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メアリー・スチュアートの足跡を追って
スコットランド2200km走破

ロッホ・リーヴェン城2
Loch Leven Castle 2

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁


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キャンベル城  キャンベル城2


 以下は上陸前に撮影したロッホ・リーヴェン城のタワーです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8



Loch Leven Castle from Ferry
Source: Wikimedia  Commons
By John Proctor, CC BY-SA 2.0, Link



Lochleven Castle (Kinross, Scotland)
Source: Wikimedia  Commons
, CC BY-SA 3.0, Link


◆メアリー・ステュアートとロッホ・リーヴェ城


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


メアリーとロッホ・ぇーヴンの歴史(16世紀)

 スコットランドのメアリー・ステュアート女王(1542~1567年)は、1565年にローホ・レーヴンを統治するのウィリアム・ダグラス卿(1606年)の客として最初にロッホ・リーヴェンを訪れています。メアリー・ステュアートは、ここでカルヴァン主義者の説教者ジョン・ノックスと議論をしています。

 その後、メアリー・ステュアートは1567年6月17日から1568年5月2日に城から逃亡するまで、流罪の囚人としてロッホ・リーヴェン城に監禁されます。 監禁される前の6月15日のカルベリー・ヒルの「戦い」で、メアリーと伯爵との結婚に反対した貴族らに敗北、降伏し、ロッホ・リーヴェン城に流罪となったのです。

 メアリーはロッホリーヴン湖の島に連行され、ロッホ・レーヴンを統治するウィリアム・ダグラス卿により拘禁され、城の南東の角にあるグラスイン・タワーで流罪生活の大部分(1年弱)を費やすことになったのです。

 そのメアリーは、中毒の気があり、ロッホリーヴン城到着して間もなく病気となりました。さらにロッホリーヴン到着のわずか数日後に、メアリーはエディンバラ城の自分の部屋で生んだ幼い息子ジェームス(六世)を王位につかせるため、自らスコットランド女王を退位することを余儀なくされたのです。

 メアリーはその後、秋から冬の間に健康が回復し、徐々にジョージ・ダグラスを自らの逃亡目的のために味方につけ、蜂起する準備を進めます。ジョージ・ダグラスは本来、牢番であるはずの当の城主マーガレット・ダグラスの息子でしたが、次第にメアリーのロッホリーヴン城やその後の蜂起を手伝うようになります。ミイラ取りがミイラになったわけです。

 これについてジョージ・ダグラスは「妻との愛の幻想」であると書いている文書が残っています。

 メアリーはロッホ・リーヴェンで複数の逃亡を試みます。メアリーは、ロッホ・リーヴェンの城にいたとき、洗濯をするふりをし城前の庭を横切りますが、彼女を島に連れて行っていたボートマンが彼女を見つけ城に戻しています。

 城の外にある7フィートの壁を超えて逃げようとした別の試みもあります。逃亡を練習していたとき怪我をした別の女性が逃亡に成功した夜、ウィリー・ダグラスはカギを盗み、メアリーに召使の服を着させて城の外に出させました。


スコットランド女王メアリーが、ロッホ・リーヴェン城から逃げる様子を描いたもの、ウィリアム・クレイグ・シレフ作(1805年)
Mary, Queen of Scots Escaping from Loch Leven Castle (1805) by William Craig Shirreff
Source: Wikimedia Commons
, Public Domain, Link
 彼女は ロッホ・リーヴェン湖の岸向こうのジョージ・ダグラスが200人の騎兵と一緒に待っていた場所に漕ぎ着けられロディアンのニドリー城に逃げ込みました。

 下はロッホ・リーヴェンからリンリスゴーに近いニドリー城までの地図です。車はないので、おそらく騎馬で30分以上かかったはずです。


出典:グーグルマップ

 ロッホ・リーヴェン城については、別途、イングランドのエリザベス1世を怒らせたノーサンバーランドの伯爵も、ロッホ・リーヴェン城に監禁されています。伯爵は処刑のためイングランドに送り返される前の2年間ロッホ・リーヴェンに監禁されていました。

  1588年、ロッホ・リーヴェンを統治するウィリアム・ダグラス卿は、第6伯爵としてモートンのイヤー・ダムに継承させましたが、ロッホ・リーヴェン城はあまり使われなくなった。

 ロッホ・リーヴェン城を脱走したメアリーは六千人の兵を集め軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れました。

 しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係したとされた。1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などです。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。

 エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がった。


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