙の原則が確立されて、皇帝即位に関する教皇の関与は事実上消滅し、教皇による戴冠式すら必要ではなくなる。他方、オットー一世以後のドイツ王国では、皇帝は実質的にはドイツ国王にすぎないという現実と普遍的支配者としての皇帝理念とが対立せざるをえなくなってゆく。皇帝理念はローマとイタリアの保護を求めたため、歴代の皇帝はイタリア遠征と支配を繰り返している。それは、一二二〇年から五〇年まで続いたシチリア王とエルサレム王でもあったシュタウフェン朝のフリードリヒ二世時代に頂点に達したが、彼の死後は皇帝のイタリア半島における支配圏は事実上消滅する。金印勅書によって規定された選定侯がいずれもドイツの聖俗大諸侯であるという事実は、そこで選ばれる皇帝がもはやドイツの国内統治に限定されたことをはっきりと示している。

 また、中世後期のヨーロッパ各国で、それぞれに中央集権化が進行し、国民国家が形成されてゆく中で、キリスト教徒の共同体に対する責務も含めて、皇帝と各国の国王は対等の政治的支配者であるという理論が生まれ、従来の普遍的皇帝権が相対化する。先が閉じた王冠や十字架がついた宝珠など皇帝だけが用いるとされた標識も、各国の国王が模倣する。そのような皇帝権相対化の事情は、西ヨーロッパだけでなく、東ヨーロッパにも見られえる。

 一三世紀後半には、シュタウフェン朝断絶後の皇帝位をめぐってドイツ諸侯が対立し、皇帝が選出されないという大空位時代があり、ドイツにおいても皇帝や帝国の称号と権威は内実を欠くものになったことが露呈する。一四世紀以降、西ヨーロッパでは、皇帝位は依然としてドイツ国王によって継承されるものの、普遍的政治権威ないしキリスト教共同体の守護者としての内容は消失する。

 一八〇六年に神聖ローマ帝国が完全に崩壊した後には、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家が皇帝位を主張し、フランスにおいてもナポレオン・ボナパルトとその甥ナポレオン三世が皇帝を名乗っている。また、イギリスでも、ヴィクトリア女王は、植民地帝国については皇帝の称号を用いている。しかし、この時期になると、古代や中世半ばまでの皇帝の持っていた普遍的支配者理念は消滅しており、たんなる複数の王国や民族の支配者であることを主張する称号にすぎない。


第七節 中国の帝国

Emperor Pu Yi: Open the door!
(Bernardo Bertolucci "The Last Emperor”)

 民主政以外の政治思想が高度に発達した中国では、前三世紀に登場した秦の始皇帝以来、二〇世紀初めの清王朝の滅亡に至るまで、歴代の各王朝の君主を「皇帝」と称している。それ以前の歴史的に確認される最も古い殷王朝の君主たちは「王」を自称し、殷の王は「帝」と呼ばれる天上の至上神を祭り、亀甲や獣骨を焼いてできるひび割れを用いた占いによって政治を行っている。王は政治的な指導者であると共に、祭祀の主宰者である。殷に代わった周の王は、天上を支配する「帝」の命、すなわち天命を受けて地上を支配すると考えられ、「天子」という称号が生まれる。

 「天子」という単語は西周時代の金文にすでに使われている。西周が衰退して春秋時代になると、南方の有力勢力である楚や呉、越の支配者も王を自称し、戦国時代には、強国はいずれも王の称号を用いている。また、春秋時代に孟子が天命を受けた王者をめぐる「王道」の理論を展開する。戦国時代の戦乱を経て、秦王の政は、前二二一年に初めて中国全土を統一し、中央集権的な統一王朝を建設する。政は丞相の王綰らに新しい広大な国に君臨する自らの称号を論議させる。既存の「王」や「天子」以上の権威を示す言葉でなければならない。王綰らは古代に「天皇」・「地皇」・「泰皇」の「三皇」があったことから「泰皇」がよいと奏上したけれども、政は自ら「皇帝」を採用して最高支配者の称号としている。つまり、「皇帝」は中国の統一を強烈に意識した概念である。

 「皇帝」は「帝」と「皇」の二つの語=意味に基づいている。「帝」は、元来、自然及び人間世界のすべてを支配する天上の最高神を指し、「上帝」とも呼ばれている。これにも先例がある。殷の時期に、王の死後に「帝乙」と呼んだり、周代になると、伝説上の古代の帝王を「帝堯」、あるいは「帝舜」と称したり、伝説的な「五帝」の説話が形成されたりしている。また、戦国の諸侯はそれぞれ王を称して覇を争ったが、他の王以上の権威を誇示するために「帝」を称える場合もある。一方の「皇」は神格化された祖先を指したり、上帝に対する尊称として用いられたりしている。他にも、『尚書』の「呂刑編」のように、伝説の聖天子である黄帝や帝堯を含む言葉として「皇帝」が用いられている。

