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帝国議会の質問制度
−成立と変容−

Question System to the Cabinet in the Imperial Diet:
The Process of Institutionalization


序論および第一章

田中 信一郎 TANAKA, Shinichiro

明治大学大学院政治経済学研究科
政治学専攻博士後期課程
元参議院議員政策秘書

初出:『政治学研究論集』第23号
(明治大学大学院政治経済学研究科、2006年)


Web掲載年月日:2006年5月27



【論文要旨】

本論文は、帝国議会の質問制度における成立過程、変容過程、運用実態を明らかにすることを目的としている。

 第一章では、帝国議会の質問制度の成立過程を明らかにした。帝国憲法の制定過程では議院の権利として質問制度を位置づけることが検討されたものの、結局は議院法で議事手続として質問制度を位置づける結果となった。

 第二章では、主に衆議院における質問制度の変容過程を明らかにした。質問制度は、帝国議会開院と同時に、口頭質問の導入など、議員の手によって機能を拡大する方向で変容し始めた。

 第三章では、帝国議会における質問の運用実態を明らかにした。特に、会期別の質問件数は、戦後の公刊史料や先行研究では明らかにされてこなかったものである。

 以上から、本論文では、帝国議会の質問制度が、民党勢力及び議員が自らの力で発展させた政府監視の手段だったことを、明らかにした。

【キーワード】 質問制度、帝国議会、議院法、議院規則、先例

序論
第一章 質問制度の成立
第二章 質問制度の変容
第三章 質問制度の運用
結論

序論

 足尾鉱毒事件と田中正造を題材とする映画『襤褸(らんる)の旗』(1) は、議会請願のために上京しようとする鉱毒被害民とそれを阻止しようとする警官隊とが衝突した「川俣事件」(2) の描写から始まる。ただ一人、命からがら東京に逃れ着いた小作民が、田中の元へ事件を伝え、当時、衆議院議員であった田中は、直ちに帝国議会の演説台に立つ。映画のスクリーンには、田中を演じる三国連太郎の姿に重なって「警吏大勢兇器を以て無罪の被害民を打撲したる儀につき質問」という文字が大写しになる。そして、田中は事件に対する激しい糾弾演説を行う。

 さて、現代の国会運営を多少なりとも知っている者がこのシーンを見ると、演説と質問タイトルにどのような関係があるのか、疑問を抱くに違いない。質問制度は国会にも存在するが、文書で質問と答弁をやり取りするのみで、原則として演説できる仕組みとなっていない(3) からである。

 そもそも帝国議会の質問制度については、先行研究がほとんど存在しない。

 質問制度に焦点を当てたものでは、前田英昭「議会の質問と情報公開」(4) が唯一といえる。また、大石眞の議院法研究(5) において、大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」という)及び議院法の成立過程を論じる中で、質問制度についても言及されているが、それに焦点を当てたものではない。

 他方、資料の点から見ても、質問件数や件名など運用実態を解明するために基礎となるものは十分でない。衆議院・参議院『議会制度七十年史・帝国議会議案件名録』(6) は、緊急質問の件名こそまとめているものの、質問全般についての資料は収めていない。

 そこで本論文は、帝国議会の質問制度がどのように成立し、変容したのか、ということについて示した上で、質問制度の運用実態を明らかにする。

 第一章では、帝国憲法及び議院法制定史に関する資料と先行研究から、帝国議会開院までの質問制度の成立について論じる。第二章では、先例集を手がかりに、帝国議会の開院以後の質問制度の変容について論じる。第三章では、議会報告書を元に、質問制度の運用実態について考察する。

 なお、本論文では、原則として正字・旧字体について新字体に統一している。


第一章 質問制度の成立

一、帝国憲法と質問権

 初代内閣総理大臣の伊藤博文は1886(明治19)年11月、宮内省図書頭であった井上毅に憲法の調査立案を委嘱した。

 井上は、ドイツ出身の政府法律顧問ロエスレル(Karl Friedrich Hermann Roesler,1834-1894)及びモッセ(Albert Mosse,1846-1925)の助力を得て、1887(明治20)年2月頃までに11ヶ条の憲法試案を作成し、3月頃には未完成の「初稿」を伊藤博文に提出した。ここで注目すべきは「初稿」第34条の「両院ハ各大臣ノ参会及説明ヲ求ムルコトヲ得」(7) という規定である。「初稿」に付記された井上の説明によると、本条は議会の政府監督権を定めたものであり、具体的には質問制度を企図している。文末には、当時のバイエルン議会規則を参考にしたとも記されている。

