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大虐殺 忘れ去られた
第二次世界大戦の大虐殺
クロアチア・ナチス同盟はたった1日で、
3つの村と鉱山で2,300人以上のセルビア人
市民を、発砲することなく殺害した
RT
The Great Slaughter: A forgotten genocide of WWII
In just one day, Croatian Nazi allies killed
more than 2,300 Serb civilians in three villages
and a mine, without firing a shot

RT  Feb.7 2022

翻訳:池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月9日
 

資料写真. ヤセノヴァツ強制収容所付近で捕虜を処刑するウスタシャ※民兵。
出典:Wikipedia 


筆者
ネボイサ・マリッチ  セルビア系アメリカ人のジャーナリスト、ブロガー、翻訳家で、2000年から2015年までAntiwar.comに定期コラムを執筆し、現在はRTのシニアライターである。

 ※注)ウスタシャ
 1929年から1945年にかけて、正式にはウスタシャ–クロアチア革命運動として知られる、1つの組織として活動するクロアチアのファシストおよび極右国粋主義者組織。アンテ・パヴェリッチが創設した。(英文Wiki)

本文

 「第二次世界大戦だけでなく、人類の歴史上、このような小さな田舎町・村で、一日に、自宅にいた民間人を虐殺したのは唯一最大のものであった。」 これは、セルビア人の歴史家ラザル・ルカジッチが、1942年2月7日、彼の住む場所から2マイルも離れていない場所で、約10時間にわたって行った大量虐殺を描写した言葉である。

 リディツェ(Lidice)というチェコの村は、レジスタンスがナチス親衛隊総督ラインハルト・ハイドリヒを暗殺した報復として、ナチス・ドイツに破壊されたことは全世界の人が知っていることだろう。1942年6月、ナチスは村の成人男性全員を射殺し、女性と子供を死の収容所に送った後、リディツェを壊滅させた。

 340人の村人が殺されたのだ。ドイツのプロパガンダは、この残虐行為を誇らしげに喧伝し、他の場所でのレジスタンスを思いとどまらせることに成功した。

 しかし、ドラクリッチ(Drakulic)、サルゴヴァッチ(Sargovac)、モティケ(Motike)といった村々の名前を知る人は少ない。数ヶ月前、ヒトラーのドイツ軍ではなく、クロアチアの同盟軍が斧と鉱山道具だけを使い、一日で2300人以上を虐殺した村々である。ヤセノヴァツ・ホロコースト記念財団(JHMF)の理事であるドラガナ・トマセヴィッチ(Dragana Tomasevic)氏は、「一発の銃弾もなく...すべての犠牲者は、冷酷に虐殺される前に、自分の家の前で、殺人者と対面していた」と、RTに語っている。

 村人たちは、彼らが正教会のセルビア人であるという理由だけで殺されたのだ。ローマ・ベルリン枢軸と同盟を結んだ過激なカトリックの従属国であるクロアチア独立国では、ホロコーストの序章となった大量虐殺作戦で、殺害、追放、強制改宗させるための理由は、それだけで十分だった。

 クロアチア人の指導者的な軍人であったアンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelic)※の護衛連隊のメンバーである殺人者たちが、司祭を伴っていたのは偶然ではない。ペトリチェヴァツ(Petricevac)修道院近くの修道士フラ・トミスラフ・フィリポヴィッチ(Fra TomislavFilipovic)は、後に「悪魔の修道士」として知られるようになる人物である。

※注)アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelic)
 Ante Pavelić、1889年7月14日 - 1959年12月28日)は、クロアチアの政治家・弁護士・軍人。クロアチアの民族主義団体ウスタシャの指導者、イタリア王国及びナチス・ドイツの傀儡政権であるクロアチア独立国の国家元首であった。(中略)
 1945年5月のドイツ降伏後にオーストリアに亡命。同年、ソビエト連邦の影響圏に入り社会主義政権が設立されたユーゴスラビアの人民裁判所は、欠席裁判でパヴェリッチに死刑を言い渡した。
 その後、パヴェリッチはイタリア、アルゼンチン、スペインに移り住んだ。1957年4月10日、ブエノスアイレス郊外のロマス・デル・パロマルで襲撃され重傷を負い、2年後にマドリードで死去した。(Wikipedia)