 このように、「王」に代わる「皇帝」の用例はすでにあったが、秦の始皇帝は地上の最高権力者を正式に「皇帝」と決定する。彼は太古の伝説的な「三皇五帝」を凌ぐ自らの功業と権威を誇示する称号として、「皇帝」の名号を採用している。その上で、始皇帝は、帝位を二世から三世、さらに万世へと伝えることとし、皇帝専用の言葉──自称を「朕」、命を「制」、令を「詔」──や、皇帝の行う儀礼や儀式に使われる制度や文物などを規定する。また、始皇帝は王侯を廃止して郡県制を全土に広げ、配下の官僚を各地に派遣して支配している。「皇帝」は、歴史区分も含む、時間・空間の中心にほかならない。

 しかし、秦の滅亡後、「楚王」を称した項羽や「漢王」劉邦などの有力勢力が争った末、項羽を破った劉邦が再度全土を統一し、彼は「王の中の王」として「皇帝」に推戴される。皇帝となった劉邦は一族や功臣たちを「王」に封ずる郡国制を採用するが、これは、周の封建という制度の部分的な復活である。この高祖劉邦以後、皇帝の称号が定着する。天命を受けた者の称号として「天子」という言葉も残ったため、皇帝は天の権威を代行する祭祀者としては「天子」であり、天命を委託されて世俗世界に君臨する統治者としては皇帝である。

 この段階では、中国皇帝は、ヨーロッパと同様、宗教的権威であると同時に政治的権力である。宗教的といったものの、欧州と比べて、道徳的という側面が強い。新しい王朝の草創期には有力者を王に封ずる例が歴史上繰り返し行われている。皇帝権がこうした有力者に脅かされることもあって、三国時代を含む魏晋南北朝時代には、有力な豪族や門閥貴族の勢力が強く、皇帝はしばしば有徳の者に帝位を譲ることを意味する「禅譲」などの理由で帝位を奪われている。また、北方の遊牧民族が領域を脅かしたり、仏教勢力が皇帝崇拝を否定したりする場合もあり、皇帝権は絶対的ではない。

 唐代末から五代十国の戦乱を鎮圧して再度中国を統一した宋の太祖趙匡胤は、科挙官僚による支配体制を確立して、皇帝権を強化する。皇帝の存在が突出してくるのはこの時期からである。儒学を中心とした科挙によって選出された官僚は身分を問われない。身分ではなく、皇帝の決定が絶対になる。合格者は貴族でも農民でもない。中国の行政を担う官僚であり、世間は彼らに平伏する。教育はすべて科挙の合格を中心に再編成され、文化は儒教が優先される。科挙が皇帝を比類のない政治的・経済的・宗教的・文化的な中心に押し上げたと言ってもよい。中国は、このときから、「帝国」を超えていく。門閥貴族勢力は退場し、「読書人」や「士大夫」と通称された科挙を目指す地主層が社会の支配階層を形成する。これがその後の元や明、清の王朝に受け継がれる。

 中国皇帝の力の頂点は、「パックス・モンゴリカ」こと元だろう。一般に「モンゴル帝国」と呼ばれるが、それを構成するフビライ・ハーンの元とオゴタイ・ハーン国、キプチャク・ハーン国、イル・ハーン国、チャガタイ・ハーン国の関係は友好的であるときもあれば、対立しているときもある。実際、オゴタイ・ハーン国は元としばしば対立した挙げ句、キプチャク・ハーン国に併合される。「割れた鏡から 割れた光が反射する けれども君からは完全な言葉は生まれない」(ミシギーン・ツェデンドルジ『割れた鏡から』)。

 この四つのハーン国は、駅伝網によって、中国地域にある大ハーンの首都と国の前線とを結んでいる。さらに、中央アジアの草原と砂漠地帯にこの駅伝網が張りめぐらされ、中央アジアの交易ルートは、以前より安全になり、ここを通って往来する交易商人や使節の数は、著しく増加する。各地で略奪・虐殺・破壊を繰り返しながらも、ユーラシア大陸の交易ルートの支配を目的に、アジアやヨーロッパに進出したモンゴル人の支配は経済優先で進められる。太祖の元では、モンゴル人の社会的地位の優位さを除いて、既存の官僚組織や科挙といった制度が温存される。

 宗教にも寛容で、仏教徒とイスラム教徒、ネストリウス派キリスト教徒が共生している。ただし、神を利用することはあっても、神の死に基づく制度はない。モンゴル軍は機動力を生かした小規模の部隊によって構成され、チンギス・ハーンの子孫たち以上に、そういった軍を率いる将軍たちの意向が政治・軍事を動かし、その上、大ハーンは、つねに帝国の貴族の議会(クリルタイ)によって選出され、四つのハーン国は、それぞれの利益を分かち合っている。