 この後、同年4月30日にロエスレルが井上に提出した憲法草案(8) の第45条では、「各院ノ議員ハ各々政府ニ質問ヲナスノ権ヲ有ス」と議会の質問権が明記されていた。また、「但少クモ三日前ニ本院議長ヨリ簡単ナル理由書ヲ以テ之ヲ政府ニ通知シタル後ニ限ル」などと具体的な質問方法についても規定していた(9) 。

 そして同年5月23日、井上は試草甲案及び乙案を伊藤に提出した。甲案は第43条で、乙案は第46条で、それぞれ「各院ハ必要ナリトスル場合ニ於テハ内閣大臣ニ質疑ノ文書ヲ送付シ其弁明ヲ求ムルコトヲ得」と議会の質問権を定めていた(10) 。

 しかし、同年8月中旬に伊藤が中心になって作成したいわゆる「夏島草案」では、井上甲案を元にし、ロエスレル草案も参考にされたが、質問権は削除された。上奏権、請願受理権など、他の議会権限も同時に削除されていることから、議会権限を抑えようとする伊藤の意向が伺える(11) 。

 これに対し、井上は同月末、「憲法逐条意見」を草して修正を提議した。また、ロエスレルも翌月に「憲法草案修正意見」を伊藤に提出した。いずれも「夏島草案」の見直し案であり、上奏権、請願受理権などとともに、質問権を立憲政治に不可欠なものとして、その明記を求めていた(12) 。

 伊藤は同年10月中旬、井上とロエスレルの意見を受け、井上、伊東巳代治(内閣総理大臣秘書官)、金子堅太郎(同)とともに「夏島草案」を修正して「十月草案」を作成した。その第56条で「両議院ハ必要ナリトスル場合ニ於テハ政府ニ質問ノ文書ヲ送付シ其弁明ヲ求ムルコトヲ得」(13) と、質問権が復活した。

 そして、伊藤は1888(明治21)年4月5日、「十月草案」を一部修正した「二月草案」を元に「大日本帝国憲法」と題された説明付の憲法草案を策定し、天皇に奉呈した。天皇は同年5月8日、これを枢密院に諮詢した。質問権について、枢密院諮詢案は第51条で「両議院ハ必要トスル場合ニ於テ政府ニ対シ文書ヲ以テ質問ヲ為スコトヲ得」(14) と規定していた。

 枢密院の第一審会議が審議を開始したのは、同年6月18日であった。質問権の審議について見ると(15) 、枢密院副議長の寺島宗則が7月4日の第二読会(逐条審議)で、質問時に議会の多数決までは必要なく、一定以上の同意があればいいのではないかと述べた。これは、ロエスレルが寺島の求めに応じて枢密院に提出した「憲法草案意見概要」での指摘と同趣旨(16) であることから、寺島はロエスレル意見を元に発言したと考えられる。

 一方、副島種臣枢密顧問官は、両議院とあるので多数決と読めるがどうかと尋ねた。これに対し、枢密院議長の伊藤は「質問ノ手続ハ議院法ニ譲ル」と答えている。また、伊藤はこの日の審議の中で、イギリス議会では質問が議事進行を妨げているとして、答弁の可否は答弁者に委ねられているとも述べている。枢密院書記官長の井上も、鳥尾小弥太枢密顧問官の「質問ハ文書ヲ以テスルヲ要シ答弁ハ文書ニ限ラサルカ」という問いに、「然リ」と答弁している。結局、本条は全会一致の採決で原案通り可決された。

 1889(明治22)年1月16日、枢密院は憲法草案の第二審会議を開催し、当日の内にほぼ原案通り可決した。これを受け、伊藤は1月27日、井上、伊東、金子とともに、枢密院第三審会議に提出する憲法草案を協議した。その結果、枢密院第三審会議に提出された憲法草案において、質問条項について「両議院ニ於テハ文書ヲ以テ政府ニ質問ヲ為スコトヲ得」(第50条)と、「両議院」が主語から外され、主語を明記していないものの「議員」と読むのが自然なように修正された。この修正について、伊藤は1月29日の第三審会議で「両議院ハト云フトキハ必ス議院ノ名ヲ以テスルヲ要スルカ如シ故ニ之ヲ改メタリ」と説明した(17) 。この修正の意味するところは大きい。なぜならば「十月草案」以来の憲法草案が「議院の質問権という思考を維持してきた」にもかかわらず、「その観念を放棄するという意味をもつ」(18) からである。

 この修正に対しては、同日の審議で議院全体の名で質問がなされるべきとの異議が唱えられた。審議は翌日に持ち越され、逆に「議院法ニ明文アルヲ以テ足レリ」として野村靖枢密顧問官から本条削除の提案が出された。採決の結果、出席者18名の内、10名が削除に賛成し、質問権の条文は削除されてしまった(19) 。これにより、質問制度は、帝国憲法に位置づけられた質問権から、議院法に位置づけられた議事手続へと後退することとなった(20) 。そして、帝国憲法は同年2月11日に発布され、1947(昭和22)年に日本国憲法が施行されるまで、改正されなかった。