■最終解決へのプロローグ

 1942年2月7日は、ナチス高官が集まり「ユダヤ人問題の最終的解決」を大量虐殺と決めた悪名高い「ヴァンゼー会議」から3週間も経たない時期である。しかし、その時すでにヒトラーの同盟国であるクロアチアでは、数ヶ月にわたってセルビア人とユダヤ人の殺戮が行われていたのである。

 クロアチア独立国※(Nezavisna Drzava Hrvatska, NDH)は1941年4月10日、枢軸軍がユーゴスラビアに侵攻したわずか4日後に宣言された。ウスタシャはファシストに影響された民族主義運動で、過激なローマカトリックと「東方分離派」、すなわち正統派セルビア人に対する憎悪によってクロアチア人のアイデンティティ
を定義していたのである。

※注)クロアチア独立国(NDH)
 クロアチア独立国は、1941年4月10元設立、45年5月6日解体。主に現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの領域に存在した国家。一般にドイツ及びイタリアの傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある。(Wikipedia)


資料写真 サラエボにあるウスタシェの部隊 出典:Wikipedia
FILE PHOTO. A unit of Ustaše in Sarajevo. © Wikipedia


 現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア北部の一部で、200万人以上のセルビア人がNDHの支配下に置かれることになった。彼らは自らの名前を否定され、「ギリシャ東方人」とだけ呼ばれ、すぐさまドイツのユダヤ人がニュルンベルク人種法の下で受けたのと同じような制限を受けることになった。パヴェリック政権は、ユダヤ人を非合法化し、その財産の差し押さえを可能にした。ザグレブやサラエボなどの主要都市では、すぐさまポグロム(ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為)が始まった。

 しかし、NDHはセルビア人に焦点を当て、3分の1を殺し、3分の1を追放し、3分の1を改宗させようとした。この政策は、マイル・ブダック(Mile Budak)文化相とアンドリヤ・アルトゥコビッチ(Andrija Artukovic)法務相の両者によっ
て打ち出されたものである。

 ペンシルバニア大学の現代ヨーロッパ史教授で、著名なホロコースト研究者である故ジョナサン・スタインバーグ(Jonathan Steinberg)は、「従来のホロコースト研究からクロアチアが省かれているのは、第1章が破られている本と同じだ」と書いている。スタインバーグはまた、NDHがセルビア人を標的にしたことを、「第二次世界大戦中に試みられた最も早期の完全な大量虐殺」と表現している。

 最初に記録されたセルビア人の大量殺人は、1941年4月27-28日にザグレブから北に50マイルほど離れた都市ビエロヴァル(Bjelovar)で、あらゆる年齢の非武装市民約180人が銃殺されたものである。しかし間もなく、ウスタシャは銃弾を節約し、ナイフ、ハンマー、斧、さらには即席の道具など、冷たい鋼鉄を好んで犠牲者を屠殺するようになった。

 1941年5月から、ウスタシャはダルマチア(Dalmatian)内陸部の自然の渓谷を、何千人もの殺されたセルビア人のための穴として使った。憤慨したイタリア人の介入によって、1941年8月にヤドブノ(Jadovno)やパグ(Pag)の塩倉庫を利用した刑務所などの収容所を閉鎖せざるを得なくなった。しかし、その時までに、新しい一連の収容所、すなわちドイツ領内のサヴァ川沿いにあるヤセノヴァツ収容所(Jasenovac complex)が計画さ
れていた。

 ヒトラー自身が、第一次世界大戦でドイツとオーストリアを破滅させた張本人であるセルビア人迫害を容認し、6月の会議でパヴェリッチに「あまりに寛容に成りすぎないように」と呼びかけている。このため、ウスタシャの「狂気」を語り、その残虐行為がセルビア人の抵抗を煽っていると警告したザグレブの軍事特使エドマンド・グライズ・フォン・ホルステナウ(Edmund Glaise von Horstenau)将軍の報告はの(ヒトラーの)耳に入ることはなかったのだ。

■「オオカミが襲いかかってきたときの羊のように」

 占領下および分割されたユーゴスラビアでは、反乱分子に対する集団処罰として、民間人の虐殺が日常的に行われていた。ドイツ占領下のセルビアでは、ドイツ国防軍の兵士1人が死亡するごとに100人、負傷者1人につき50人の民間人を人質として射殺する政策により、王党派の抵抗は一時的に沈静化したが、共産党はそれにもめげずに活動を続けた。