 天を中心として組み立てられた王朝の秩序は、天=皇帝(天子)=人民という階層的な上下関係を形成したが、この秩序は、同心円的に徳が広がっていくように、直轄地域の外部の周辺諸国や民族にも波及するものと考えられている。皇帝を頂点とする中華の秩序には、近代的な国境のような境界の観念もなく、「帝国」という言葉の用法もない。天下万国を治める皇帝の徳をしたって遠方から朝貢する者は「王」として冊封され、皇帝に臣従して朝貢の使節を皇帝の元に送らなければならない。朝貢貿易の際、中国皇帝は貢物以上の返礼をするのが常であり、貿易赤字が常態化する。こうして中華皇帝を中心とする広域的で重層的な地域秩序が形成される。このような「冊封(The investiture of local rulers: cefeng)」と「朝貢(Visit to the Chinese Emperor and paying tribute: chaogong)」のシステムは、清朝の末期まで存続したが、日清戦争によって最終的に崩壊する。

 言うまでもなく、実際には、こうしたイデオロギーにもかかわらず、中国は内陸アジアの動向によって左右されている。アジアの歴史の中心は、長い間、中国ではなく、ユーラシアの東西交易路である内陸アジアにほかならない。内陸の人々が自らの手で記録を残していないために、マイナーな勢力と見なされてきたが、中国側の文献であっても、当時の力関係を読みとることは可能である。司馬遷は、『史記』の中で、漢の高祖よりも、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)を賞賛している。また、高地での生活により強靭となった心肺機能を持つチベット人は、自主的に武力を放棄するまでは、向かうところ敵なしであり、七世紀初めにチベットを統一したソンツェン・ガンポ王は唐から文成公主を娶っているし、元や清といった漢民族以外の王朝も中国では成立している。「記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う。記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界をどう見なおし考えなおすことになるからである」(武田泰淳『司馬遷─史記の世界』)。

 ヨーロッパにおける皇帝は普遍的支配権力と宗教的権威であるのに対し、中国では、ヨーロッパの皇帝は「王」の意味でしかなく、皇帝は周辺地域の政治的・経済的・宗教的・文化的ヘゲモニーを持っている。東アジアの人的交流はかなり早い時期から盛んである。大和朝廷成立以降しばらくの間、五世紀の王仁のように、大陸からの渡来人が政治中枢に数多くいたし、逆に、八世紀、唐の役人には、李白とも親交があった阿倍仲麻呂を代表に、少なからず外国人が含まれている。ローマ人以外の皇帝がしばしば登場したとしても、ローマ帝国は周辺地域にここまでの影響力を持っていない。強力な教育・行政システムに支えられた中国皇帝は、明らかに、「帝国」を超えている。

 現代の合衆国大統領はかつての中国皇帝のような存在であり、第二次世界大戦以降の日本政府が合衆国に対し朝貢を行い──首相が訪米の際に持参するいわゆる「お土産」──、極東の島々への冊封を許されているように、アメリカも「帝国」以上の力を持っている。これは決して過言ではない。二〇〇四年一一月一二日、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、トニー・ブレア首相との共同記者会見で、「民主主義国同士は戦争をしない。民主主義国は平和を促進すると信じている」のであり、「最も親密に仕事をする一人が私の友人小泉首相だ。同じテーブルについて北朝鮮などの平和維持を話し合うのは注目に値する。お互いに敵だったのはそう遠くない昔だからだ」のみならず、「確かに彼はいい男だ。彼が味方なのは、日本に民主主義が定着したからだ」とまで言っている。

 ただし、合衆国大統領はかつての中国皇帝と違い、あくまで、世界におけるヴァーチャルな中心である。それはさまざまな「利益集団(Interest Groups)」によるキャンペーンの集団的匿名である。現在の国際社会には中心があるともないとも言えない。


第八節 コモンウェルスとは何か

 元代の国際秩序は帝国概念ではもはや把握できない。「帝国」を超えたアメリカ合衆国に対し、むしろ、「コモンウェルス(Commonwealth)」を用いるべきだろう。「コモンウェルス」は多義的である。共和制や州、連邦、共同体の意味を持っている。一つのコモンウェルスは多くのコモンウェルスを内包しているだけでなく、他のコモンウェルスを横断する。「帝国」だけでなく、「共和国」もコモンウェルスにすぎない。「コモンウェルス(Commonwealth)」は二つの単語によって構成されている。「コモン(Common)」は共通の・共有の・公のという意味の形容詞であり、「ウェルス(Wealth)」は富・財産を指す。コモンウェルスは人民全体の公共の利益、あるいは公共の福祉を言い表している。「共同体(Community)」と「コモンウェルス」の違いは前者が地域的共同体であるのに対して、後者は、原則的に、何ものにも依存しない共同体である。コモンウェルスは共同体を含む概念と考えるべきだろう。コモンウェルスは利益共有のネットワークである。”By commonwealth, I must be understood all along to mean, not a democracy, or any form of government, but any independent community, which the Latines signified by the word civitas; to which the word which best answers in our language is commonwealth, and most properly expresses such a society of men, which community or city in English does not: for there may be subordinate communities in government; and therefore, to avoid ambiguity, I crave leave to use the word commonwealth in that sense, in which I find it used by king James the First; and I take it to be its genuine signification; which if any body dislike, I consent with him to change it for a better”(John Lock “Of Civil Government”).

