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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


ティ橋2

Tay Bridge 2

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2020年10月10日公開予定
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載

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テイ橋の崩壊

 1879年12月28日の夜、嵐の中で橋の中央の「ハイ・ガーダー」(High Girders) と呼ばれる区間が走行中の列車を巻き込んで崩壊しました。75名が死亡したとされ、この中にはトーマス・バウチの義理の息子も含まれていました。

 60人の名前の分かった犠牲者のうち、46人のみ遺体が発見され、このうち2人の遺体は1880年2月になってから見つかっています。行方不明者も多く、正確な犠牲者数は乗車券の販売数を厳密に集計することで算出されました。

 この中には遠くロンドンのキングス・クロス駅からのものもありました。ダンディーにおける19世紀の一般的な都市伝説の中には、カール・マルクスはこの列車に乗るはずだったが、病気で旅行に出られなかったために実際には乗車しなかった、というものがあります。

 捜査官はすぐに事故の原因となった設計・材質・工法上の欠陥を調査し、バウチの設計は風による荷重に対して余裕がなかったとしました。彼は、200 フィート以下のガーダーでは風に対する考慮は不要と報告されていましたが、より長い 245 フィート(約 75 メートル)のガーダーへ設計変更した際にこれを見直さなかったのです。

 また橋の中央部では、下の航路を通る船のマストを支障しないよう高いスルートラスの内側にレールが敷かれており、これは低いデッキトラスの上を通行する前後の区間に比べて重心が高く、風に対して脆弱でした。また、以前の半分作りかけの橋から鉄をリサイクルする現地の工場を、バウチも契約者も定期的に訪問していなかったことが明らかになりました。


落橋したテイ橋を北側から見る
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 円筒形の鋳鉄の梁が橋でもっとも長い13のスパンを支えており、それぞれ 245 フィートの長さがありましたが、これはとても低い質のものでした。多くは水平に鋳造されており、結果としてとても薄いものになっただけでなく、不完全な鋳造を不適切に品質管理検査の目から隠していた証拠も見つかりました。

 特に、鍛造の支柱を取り付ける突起物は桁材と一体的に鋳造せず後から焼き付けられていましたが、焼き付けた証拠は残りませんでした。また通常の突起物はとても弱かったのです。デービッド・カーカルディ (David Kirkaldy) によりこれらは検査が行われ、60トンの荷重に耐えるはずのものがたったのに20トンで破壊することが証明されました。嵐の中でこれらの突起物が壊れて、橋の中央部全体の安定を損ねたものと考えられています。

 なお、この初代の橋の橋脚の残骸は満潮時でもいまなお見ることができます。

公式調査

 公式調査は、海難調査委員会のヘンリー・キャドガン・ロザリー (Henry Cadogan Rothery) が委員長を務め、鉄道検査官のウィリアム・ヨランド (William Yolland) と土木技術者のウィリアム・ヘンリー・バーロー (William Henry Barlow) が補佐しました。彼らは、テイ橋は「不適切に設計され、不適切に建設され、不適切に保守されており、崩壊は本質的な構造の欠陥によるもので、遅かれ早かれ崩壊に至るものであった」と結論付けました。

 事故の数ヶ月前には、中央の構造が劣化してきている明確な兆候がありました。保守検査官のヘンリー・ノーブル (Henry Noble) は、1878年6月の開通後2-3ヵ月後には鍛造の支柱つなぎ材のジョイントがガタガタする音を聞いており、これはジョイントが緩んできていることを示すものでした。これにより、多くの支柱つなぎ材は鋳鉄橋脚を固定する役を果たさなくなっていまし。ノーブルはジョイントを締め直そうとせず、代わりにガタつきを止めるために鉄製のくさびを打ち込んでいました。

 ハイ・ガーダーが崩壊するまで、さらに問題は続きました。

 1879年夏には橋の上で働いていた塗装工により、中央部分は水平方向の動きに不安定であることが指摘されました。北行列車の乗客は客車の変な動揺に苦情を言っていましたが、これは橋の所有者であるノース・ブリティッシュ鉄道により無視されました。

 伝えられるところによれば、ダンディー市長は列車の橋の通過時間を計測しており、公式制限速度の 25 マイル毎時(約 40 キロメートル毎時)を大きく超える 40 マイル毎時で走行していることが分かりました。

 この調査により「設計・建設・保守上のこれらの欠陥について、トーマス・バウチ氏は、我々の意見では、主たる責任があり、設計の欠陥については彼に完全に責任がある」と指摘され、バウチの職業上の評価は失墜しました。

 同じ線で計画されていたフォース鉄道橋に対するバウチの設計に関わっていた取引委員会は、1 平方フィートあたり56 ポンドの仕様を課しました。新しいフォース橋の契約は、ベンジャミン・ベーカー (Benjamin Baker) とジョン・ファウラー (John Fowler) の設計により、ウィリアム・アロル・アンド・カンパニー (Sir William Arrol & Co.) に落札されました。バウチは事故後1年経たないうちに死去しました。