二、議院法と質問制度

 伊藤は1886(明治19)年11月、前述のとおり井上に憲法の調査立案を委嘱した際、議院法の起草についても併せて委嘱した。

 井上は1887(明治20)年4月、「議院法第一次案」(21) を作成し、第7章「政府質問」で、質
問書提出に議員30名以上の連署が必要なこと、質問書を内閣に送付するには本会議での賛成多数が必要なこと、政府答弁に対して討論できないこと、答弁の不十分なとき建議ができることとした。

 以後、質問制度をめぐる議論は、この「議院法第一次案」が基本となっていく。

 そして、井上はロエスレルとの意見交換を経て、同年5月23日に憲法甲案及び乙案とともに、「議院法試草」(22) を伊藤に提出した。質問制度について「議院法第一次案」から大きな変更はなかったが、「三十名以上ハ普獨議院規則ニ依ル 墺ハ上院ニテハ十名下院ハ十五名以上トス」と、連署要件についてドイツ、オーストリアの議会制度を参考にしたことが注記されている。また、現在でも使われている「主意書」という文言が初めて出てきたのも「議院法試草」である。

 その後、憲法「夏島草案」をめぐる議論の結果、憲法「十月草案」が作成され、井上は同時期に「議院法最初原本」を作成した(23) 。「議院法試草」との違いは、質問書提出の連署要件が15名以上に緩和されていることと、質問が政略全般に渡ることの禁止が記されていることである(24) 。

 この「議院法最初原本」を基本とし、オーストリア帝国議会下院第二副議長クルメッキ(Johann Ritter von Chlumecky,1834-1924)による意見書「国会意見」とそれに対するロエスレル論評を参考に、議院法「委員会議原案」が作成された。井上は1888(明治21)年4月26日、伊藤に対してこれを提出した。質問に関して「議院法最初原本」との違いは、議決前に主意書を朗読することが加えられたことである(25) 。「委員会議原案」に大きな影響を及ぼしたクルメッキ意見書であるが、質問制度については特に言及していない(26) ので、この変更は伊藤、井上、伊東、金子の修訂作業によるものと考えられる。

 但し「委員会議原案」は枢密院に諮詢されず、井上、伊東、金子は枢密院第一審会議における憲法案修正を受け、同年7月に「委員会議第一次修正案」、8月に「委員決議案〈第二次修正案〉」を作成した。これらの修正により、質問提出は20名以上の賛成者を要すると改められた(27) 。伊藤は8月下旬、「委員決議案」に修正意見を付した。質問についても、答弁に満足しないとき「再応建議ヲ為スハ其例アルカ 質問ノ主意書ニ付議長不都合ナリトシタル時ノ権力ヲ記載セサルハ如何」とコメントしている(28) 。

 伊藤修正意見を受け、井上らは議院法「諮詢案」を作成し、同年9月に枢密院へ提出した。また、伊東は10月1日、井上の責任の下、「諮詢案」コンメンタール「議院法説明」を作成した。これにより、質問に20名以上の賛成者を必要とする理由が質問数の増大を抑えるためであること、一つの質問で政略全般に質問を及ばせないという意図が「簡略ナル主意書」という文言に込められていること、質問を議決に付す際に主意書を朗読すること、一方でその時に演説及び討論をしてはならないこと、答弁に対する討論を認めないのは政府を非難させないためであること、答弁に対する建議を認めるのは「当然ノ」「言議ノ権」であると認識されていることが分かる(29) 。

 枢密院第一審における議院法「諮詢案」質問条項の実質審議は、10月22日の第二読会(逐条審議)で行われた。第一審は、質問条項について字句修正をしたのみで内容を変更しなかった。枢密院の再審会議は1889(明治22)年1月17日に開催された。枢密院は当日の内に再審会議案を決定したが、重要な修正がなされた。前日の憲法再審会議で議院の法律起案権が承認されたことに対応して、議案発議に関する条文が加えられた。その際、予算案修正の動議、建議の動議などとともに、質問発議の賛成者要件が再び30名以上に引き上げられたのである(30) 。

 その後、枢密院は1月30日の憲法第三審会議で、前述のように突如として質問条項を削除した。そのため、2月2日の議院法第三審会議では、質問条項について、質問の朗読と議院による議決要件を削除するという大幅な修正がなされた。
これら、憲法の質問条項削除とこの議院法修正により、質問制度の性格は「政府に対する問責質問(interpellation)から大臣に対する個人質問(question)へと変化」(31) した。但し、議院による議決要件の削除は、質問制度の性格を個人質問に変化させた一方で、少数派の質問を可能にした。後に議会多数派を与党とする政党内閣が成立したことを考えると、この意義は小さくない。