 「コモンズ(Commons)」という社会学の用語がある。コモンズは、かつて人間が生活の拠りどころとし、他の生物と共生してきた自然環境を総称し、共有財産とそれをめぐる人間の諸関係を意味する。日本で言うと、入会地がこれに当たる。ローレンス・レッシグが『コモンズ』におけるインターネット時代の著作権に関する考察で、キーワードとしている。コモンズは援用されやすい概念であるが、新しい公共性について示唆に富む考え方を提供している。コモンウェルスにはこのコモンズの面もある。一九世紀の公共性が国民国家に立脚していたように、コモンウェルスも二〇世紀における公共性の具現化である。

 コモンウェルスは決して新奇な概念ではない。グレコ=ローマン時代、すなわちプラトンやアリストテレス、キケロの時代以来、コモンウェルスという用語あるいは訳語は理想的な政治体制として言及されている。トマス・モアは、一五一六年、ラテン語によって原本が公刊され、一五五一年英訳を刊行した『ユートピア』の本当の名称は『コモンウェルスの最善の政体とユートピア新島についての、楽しいとともに有益な小著(Libellus vere aureus nec minus salutaris quam festivus de optimo reipublicae statu deque noua Insula Vtopia)』であり、政治家を教育しようとする意図を持っている。人々を苦しめる財政政策と戦争政策、およびエンクロージャーによる農村の荒廃と貧富の差の拡大という現状に対し、キリスト教社会の背後にある人間の道徳的退廃を告発し、ユートピアの理想的な制度、習慣、生活様式を叙述することによって、あるべき道徳原則を提示する。

 コモンウェルスは古典時代からユートピアの一種として語られてきたが、現実の政治体制の名称として使われるようになったのは宗教改革からである。ジャン・カルヴァンがジュネーブで行った宗教改革の下、教会は実質的には国家権力の介入を排除した神政国家となり、制度上は共和国(コモンウェルス)である。君主に異議を申し立てる宗教改革者たちの教義も要因の一つである。コモンウェルスには宗教的な原理主義の政体という意味もある。イングランドおよびスコットランド、アイルランドでも、オリバー・クロムウェルの下でピューリタン革命によって、一六四九年、「イングランド共和国(The Commonwealth of England)」が樹立されている。

 他にも、トマス・ホッブズやジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーも自身の社会契約説の政治哲学をコモンウェルスで説明している。さらに、一八七六年、宗教右派が依然として影響力を持っている通り、キリスト教原理主義者を多く抱えるアメリカ合衆国がイギリスから独立する。ジョン・ロックの理論を受容した一三州の共和制の連合体は、ノースカロライナ州とロードアイランド州が憲法に署名しなかったように、それぞれさまざまな思惑が交錯し、統一性が著しく弱く、「アメリカ共和国(The Commonwealth of America)」の方がふさわしい。これが現存する最古の共和国である。実際、マサチューセッツ・ペンシルベニア・ヴァージニア・ケンタッキーについてStateの代わりに用いられている。「ドミニカ国(Commonwealth of Dominica)」や「バハマ国(Commonwealth of the Bahamas)」などでは「共和国(Republic)」の意味で使われたり、「英連邦(Commonwealth of Nations)」や「独立国家共同体(Commonwealth of Independent States)」のように、連邦の別名のケースもある。電気の世紀と呼ぶべき二〇世紀用意したゼネラル・エレクトリックス社を去ったサミュエル・インサルはシカゴ・エジソン社へ行ったが、同社は、一九〇七年、コモンウェルス・エジソン社に改称している。つまり、コモンウェルスは古くもあり、新しくもある。

Tinker, Tailor,
Soldier, Sailor,
Rich man, Poor man,
Beggarman, Thief.
(“Mother Goose”)

 大英帝国の帝国主義が終焉を迎えたとき、登場したのは帝国ではなく、コモンウェルスだったことを思い起こさなければならない。しかも、コモンウェルスは、帝国と異なり、必ずしも強制的に所属させるわけではない。欧州や北米の自治・独立に向けた動きは、コモンウェルスを前提にしている。ケベックのナショナリストはNAFTA、スコットランドの独立派はEUへの帰属を主張している。

Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Bruder,
Wo dein sanfter Flugel weilt.

Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuss der ganzen Welt!
Bruder--uberm Sternenzelt
Muss ein lieber Vater wohnen!”
(Friedrich Schiller “An die Freude”)

 この参加のネットワークは突然出現したわけではない。赤十字社や国際オリンピック委員会のように、国際的な機関は一九世紀のヨーロッパにすでに存在しているが、欧米を超えたコモンウェルスは二〇世紀になってからである。最初に、それを具現化したのは英連邦である。一九二六年の大英帝国会議において、「イギリスおよび自治領で構成される自治社会の集まり」が決議され、この定義は三一年にイギリス議会によって制定されたウェストミンスター憲章で具体化される。それが「英国連邦(British Commonwealth of Nations)」である。四九年、インドが共和国として独立する際、そのまま連邦にとどまる。これにより、以降、正式名称から「英国(British)」が省かれることになる。その後独立した多くの旧イギリス植民地もこの前例を踏襲し、現在まで続く英連邦が成立する。

