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長期連載
Democratic Vista

第三章 代議政治の諸課題

 佐藤清文
Seibun Satow

2008年2月15日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
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第三章 代議政治の諸問題

第一節 大正デモクラシーの周辺

 石橋湛山は近代的な議会制民主主義、すなわち代議政治についてその意味を問い直している。イマヌエル・カントは参政権を有する市民である公民による共和制を理想としている。小日本主義はこのカント主義も引き継いでおり、代議政治とは何かを検討することなしに、総合的・体系的な思想とはなりえない。

 湛山の活動の本格化の背景には大正デモクラシーがある。大正デモクラシーは自由主義・民主主義を求める運動であり、近代日本における初の本格的政治思想である。それは自由民権運動の流れを汲み、戦後民主主義によって批判的に継承される。

 「近代の超克」の「近代」も西洋近代先般ではなく、この大正デモクラシーを指しているにすぎない。大正デモクラシーは市民のより広範囲の政治参加を目指し、普通選挙と陪審員制の実施をその具体的な政治目標に掲げている。この普通選挙と陪審員制の導入は、代議政治を根本から再検討することを促す。湛山はそれを鋭敏に理解し、鋭い考察を加えている。

 その大正は政変と共に明ける。

 明治の元勲元老は明治天皇との個人的なつながりによって政治力を発揮していたが、明治天皇の逝去に伴い、国内政治の統治秩序が崩壊する。それに代わって、藩閥打倒・立憲政府確立をスローガンに掲げる政党による統治秩序が出現してくる。それを理論的に擁護したのが美濃部達吉の天皇機関説である。

 彼が
1912年、すなわち明治453月に刊行した『憲法講話』において、統治権の主体を天皇個人ではなく、目的を共有する国家とし、天皇をあくまでもその最高機関と位置づけている。天皇は大臣の同意なしには国務を行うことはできない。その上で、内閣は連帯責任制をとっており、責任を国会に負う。従って、明治憲法体制は政党内閣制を内包している。この天皇機関説が、大正時代、統治の正統的イデオロギーとなる。

 同じく1912年でありながらもこちらは大正元年の12月、第二次西園寺公望内閣が総辞職する。陸軍が二個師団増設を要求したが、西園寺首相は日露戦争後の財政難を理由に拒否したことに腹を立てた上原勇作陸軍大臣が辞任し、なおかつ陸軍が後任を送らなかったためである。すったもんだの挙げ句、元老会議は内大臣兼侍従長の桂太郎を後継首班に指名する。

 こうした軍部・藩閥の横暴さは民衆の怒りに火をつける。増師反対の世論は、一気に、藩閥打倒・憲政擁護の抗議運動へ発展し、一部は交番を破壊したり、政府系新聞社を襲撃したりするなど暴徒化する。政党政治家や院外団、ジャーナリスト、実業家たちが結集し、倒閣運動は激化の一途を辿る。その中には、尾崎行雄や犬養毅と並んで、若き石橋湛山の顔も見られる。近代以前の日本は「一揆の国」と言っていいほど民衆による抵抗運動が盛んであり、しかもそれで要求を権力者にのませてきた歴史があるが、今回も同様の結果に至る。桂首相は立憲同志会をつくってこの後に第一次護憲運動と呼ばれる展開に対抗しようとしたけれども、少数派にとどまる。第三次桂内閣は発足後わずか
50日で総辞職に追いこまれる。

 これは、制限選挙であったとしても、もはや世論を無視して政治を行うことはできないという実情を明らかにした出来事である。しかし、大正政変は政党政治実現には及ばず、事実上、頓挫する。一方ではこうした民衆による政治への直接行動が活発でありながらも、実は、この時期、普通選挙運動は停滞期に陥っている。

 普通選挙は中江兆民の自由民権論や東洋自由党の普選期成同盟会(
1892年)にその始動が認められるが、本格的な運動としては、1899年(明治32年)、中村太八郎と木下尚江らが中心となった普通選挙同盟会が挙げられる。この組織は、翌年、普通選挙同盟会と改称したが、いわゆる大逆事件の翌年の1911年(明治44年)、当局の圧力によって解散している。普通選挙実現の運動は盛り上がりを見せたものの、日露戦争後は国家主義やアナーキズムの隆盛と共に低調する。湛山が所属する『東洋経済新報』は、そうした中で、普通選挙を訴え続けている。

