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「ダーウィンの悪夢」試写と
シンポジウム感想


鷹取 敦

掲載日:2006年11月8日



 映画のあらすじとグローバリゼーションの持つ問題について予め予備知識を持っていたつもりではあっても、スクリーンを通じて伝えられる事実と、スクリーンには直接現れないもののそこで突きつけられている背後にあるものに大きな衝撃を受けた。

 シンポジウムでの話によると、1954年にイギリス人が現地の食料事情を改善するため大型の魚を沢山とれるようにということで、ナイルパーチを放流した、という事実が確認されているそうだが、肉食のナイルパーチがヴィクトリア湖の多様な魚種を絶滅に追い込み、生態系を破壊した。

 そもそも加工して高級な食材としてヨーロッパに、そして日本に輸出されるナイルパーチが現地の人の口に入ることはない。入るのは加工された後の残骸、それも廃棄されて腐りかけたものが揚げられて現地で売られるのだ。

 ナイルパーチの加工工場で一定の雇用が生じているとは言っても、漁民は劣悪な環境での生活を強いられている。腐敗した魚から生ずる有害なガスで健康を害し、片目を失うような環境で腐りかけてウジにわいている魚を「加工」している。そんな環境でも農業をしていたころより仕事があるだけマシだという現地の人の言葉に息の止まる思いがした。

 そのナイルパーチの輸出する飛行機(ロシアの軍用機イリューシン)は、アフリカに来る時には内戦に使われる兵器を積んでいるという。乗務員達は否定していたが、最後にはパイロットが事実を明かす。フーベルト・ザウパー監督がシンポジウムで、彼は「感じのいいロシア人」と評したが、兵器を運んだ事に対して後ろめたい気持ちを持っており決して「悪人」ではない。

 幾たびが登場する現地のガードマンが、戦争があれば軍隊に再び呼ばれるだろう、そうすれば待遇も今より良くなるからそれを望んでいるという。この国では私たちは最も回避すべきと考えるのが当然である戦争が、まるで「公共事業」のようになっている、すなわち戦争よりも悲惨な状況がある。そしてそれを望み、そこで稼いでいるのは、欧米の兵器産業であり私たちのお金が流れ込んでいる資本ということだろう。

 フーベルト・ザウパー監督がこの映画を撮る切っ掛けとなったのは、コンゴの内戦についての映画を撮っていた時に、国連の援助物資を運んでいるチャーター機が、対人地雷と義足の両方を運んでいるというパラドクスに遭遇したことだという。

 そして兵器をアフリカ大陸に運び込んだその飛行機でナイルパーチをヨーロッパに運搬しているのが「感じのいいロシア人」であること、もっと抽象化して言えば、「感じのいいロシア人」に象徴される私たち自身が加害者となっていることが、最大のパラドックスだと言う。

 この映画をみて感じた「居心地の悪さ」は、まさにそこに原因があるのだろう。私たちの生活の基盤がこのような現実に支えられているのだという事実に驚愕し、自らの足が意識せずに踏みつけているものが何であるか気がついていなかった、もしくは(知識としては知っていたつもりでも)気がつこうとしていなかったことに暗澹たる気持ちを抱かざるを得ない。

 フーベルト・ザウパー監督は、映画ではあえて解決策を示さなかった。解決策は映画の外に有るべきで、厳しい現実を多くの人が知り、なにかをしなければ、と思うことこそが希望であるといっていう。

 力のあるもの、資本を持っているもの、エリートのみが意見を言うことが出来、声を出すことが出来、最下層の人々が声を持つことを望まない。声を持たない人々は政治的には存在しないも同然である。映画に登場した人々はそのことにより危険にさらされているという。監督自身もこの映画が注目されるにつれ、多くの利害関係者の批判にさらされているそうだ。この映画を通じて、そのような人々の声(事実)を伝えたことが、権力者に驚異を感じさせたということはこの映画の最も大きな意義であり監督はそれを嬉しく思っているという。

 真実を伝えようとするものが批判にさらされるのは、なにもタンザニア、アフリカに限らない。権力者が自分たちの声だけを伝えようとするのも、権力についてものが腐敗するのも、それが洗練されているかされていないか、極端な飢餓や搾取があるか、見えにくいかの違いはあっても、先進国である日本でも同様だ。

 シンポジウムでは日本人の朝日新聞の記者や明治学院大学の教授が、アフリカの国家には「公(おおやけ)」がないからダメだという。しかし、そのアフリカの搾取の上に立っている我々自身の姿を見れば他人事ではいられないし、我々の国家だって五十歩百歩ではないだろうか。

 近年の日本社会の格差問題、ワーキングプアの実態は、アフリカと先進国の関係によく似ている。援助の手をさしのべて見せるだけの「再チャレンジ」は、役に立たないODAと同じではないだろうか。

 この映画のどこを切っても、私たちの生活、国のあり方に多重に重なり、また密接なものであると感じた。監督が言っていた、この映画で提起しているのは単にタンザニアで起きていることではなく、非常に普遍的な問題だ、ということを実感した。

 起きている問題の表層だけでなく、システムを理解し怒りを持つことが必要だ、との現地の人に向けた監督の言葉は、そのまま私たち日本人にも当てはまるのではないだろうか。