 「英連邦(Commonwealth of Nations)」は、イギリス国王に象徴的な意味で、あるいは実際に忠誠を誓う独立国および属領の緩やかな連合体であり、五一の独立国といくつかの属領で構成されている。先に言及した南ア以外に、パキスタンは七二年に脱退したものの、八九年に再加盟したが、フィジーは八七年に脱退し、アイルランドは貿易上の目的のため、非加盟ながら、連携は保っている。イギリスと他の連邦諸国との関係は、ロンドンの外務・連邦省と各国の外務省を通じて維持され、加盟国は大使と同格の高等弁務官を交換している。一九六五年に設置された連邦事務局が共通の関心事に関する情報センターとなり、他の機関を助けて相互の協力を促進している。独自の国家元首がいない国では、総督がイギリス国王の代理を果たしている。英連邦には公式の政策決定機関はなく、加盟国政府間の唯一の公式な政治協議の場は、定期的に開催される連邦首脳会議である。ハード・パワーの帝国主義が終わって登場したのはソフト・パワーのコモンウェルスである。帝国ではない。


第九節 コモンウェルスのフラクタル性

 ネグリ=ハートは中心なき世界的ネットワークを「帝国」と命名しているけれども、中心のなさや多様な組織・集団による世界秩序では不十分である。コモンウェルスは内部と外部が曖昧で、フラクタル性を体現したネットワークである。ネグリ=ハートの帝国がアナーキーなネットワークだとすれば、コモンウェルスはフラクタルなネットワークだ。べノワ・マンデルブローは、『自然のフラクタル幾何学』において、海岸線の長さは厳密に計ろうとすればするほど、岩や砂があるため、長くなってしまい、「観察者が不可不適にそこに介入する」と言っている。フラクタルは一次元と二次元の中間のような次元であり、その典型例である海岸線には長さはない。中心があるともないとも言えない。それがコモンウェルスである。「マグナ」と「ミニマ」が相似している。

 二〇世紀、人々は政治体制として、同時に、「大政治(magna politica)」と「小政治(minima politica)」の二つの方向に拡散している。前者はハイパー・パワー志向であり、後者は独立・自治を目指し、最終的には、「シングル・メンバー・システム(single-member system)」の政治体制に到達するのではないかという傾向である。もはや「メガ政治(Megapolitics)」と「ナノ政治(Nanipolitics)」にさえ見えるほどだ。コモンウェルスは両者を含んでいる。この体制は国家を相対化するのであり、国家間のみならず、企業間や組織間、個人間でもありうる。国民国家は擬似的な「中政治(mesa politica)」だったが、その無効と共に、その分裂が進み、二〇世紀は、止揚させないまま、両者の弁証法によって形成されている。

 「国際連盟(League of Nations)」といったコモンウェルスが登場したのも、二〇世紀を表象する二〇年代である。一九四五年から、本格的に、コモンウェルスが浸透する。「国際連合(United Nations)」や「ヨーロッパ連合(Europe Union)」、「東南アジア諸国連合(Association of South-East Asian Nations)」、「アラブ連盟(League of Arab States)」、「イスラム会議機構(Organization of the Islamic Conference)」もコモンウェルスである。「国際サッカー連盟(Federation International Football Association)」や「国際オリンピック委員会(International Olympic Committee)」、「赤十字社(Red Cross Society)」、「アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)」も、また、「アルカイダ(Al- Qaida)」のようなダウンサイジングされ、フランチャイズ化した組織もこのキメラに含まれる。さらに、CNNや「アル・ジャジーラ(Al-Jazeera)」、Windowsも、Linuxも、コカコーラも、ペプシコーラも、マクドナルドも、ディズニー・ランドも、スティーヴン・スピルバーグも、リュック・ベッソンもコモンウェルスである。要するに、コモンウェルスはソフト・パワーに基づいており、フラクタルな組織的事業であり、隙間だらけのクラスターを指す概念である。

 WindowsとLinuxは誕生・普及の経緯は大きく異なり、その意義は違っていたとしても、wealthを共有しているという点において、共通である。特定企業が営利目的に販売して、世界的な独占を強化してきたWindowsとまったくのお遊びとしてある個人が無料でカーネルだけを開発・公開し、その後、NPO的に発展したLinuxは、利益団体に立脚する既成政党と自然発生的にと同じくらい、別物である。けれども、研究用や並列処理に適したソフトは後者の方に多く、それを通じて、予算が乏しい学術研究・小規模事業の認識共有のネットワークを形成している。コモンウェルスは、意図や目的ではなく、あくまでもフラクタル姓を持ったネットワーク形態を意味する。マルクス=エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』でまさに指摘しているように、あるネットワーク形態が支配的であるほど、発生原理は別にして、その対抗勢力も同様の構造を帯びてしまう。