 1920年代に入ると、普選運動が再び高揚し始め、普選デモが繰り広げられ、実施への流れは不可避となる。けれども、非藩閥内閣であるはずの原敬政権では実現せず、直接国税の制限の引き下げで決着してしまう。

 1925年(大正14年)、加藤高明内閣の下で、満25歳以上の男性に選挙権、満30歳以上の男性に被選挙権を与える普通選挙法が公布され、1928年(昭和3年)、それに基づいて第16回衆議院議員選挙が実施される。このときの有権者数は1240万人で、人口比20.1%であり、1920年(大正9年)の前回選挙の実に4倍に増加している。

 国会開設を求める自由民権運動の高まりや欧米の視線を意識することによって、1890年(明治23年)7月の第一回衆議院議員選挙が実施されたが、選挙権は直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性に限定され、有権者数は約45万人で、全人口のわずか1.13%にすぎない。「衆議」は多くの人々の評議を意味する。「衆」は人三人で多くの人を示す部位と居住地域を表わす部位で構成されている。三人集まれば文殊の知恵というわけだ。

 明治の元勲元老はプロイセンやオーストリアの憲法と議会を参考に、より正確には模倣して、明治憲法ならびに帝国議会をつくりあげている。そのため、それは非常にヘーゲル主義的な特徴を持っている。

 GWF・ヘーゲルは、『法の哲学』において、議会の特徴について次のように述べている。

 議会の立場は、組織された統治権と協同してつぎのような媒介の働きをするという意義をもっている。すなわち、一方では、君主権が極として孤立したかたちで現れることがないようにし、これによって君主権が単なる支配権や恣意としてあらわれることがないようにするとともに、他方では、もろもろの地方自治体や職業団体や個人やの特殊的利益が孤立しないようにし、ましてや、個々人が多数の衆群れの姿をとってあらわれ、こうして非有機的な私見と意志をいだき、有機的国家に逆らうたんなる集団的暴力になるということがないようにするという媒介の働きである。

 議会の特徴的使命はむしろ、普遍的要件である公事にかんして、議会が共に知り共に決議するというかたちで、政治にあずからない市民社会の成員のために、形式的自由の契機の正当な権利がかなえられるようにするということにある。──そういうわけで、まず第一に、みんなが知るという契機が、議会の討議の公開によって拡張されるのである。

 国家の最高執行者は、議会がなくとも、最善の政治を実行できるけれども、議会は市民社会の合意を獲得した上で、それを統治し、人々の政治への知識や関心、尊重を啓蒙・強化する使命を持っている。議会は政策決定ではなく、政治の儀式を演じる場というわけだ。

 第一回衆議院議員選挙に当選した中江兆民は議会を論戦の場と期待していたにもかかわらず、軍事費偏重の予算案を通すための山県有朋内閣による遮二無二の多数派工作に憤り、議員辞職している。公民が代議政治を生み出したと言うよりも、その逆である。しかし、こうした儀礼としての代議政治が公開されることで、確かに、大正デモクラシーが発達してくる。

 選挙法は、制定後、二度改正される。1900年、選挙権の条件が直接国税15円以上から10円以上に引き下げられ、1919年(大正8年)には、それが3円以上にまで緩和されている。

 その前年の19189月、初の本格的政党内閣である原敬内閣成立が成立している。この政権の誕生は、日本の政治が立憲政治に加えて、政党政治に基づく責任内閣制に向けた動きの萌芽である。原は爵位を持たない衆議院議員であり、その上、同院で多数派を占める政友会総裁である。さらに、組閣にあたっては、政友会の党員もしくはそのシンパの有力者を抜擢している。

 原内閣は民衆から諸手を挙げて歓迎されたのではない。むしろ、評判ははなはだ芳しくない。と言うのも、彼が推進した各種インフラの整備は権力と利権の癒着を招いたからである。政党は政治腐敗の温床と世間から見なされていたが、政治的理想を高く掲げ、強力なリーダーシップを行使する原はそんな悪評を気にもとめない。しかし、192111月、彼はテロによって暗殺されてしまう。