 そして、議院法は2月11日、枢密院第三審会議の決定どおり、帝国憲法発布と同時に公布された。議院法の質問条文は次のとおりである。なお、議院法の質問条文は、1947(昭和22)年に同法が廃止されるまで、改正されることはなかった。

議院法 第十章 質問(32)
第四十八条 両議院ノ議員政府ニ対シ質問ヲ為サムトスルトキハ三十人以上ノ賛成者アルヲ要ス質問ハ簡明ナル主意書ヲ作リ賛成者ト共ニ連署シテ之ヲ議長ニ提出スヘシ第四十九条 質問主意書ハ議長之ヲ政府ニ転送シ国務大臣ハ直ニ答弁ヲ為シ又ハ答弁スヘキ期日ヲ定メ若答弁ヲ為サヽルトキハ其ノ理由ヲ示明スヘシ第五十条 国務大臣ノ答弁ヲ得又ハ答弁ヲ得サルトキハ質問ノ事件ニ付議員ハ建議ノ動議ヲ為スコトヲ得

三、両議院「成立規則」の成立

 1889(明治22)年2月11日に帝国憲法が発布され、また議院法などの憲法付属法令が公布され、翌年に控えた衆議院議員総選挙と帝国議会開院を前に、焦点は議院規則の制定に移った。

 そこで、政府は同年10月、帝国議会開設準備のために臨時帝国議会事務局を設置し、井上を総裁に任命した。以後の議院規則の作成作業はここで行われたが、実際には同事務局設置前の同年4月から、法制局において林田亀太郎による検討作業が行われていた(33) 。

 同事務局で大きな問題となったのは、議院規則の発効方法であった(34) 。帝国憲法は第51条において議院規則をそれぞれの議院が定めることとしていたが、召集してから正式の議院規則を定めるまでの間の議院規則をどうするかが、議論となった。

 当初、井上はすべての議院規則の勅令による事前制定を考えていたが、同事務局書記官となっていた林田は、勅令による議院規則制定を憲法違反とする意見を井上に提出した。また、政府法律顧問のロエスレルとパテルノストロ(Alessandro Paternostro,1852-1899)も林田の説を支持した。

 その結果、召集時に最低限必要な規則のみを「成立規則」として勅令で定め、本来の議院規則に相当するものは事前に草案を作成して、その取捨を議員に委ねることとなった。

 井上は1990(明治23)年8月、こうした方針に従って、両議院規則、両議院成立及開会規則、貴族院議員資格及選挙争訟判決規則、両議院関係規則などの各草案をまとめ、臨時帝国議会事務局報告書として山県有朋内閣総理大臣に提出した。

 そして、両議院成立規則は同年10月11日、勅令として制定・公布された。なお、成立規則は議会召集後、両議院規則確定の際に、それぞれ貴族院規則、衆議院規則の第一章となった。質問制度との関係で興味深いことは、質問に関する規則が同事務局報告書のいずれの草案にも含められていなかったことである(35) 。よって、帝国議会開院前に質問制度を定めたものは、議院法の第48条から第50条までだけであった。

四、小括

 本章では、帝国議会の質問制度の成立過程を明らかにした。すなわち、当初は帝国憲法で議院の権利として質問制度を位置づけることが検討されたものの、結局は議院法で議事手続として質問制度を位置づける結果となった。また、臨時帝国議会事務局の作成した議院規則草案には、質問制度に関する規則は盛り込まれなかった。

 これらのことから、明治政府が、諸外国の議会との比較から質問制度の必要性は認めていたものの、政府批判の手段とされないようその役割を局限しようとし、議院法に定めたものを手続のすべてと考えていたことが分かる。明治政府の想定していた質問制度を、議院法の条文及び制定過程における議論を踏まえて整理すると次のとおりである。

〈明治政府の想定していた質問制度〉
@ 質問には30名以上の賛成議員の連署が必要(第48条)だが、議院の議決は必要ない。

A 質問には主意書(書面)の提出が必要(第48条)。また、提出時に質問朗読、演説、討論をしてはならない(枢密院第三審会議及び「議院法説明」)。つまり口頭質問は認めない。

B 主意書は議長に提出しなければならず(第48条)、議長が政府に転送する(第49条)。つまり、議員が政府に直接質問することは認めない。

C 答弁方法は大臣の判断で決定し、口頭答弁、書面答弁、不答弁のいずれも可(第49条)。但し、不答弁の際はその理由を示さなければならない。

D 議員は答弁に対し建議の動議を提出できる(第50条)。しかし、答弁に対してその場で再質
問すること、討論を行うこと、賛否を採決することは認めない(「議院法説明」)。