 このプロトコルの体制はいくつかの観点から分類できる。第一に、目的の観点があげられる。それには政治的・軍事的・経済的・宗教的・文化的の五種類がある。第二に、主体から規定され、国家・エスニック・団体・個人のレベルがある。第三に、成文的であるか非成文的であるかという形態である。EUという「共和国」のように、条約など成文的な連合体が成立しているのに対し、非成文的なパックス・アメリカーナが影響力を持っている。これらの複合体もある。「帝国」も「共和国」も大きな流れのコモンウェルスの中にある。つまり、コモンウェルスは集団的匿名性を持った「ヴァーチャルな共同体(Virtual Community)」である。

 「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではなく、「名目(nominal)」が相当する。「虚(imaginary)」が、「実数(Real Number)」と「虚数(Imaginary Number)」の関係が示している通り、リアルの反意語である。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。

 二〇世紀は地球環境を経済学的外部として資本主義は扱ってきた現状があり、コモンウェルスは雲と呼ぶ意義はそこにもある。二一世紀の体制では、宇宙物理学的なアナロジーが必要となるかもしれないとしても、二〇世紀はそれでかまわない。コモンウェルス雲が他のコモンウェルス雲とオーバーラップすると、強い引力が生じる。斥力によって反発することはない。結びつく。また、コモンウェルス雲には中心があるけれども、それは積極的ではない。ただコモンウェルス雲は中心にいくほど密度が濃く、離れると薄くなり、僅かな変化によって中心も全体も大きく変動する。

 九〇年代に入って顕在化したコモンウェルス体制は古典世界と言うよりも、本格的な中世の再現である。アメリカの覇権による世界秩序は四つのハーン国のコモンウェルスと類似している。中途半端にしか経験できなかった中世を西洋は改めてやり直している。

 戦後、世界を支配してきた東西冷戦構造もコモンウェルスをめぐる争いだったと後から思えるが、それは一九世紀と二〇世紀の戦いである。G77こと第三世界も、事実上、これに吸収されている。いわゆる社会主義体制はオットー・フォン・ビスマルク流の行政国家のヴァリエーションである。”Nach Kanossa gehen wir nicht ...”「社会主義というのは、十九世紀に作られ、二十世紀にイデオロギーとして栄えたのだと思うが、その背景には、産業社会の成立があったように思う。一八世紀から萌芽があったろうが、そのころにはシステムとしての会社のほかに、ネットワークとしてのサロンがあった.当時のことだから、宮廷に近い上層部にかぎられていたかもしれないが」(森毅『社会主義から社交主義へ』)。

 フィリピンやインドネシアのように、共産主義の拡大を防ぐために、西側諸国が黙認どころか、積極的に支援してきた開発独裁国家も同様である。「豊穣なる人生の証であり、知性と感性の進歩の源泉である多様な人間性、嗜好と能力の差異、見解の相違等を、共産主義体制が容認しえるか否かは、今後の審判に委ねなければならない」(J・S・ミル『経済学原理』)。また、シンガポールやマレーシアのように、独裁と言えないまでも、経済的自由を保障しながらも、政治的自由には当局が眼を光らせている国家も大同小異であろう。一九世紀が神の死の同一性を推し進めたのに対し、二〇世紀はその生死の決定不能という差異性を重視している。

 二〇世紀には、こうした一九世紀のみならず、それ以前の過去が混在している。過激な民族主義や原理主義といった反動的な動きが巻き起こるのはそのためである。「イズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束(そうそく)するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に臨むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵(こしら)えた器に盛(もり)終(おお)せようと、あらかじめ待ち設けると一般である」(夏目漱石『イズムの功過』)。二〇世紀は過去を都合よく再構成して利用しつつも、こうした過去が挑むゲリラ戦に苦しめられている。東西冷戦は、モンタギュー家とキャピュレット家の対立と違い、和解することはなかったけれども、二〇世紀がアメリカの世紀である以上、結果は見えている。二項対立は最終的には結論の決まった躊躇にすぎない。二〇世紀的なコモンウェルスを引き立てただけである。

"Here we are at the threshold.
This is the most important moment of your lives.
You have to know that here your most cherished wish will come true.
The most sincere one.
The one reached through suffering".
(Andrei Arsenevich Tarkovsky “Stalker”)

 一九九〇年以降の自由貿易体制が拡散していく世界情勢では、日本経済の長期低迷、韓国のIMFによる管理、東南アジアや南米の新興市場の暴落による経済危機があった一方で、ITに支えられたアメリカの好景気、中国の驚異的な経済成長など経済的な明暗がはっきりと表れている。二〇〇〇年に入って、アメリカの大手銀行はリスクをヘッジするために、預金業務からから金融デリバティブ取引にシフトしたはずだったが、逆に、リスクが高まり、おまけに、エンロン疑惑の発覚により「グローバル・スタンダード」の信頼は失墜する。このスキャンダルが告げているのは、合衆国の資本主義も独裁国家のクローニー・キャピタリズムと同じ面を持っている事実である。「我はローマ市民である(Civis Romanus sum)」 にもかかわらず、「温情ある振舞いの獲得(captatio benevolentiae)」もなく、「尊厳の低下(capitis deminutio)」ばかりだ。「経済学を学ぶのは経済学者にだまされないためである」(ジョーン・ロビンソン)。