 原は総選挙の結果を通じた政権交代を統治のシステムとしていたわけではなく、政友会と親政友会系との間での相互交代制を念頭に置いている。しかし、彼が政党政治の基盤をつくったことは確かである。政党政治が原則に沿って機能するのは、19246月に発足した加藤高明内閣からである。第二次護憲運動を行った憲政会・革新倶楽部・高橋是清派政友会、いわゆる護憲三派が総選挙で大勝したため、加藤憲政会総裁を首班とし、ここに政党政治の内閣が誕生する。1932年(昭和7年)の犬養毅政友会内閣までの78年間に亘って政党政治が続けられる。

 この時期の政治は、衆議院で多数派を占めた政党が政局を担当することを原則とする「憲政の常道」として騙られる。これは総選挙の結果を通じた政権交代のはずであるが、実施には、その度ごとに元老西園寺公望が首班を推薦するという政党間の政権授受にすぎない。加藤護憲三派内閣を除く政権は発足時には少数与党であり、その後の総選挙を実施してから多数派になるというのが実情である。政権は自らの正当性を後付けしているが、これは本末転倒である。普選が実施され、無産政党が参入してきたため、こうした明文化されていない元老によるキング・メイキングが政党政治の機能不全につながっている。

 日ソ国交樹立後の社会主義運動の活発化と有権者の造花が無産政党の躍進につながると恐れ、加藤内閣は普選法と抱き合わせで治安維持法を制定している。けれども、無産政党は8名が当選しただけで、思ったほどに議席の獲得には至らない。落選者の中には、作家の菊池寛の名も見られる。

 この8年間は、結局、今日でも民主化されたばかりの途上国の政治でよく見られるとおり、政党に対する失望を増しただけである。与党はなりふり構わない多数派工作を繰り返し、それに対抗すべく野党はスキャンダルを暴露、議会を儀式としか見ていない軍や枢密院と連携を強化して倒閣を図り、政権の寿命は平均して1年足らずという有様である。原がつくりあげた政党政治の基礎をすべて潰してしまう。1932515日、海軍将校のテロリストの放った銃弾により、「話せばわかる」と発した犬養首相の命と共に政党政治も葬り去られる。代議政治は続くものの、大政翼賛会が創設するなど形骸化し、問答無用の時代へと向かっていく。

 とは言うものの、民政党系と政友会系とによる政権交代は政策対立を顕在化させるという点では評価に値する。外交では、幣原喜重郎VS田中義一、財政においては、井上準之助VS高橋是清という対決は、実質的な相違は乏かったが、政党政治以前と比べて、ドラマティックである。それは、選挙権を手にしたばかりの有権者には政策というものを伝えるのに、効果的である。

 政党政治の始まりは有権者数の増加と関連している。憲政の常道の時代が普通選挙法施行と平行しているのは決して偶然ではない。選挙の際に、いかに選挙民を組織化するかという活動が政党を成長させたのみならず、選挙に決定的な意義を持たせるようになる。

 石橋湛山は、後に『百年戦争の予想』の中で、第一次世界大戦を境に19世紀と20世紀が区分されると言っている。政党政治は、日本においては、20世紀に出現したシステムである。代議政治は19世紀にスタートしていたが、政党政治は20世紀に入ってから政権成立・交代のルールとなっている。20世紀の日本政治の原則は憲政の常道による政権交代であり、今日においてもその実現が模索されている。

 大正デモクラシーは制限選挙と普通選挙の端境期にあり、議会制民主主義をめぐる数多くの意見や理論が提示されている。その中でも、湛山の主張は異彩を放っている。従来の研究では、普通選挙や代議政治に関する彼の見解は要約・紹介されるだけということが少なくない。しかし、石橋湛山は近代日本を代表する思想家の一人であって、たんなる活動家ではない。湛山は、代議政治や鵜通選挙について、いくつかのテキストで本質的な議論を展開している。それは、現代にとっても、議会制民主主義の可能性ないし将来像として吟味するに値する。

つづく