 J N C ロー (J N C Law) はそのレールウェイ・マガジン誌1965年3月号160ページの総合記事の中で、強風が橋を崩壊させる前に風により列車が転覆していたことを示す強い証拠があると示唆しています。彼は、当時の軽い鉄道車両が風で転覆しながら、列車先頭の重い機関車だけが線路上に残ったいくつかの事故を列挙しています。

 列車全体の重量はわずか 115 トンしかなく、6両の客車のうち5両の二等車は 6 トン以下の重量しかなかったのです。当時の調査では、この車両を転覆させるために必要とされる風の力は 1 平方フィートあたり 36.6 ポンドと推定されていましたが、ローの再計算によれば 1 平方フィートあたり 27.7 ポンドでした。

 これに対して、当時の調査でも橋の構造が危険になるには最低 1 平方フィートあたり 33 ポンドの風圧が必要と推定されていました。さらにローは、列車が引き上げられた時に、最後の2両の客車ははるかに大きく損傷していたことを指摘しました。それゆえ、彼はまず列車が脱線してそれがハイ・ガーダーの崩壊を引き起こしたと主張しています。

 ハイ・ガーダーの存在するところで事故が起きていなければ、列車は単に鉄橋から転落するだけで、橋そのものが崩壊することはなかっただろうとしています。ローは、バウチにも橋の建設品質に関して責任がなかったとはいえないとする一方で、バウチは調査で不公正にスケープゴートにされたと見ています。

 この主張はローのオリジナルのものではなく、バウチによる反論でも提出されています。しかしながら公式調査ではこの説に完全に疑問を投げかけられており、もし列車が脱線して橋の崩壊を招いたのであれば、なぜそんなに橋は弱かったのか、という疑問に対応することができませんでした。またこの説は、橋の崩壊が列車が脱線した場所だけではなく半マイルにも及んだことも説明できなかったのです。

 転落した車両のうち、ノース・ブリティッシュ鉄道の224号機関車は川から引き上げられ、カウレア (Cowlairs) で修理されて生き残りました。この機関車は1919年まで運用に就いており、「ザ・ダイバー」(The Diver) のニックネームで呼ばれていました。多くの迷信深い機関士は、新しく架け直された橋をこの機関車で通ることに気乗りがしなかったといいます。

崩壊事故に関連した文学作品

ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Die Bruck' am Tay
ヴィクトリア朝期の詩人、ウィリアム・マクゴナガル (William McGonagall) は、この事故を追憶して『テイ橋の惨事(The Tay Bridge Disaster)』という詩を作りました。同様に、ドイツの詩人であるテオドール・フォンターネは、事故のニュースにショックを受けて、シェイクスピアとシラーの隠喩を含んだ詩『テイ川の橋(Die Bruck' am Tay)』を作りました。

 この詩は事故のわずか10日後に出版されました。スコットランドの作家、A・J・クローニンの1931年の小説『帽子屋の城』(Hatter's Castle)にはテイ橋の事故のシーンが含まれており、1942年の映画化に際しては橋の崩壊がドラマティックに再現されています。

 ルース・レンデルの2002年の小説『The Blood Doctor』でも橋の崩壊が重要な位置を占めています。スコットランドのおとぎ話や幽霊話を収集して再編する作家であるソーシー・ニック・レオーダス (Sorche nic Leodhas) は『The Tay Bridge Train(テイ橋の列車)』という作品を書き、この中では親友の幽霊にテイ橋の列車に乗らないように警告されたため生き残った男の話が出てきます。

2代目テイ橋


2代目テイ橋の中央部分の拡大
Source:Wikimedia Commons
Chris McKenna (Thryduulf), CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 新しい複線の橋は、ウィリアム・ヘンリー・バーローにより設計されて、ウィリアム・アロル・アンド・カンパニーによって建設されました。初代の橋より 60 フィート(約 18 メートル)ほど上流に並行して架けられています。架橋の提案は1881年7月に正式に受け入れられ、礎石は1883年7月6日に置かれました。建設には 25,000 トンの鉄、70,000 トンのコンクリート、1000万個(37,500 トン)の煉瓦と300万個のリベットが使われました。14人が建設中に、主に溺れて事故死しました。

 2代目の橋は1887年7月13日に開通し、120年以上経過した現在も用いられています。2003年には2085万ポンドを投じた橋の強化・再生プロジェクトが、その巨大な規模と関連したロジスティクスにより、イギリス建設業界土木賞 (British Construction Industry Awards) を受賞しました。1,000 トン以上の鳥の糞が手作業により橋の鉄骨からこそぎ落とされて 25 キログラムの袋に詰められ、10万個以上のリベットが取り替えられました。これらの全ての作業は露出した環境下で、潮の流れの速い湾の上のかなり高い場所で行われました。

 なお、"Tay Bridge" は、エリザベス・ボーズ=ライアン(エリザベス2世の母親)の葬儀計画のコードネームにもなっています。


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2代目テイ橋の全体写真
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 4.0, リンクによる