 その上、九・一一以降、宗教右派的なるものに加え、ブッシュ政権のパッチワーク政策は世界の政治・経済を不安と混乱に陥れている。「豊かになると同時に心配事も増える(crescentem sequitur cura pecuniam)」(クイントゥス・ホラティウス・フラックス)。各国とも、為替レートの浮動性を避けるといった経済的防衛、あるいは市場の確保による成長の享受を目的としたコモンウェルス化の傾向を強めている。貿易の縮小は市場の縮小を呼び、需要不足からデフレを招きかねないからだ。金は、市場経済では、投資されるためにある。「企業買収のコツは、相手の金で買うことだ」(コールマン・デュポン)。「買い手は用心せよ(caveat emptor)」。一九三〇年代、世界不況からの防衛のために、経済のブロック化が起きているが、今回の流れは、グローバリゼーションを利用するという点で、異なっている。ブロック経済は自国の製品の販売や原料・食糧を確保し,植民地や従属国への支配と結合を強めたものである。他方、EUやNAFTA、ASEAN+3といった今日の地域経済統合、すなわちコモンウェルスが促進されている原因は為替レートの浮動性を避けるためである。「共通の危機は和を生み出す(commune periculum concordiam parit)」。


第十節 共同主観性の体制

 このようなコモンウェルスは、エドムント・フッサールが定義した「共同主観性」に基づく体制であり、二〇世紀はフッサールの現象学が具現化した時代である。

 竹田青嗣は、『現象学入門』において、間主観性は私と他者の関係ではなく、「“他我が〈私〉と同じ〈主観〉として存在し、かつこの『他我』も〈私〉と同じく唯一同一の世界の存在を確信しているはずだ“という〈私〉の確信」、すなわち「〈私〉と〈他者〉の相互関係を言うのではなく、私の確信のある構造をさしている」と言っている。

 竹田青嗣は、『現代思想の冒険』において、「確信の構造」について次のように述べている。

 だが〈主観〉に固有の真理しか存在せず、はじめから「ほんとう」が一切存在しないなら、なぜわたしたちに、この言い方は「ほんとうだ」という納得が訪れるのか、全く説明できないことになるだろう。懐疑論的パラドックスは、つまり、認識にはどんな根拠(客観という〉もないにもかかわらず、なぜ人間は相互理解の可能性をもち、あるレベルでは極めて広い共通認識が成立するのかを、まったく説明できないのである。

 フッサールがこれに与えた説明のかたちを簡単に示そう。

 まず彼は、〈客観〉なるものはそもそも存在しないと言う。だから〈主観〉どうしの間(間主観性)で成立する「ほんとう」は、その根拠を〈客観〉によって明かすことはできない。ではいったい「ほんとう」の根拠はなんなのか。それはただ〈主観〉の内側だけで生じる「確信の構造」としてだけ言える。そうフッサールは言うのである。

 彼によれば、近代哲学が〈客観〉と呼びその実在を確かめようとしていたものの正体は、じつは、間主観性として(二つ以上の主観に共通して)成立する、恣意的にはどうしても動かし難い「確信の構造」ということなのである(略)。

 われわれが〈客観〉とか〈真理〉(ほんとう)とか呼んでいるものはどういうことか。それは要するにひとが二人いればその二人の間に、百人いれば百人の間に、共通の確信が成立するか否かということのみにかかっている。これはたしかに存在する、これはこういうことだという動かし難い確信が共通に成立すれば、それをわたしたちは〈客観〉といい〈真理〉と呼んでいる。だがこのとき注意すべきは、〈客観〉や〈真理〉とはまさしくそういうものだから、それは究極的な最後の知として確定されることは決してあり得ないということにほかならない。

 フッサールは〈客観〉や〈真理〉は「超越」(信憑)であると言うが、その意味は、この確信の像は、いつも必ずそうでないかもしれないという可能性を残している、ということだ。それらはそれ以上の意味を決してもっていない。だがここで重要なのは、これらの核心は、たまたま一致したり、恣意的に一致させたりできるものではないという点だ。それらは〈主観〉の内側だけで固有の構造を持っているのである。

 フッサールは、この構造を、〈ノエシス−ノエマ〉、〈内在−超越〉という概念によって説明している。フッサールの言わんとするところをわたしなりに噛み砕いてみよう。

 たとえば人間の一番強固な(動かし難い)共通の確信(信憑)は、〈自分〉の外側に実在する自然世界が拡がっており、〈自分〉はその中で、ものや〈他人〉とともに、それらと関係して生きているという了解である(懐疑論者はただ論理的にそれを疑って見せているにすぎず、実際は彼らもそれを確信している)。ただし、〈自分〉は〈自分〉として存在しているという確信、〈他者〉は〈自分〉と同じような〈意識〉として存在しているという確信も、〈世界〉が存在するという確信と同時的かつ対応的に成立する。

 逆にいちばんあいまいな確信は、ものごとの本質(現象学では、言葉の形でだけ所有される意見や世界観という意味で使われる)に関する確信である。なぜこれがもっともあいまいな確信であるかもはっきりしている。

