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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


参考資料(概要)
スコットランドの宗教

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開

独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載


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スコットランドの宗教



 キリスト教はスコットランドにおける最大の宗教です。2001年度英国の国勢調査において、スコットランド人口の65%がキリスト教徒でした。

 しばしばザ・カーク(The Kirk)と呼び表されるスコットランド国教会は、スコットランドの国民教会として法律で認可されています。スコットランド国教会は国教ではなく、国による管理から独立しています。

 しかしスコットランド最大の宗教グループであり、人口の42%が属している。他の主要な宗派は、宗教改革以前のスコットランド伝統キリスト教会であるカトリックで、人口のおよそ16%前後です。

 カトリックは特にスコットランド中西部とハイランドにおいて重要です。およそ15,000人前後がバプティスト教会、スコットランド聖公会、そして保守派の長老派教会です。

 より小さなグループにクエーカー教徒、ペンテコステ派、ゴスペル・ホールがあります。出席者の増加を目の当たりにしている唯一の教会は独立した教会で、人気のある福音派の分派も含まれています。

歴史

 キリスト教はおそらく2世紀頃にスコットランドへ伝来しました。そしてしっかりと根を下ろしたのは6世紀から7世紀でしt。

 しかし11世紀までは、スコットランドにおける教会とローマ教皇庁の関係はあいまいでした。スコットランドのケルト系教会は、西洋キリスト教会のその他の土地とは、典礼と聖職者に相違が見られたのです。

 これらのいくつかは、7世紀終わりのウィットビー教会会議で解消されました。そしてアイオナからの聖コルンバの撤退は、11世紀の教会改革を待たねばならなかったのです。このときにスコットランドの教会はローマの不可欠な一部となるのです。

 ピクト王国における修道院中心地の重要性は、おそらくアイルランドにおいてのものよりも小さかったといえます。ストラスペイやパースシャイアのように学問が進んでいた地方では、中世盛期の偏狭な構造が中世初期にすでに存在していました。

 ピクト王国東部の主要な宗教中心地には、ポートマホーマック、Cennrigmonaid(のちのセント・アンドリュース)、ダンケルド、アバーネシー、ロスマーキーがありました。これらはピクト人王と関連づけられて現れました。王室の保護と教会の管理監督が相当な程度主張されるからです。

 スクーンの石は、ヤコブが枕に使用した石であると仮定されてきました。1297年、スクーンの石はイングランドのエドワード1世によって戦利品として奪われ、スクーンからウェストミンスター寺院へ持ってこられました。そこで石は、エドワード王の椅子と呼ばれる古い木の椅子(この椅子に座ってイングランド君主は戴冠した)にはめ込まれました。

 キリスト教が信仰される土地ならばある聖人崇敬は、のちピクト人王国で非常に重要となりました。ネフタンの場合のペトロ、おそらくアンガス王の場合はアンデレだろうが、王たちは偉大な聖人たちの庇護下にあろうとしました。

 多くはより重要視されておらず、今もって一部は不明瞭です、そういった聖人を王たちは大切にしました。ピクト人の聖人ドロスタンは、古代に北部で広く崇拝されたようですが、12世紀には忘れ去られていました。聖セルウァヌスはネフタン王の弟ブリデイと関連付けられました。古代だけでなく後の時代にもよく知られているように、高貴な血縁集団は自分たちの守護聖人、教会、修道院を持っていたのです。
 
 スコットランドの教会は、ケレスティヌス3世の教皇勅書(Cum universi, 1192年)の後、独立した地位を獲得しました。ガロウェイと当時ノルウェー王の支配下にあった島嶼部を除く、すべてのスコットランドの司教区は、正式にヨークとカンタベリーの独立した教会となったのです。

 しかし、同じ頃4つの大司教座があったアイルランドとは異なり、スコットランドには大司教区がなく、スコットランド教会(Ecclesia Scoticana)全体は個々の司教区からなっており、『ローマの特別な娘』であったのです。

 1560年にジョン・ノックスによってスコットランド宗教改革が始まるまでは、その状況は残っていました。カルヴァン派であるノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとしました。

 この時点で、カトリックのミサは非合法化された。メアリー・ステュアートがフランスから帰国してスコットランド統治を開始したとき、ほとんどプロテスタント国家であり、宮廷をプロテスタントが占めていたスコットランドで、自分自身がカトリック教徒であることを認識したのです。

現代のキリスト教

 2001年の人口調査で測ると、スコットランド国教会がスコットランド最大のキリスト教宗派である。1921年スコットランドにおける教会法において、国民教会と認定されているが、国教ではありません。

 スコットランド国教会は改革長老教会であり、1690年に決定された教会の政治形態は長老制を採用する。君主(現在はエリザベス2世)はスコットランド国教会の正会員であり、長老総会に王室使節を代表として派遣します。

 スコットランド第2のキリスト教宗派は、宗教改革を生き残ったカトリックです。16世紀から18世紀終わりまで続いた弾圧にもかかわらず、特にノース・ウイスト島およびサウス・ウイスト島とバラ島では優勢です。

 スコットランドのカトリックは、19世紀にアイルランド移民が多く定着したスコットランド西部で特に強まりました。顕著な人数のイタリア、リトアニア、ポーランドからのカトリック教徒移民がスコットランドに移住したため、この傾向は20世紀の間続きました。

 スコットランド聖公会では、約39,000人の信者を持ち、スコットランド第3のキリスト教会です。聖公会は、スコットランドにおいて長老制度が最後に確立した1690年に、スコットランド国教会から分離して誕生しました。アングリカン・コミュニオンの一部でありながら、イングランド国教会の『娘教会』ではないのです 。

 正教会も注目に値します。グラスゴーでは、セント・ルーク教会が重要な歴史的背景を持つ教会です。

 スコットランドの国教問題以上に、長老主義に疑問を抱く人々が別の宗派であるスコットランド自由教会を設立することとなりました。スコットランドの現在の自由教会は、カルヴァン主義よりさらに保守的なスタイルを遵守しています。

 スコットランドにおけるその他の宗派には、エホバの証人、メソジスト教会、会衆派教会、末日聖徒イエス・キリスト教会があげられます。


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