 確信の強度は簡単に言ってふたつの要素を持っている。ひとつは、他人の確信から訪れ(間主観性の構造)、もうひとつは自分自身の確信(超越論的主観の構造)からくる。

 共同主観性とは暗黙知のことである。ネイティブにとって母語は暗黙知であり、コミュニケーションはそれを前提に成り立つ。けれども、他者はそれを共有していない。この時、暗黙知を明示化する必要に迫られる。「文化」として捉えられているものは往々にその社会の暗黙知である。

 伝統的に、「私」が主観性であるとすれば、「公」は客観性である。客観性は、フッサールによれば、ガリレオ・ガリレイの測量術に起源を持ち、均質的な時空間を前提にしている。しかし、今や共同主観性を考慮する必要がある。国民国家が明示知を指向し、暗黙知を切り捨てたのに対し、コモンウェルスは、ソフト・パワーをとりこんでいるように、暗黙知を認めている。コモンウェルスは内在知という「公」とそれを共有する「共」を併せた新たな公共性を示している。ただ、暗黙知を明示化して他者と共有することには十分ではない。内在知の形式化が十分されないまま、価値観の共有にとどまっていることが多い。ポストコモンウェルスの体制はそこが本格化するだろう。

 国民国家の議会制民主主義は選挙権を制限した選挙という数によって統治を正統化する。ガリレオの測量術がもたらした認識は、その後の資本主義=国民国家=帝国主義を正当化している。数量化は有用性のための現実的妥協であったのに、権力の揺るがしがたい根拠となる。ゲリマンダーも数への信仰から生まれる。フッサールの前のカール・マルクスが「プロレタリアート独裁」、フリードリヒ・ニーチェが「貴族政治」を唱えたのは、国民国家流の議会制民主主義の克服を考慮していたからである。数量化はこれまでも多くの領域で無数の成果を上げ、今後も大いなる可能性が認められるのは間違いない。けれども、民主的であるがゆえに、スリランカのタミル人が示しているように、少数者が軽視される事態も少なくない。共同主観は数だけを根拠にしない。その時、民主的手続きは真に尊重される。

 コモンウェルスはオンライン・ゲームと同じ構造を持っている。オンライン・ゲームには、既存のゲームのプレイ環境がオンラインに変わっただけのタイプから、オンライン専用にデザインされたコンピューター・ゲームまでさまざまなヴァリエーションが見られる。オンラインで多数のユーザーを集めて行うゲームを指すため、中には、テーブルトークRPGのチャット・プレイや投稿参加型のマルチユーザー・ゲームのように、必ずしもコンピューターによるゲーム進行処理やリアル・タイム処理を必要としないものもあり、それらのうち、

 サーバー処理を用いないで、WWWコンテンツ・ベースと管理者裁量による進行で主催されるタイプを「プレイ・バイ・ウェブ」と呼ぶ。代表的なオンライン・RPGであるMassive Multi-player Online Role-Playing Game (MMORPG) は多人数──多い場合には数千人から数万人規模──で、同時に参加できるオンラインのロール・プレーイング・ゲームである。こうしたMMORPGで最も重要なのは対戦ではない。

 倫理を習得することである。「ブリタニア」という中世を舞台にした「ウルティマオンライン(UO)」の二〇〇〇年四月に発売された拡張パッケージ、「ウルティマオンライン・ルネッサンス(UOR)」では、ブリタニアが「トランメル」と「フェルッカ」の二つの平行世界に分割され、これまでの世界はフェルッカとして存続しつつも、新しい世界トランメルでは 殺しやスリといったプレイヤー間のネガティヴな行為は一切禁止されている。

 ネット社会は、人間のヴォランタリーな善意ある連帯だけでなく、悪意や暴力性をも露出させたが、それを踏まえた上で、新たな倫理も確立されつつある。目的を達成するには、道徳的に振舞わなければならない。プレイはほぼは半永久的に続けられるが、それには「確信」が必要である。「確信の強度は簡単に言ってふたつの要素を持っている。ひとつは、他人の確信から訪れ(間主観性の構造)、もうひとつは自分自身の確信(超越論的主観の構造)からくる」ことを知らなければならない。コモンウェルスはこうして成立し、次のスキルを会得していく。

 カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』において、「知的生産は、物的生産が変化するのに比例して、その性格を変える。各時代の支配的な思想はつねに支配階級の思想だったのである」と言っている。コモンウェルス体制という「支配者の思想」は、反体制的な思想を含めた「支配的な思想」に反映している。コモンウェルスであるグローバリゼーションに対する反対もコモンウェルスの姿をとらざるをえない。しかし、そこには、なるほどアイロニカルな反対運動という一九世紀的な団体もあるものの、コモンウェルス体制の支配に対するユーモラスな態度も見られる。「帝国」ではなく、「コモンウェルス」という概念の使用を提唱するのは、それが体制のみならず、反体制勢力にも適用できるからである。インターネットはコモンウェルスの典型であるが、軍事技術の民間転用という意味でも、それを反映している。

つづく