 共産パルチザンのいくつかの部隊は、現在のボスニア、バンジャ・ルカ(Banja Luka)の北西にあるコザラ山(Mt. Kozara)で活動していたが、当時はNDHの一部であった。彼らの鉄道襲撃に呼応して、地元のウスタシャは2月5日にピスカヴィツァとイヴァニスカ(Piskavica andIvanjska)の集落で数十人の市民を射殺し、その1週間後にも射殺して、合計520人を殺害したのである。

 しかし、2月7日に起こったことは、報復のための虐殺では全くなかった。パヴェリッチ自身の護衛連隊から切り離され、ザグレブから直接やってきたウスタシャの中隊にとっての唯一の使命は、見つけうる限りのセルビア人を殺すこと、だったのだ。

 ドラガン・スティヤコビッチ(Dragan Stijakovic)は16歳だった。ウスタシャがモティケの彼の家に来た時、彼はベッドの下に隠れた。2003年に記録された証言で、彼は、ウスタシャが彼の母親を始めとする家族全員を銃剣で刺し殺した様子を描写している。

 「ウスタシャは玄関で少し立ち止まり、無言で部屋を見回した後、ドアを通って母の胸、左胸のすぐ下に銃剣を突き刺した」と彼は言った。「母が倒れると、ウスタシャはライフルを手に取り、銃剣を母の顔に突き刺し、左目のすぐ下を刺した。他の家族は、恐怖の中で見守り続けるしかなかった。狼に襲われた羊のように、完全に固まって動けなくなった。」とスティヤコビッチは付け加えた。ウスタシャはそれから「冷静に...母の上に乗って、干し草の俵をピッチフォークで刺すように、一人ずつ突き刺し始めた。」

 「目の前で起きていることを見ているんですが、私は動くことができない。まるで麻痺しているかのように。すべてが見えていて、すべてを完全に認識しているのに、筋肉一つ動かせない。体の一部分も動かせない。まるで、心や感覚は生きているにもかかわらず体は死んでいるのかのように。」

 2月11日にバニャ・ルカからザグレブのウスタシャ監視局(Ustaska Nadzorna Sluzba、UNS)に送られた電報には、このような殺害の様子が描かれている。

 「ヨシップ・ミスロフ(Josip Mislov)中尉の指揮するウスタシャ軍の1個中隊は、2月7日4時にラコバツ(Rakovac)鉱山を占拠し、つるはしを用いて37人のギリシャ政教派の労働者を殺害した。その後もつるはしや斧を使って、モティケ村では約750人、ドラクリッチ村とサルゴヴァッチ村は約1500人のギリシャ人キリスト教信者の男性、女性、子供が殺害された。殺害は14:00頃に終了した...詳細な報告は後日。」と。

■隣人の裏切り

 ザグレブから来たウスタシャは、どうやって標的を決めたのだろうか。この3つの村には、セルビア人とクロアチア人の両方が住んでいた。その手がかりは、案内役を務めた地元のクロアチア人の名前が記された追跡調査報告書にある。

 報告書によると、ウスタシャは鉱山からドラクリッチ(Drakulic)に向かった。彼らは、鉱山労働者で地元の三人の男たち、イヴォ・ユリッチ、スティポ・ゴルブ、シムン・プレティコサ(Ivo Juric, Stipo Golub, and Simun Pletikosa)に案内され、セルビア人の家々を指さされた。そして、皆、外に連れ出されて殺された。

 その後、会社はサルゴヴァツ(Sargovac)に移動した。その帰り道、彼らはモティケ村でも70家族を虐殺した。村での殺害には、採掘用のピックの他に斧も使われた。クロアチア人の村人たちは、セルビア人の家から食料、家畜、家具まで略奪したが、死者は埋葬するように言われた。埋葬は3日間続いた。

 「多くの死体は豚や犬に食われ、手足がないまま埋められた」と報告書は指摘した。


1942年のサルゴヴァツ小学校の学校記録。虐殺された正教徒の子供一人一人について、こう記されている。「1942年2月7日死去」と。@JHMF


 ウスタシャの一人であるスティペ・クラーリエヴィッチ(Stipe Kraljevic)が撮影した写真には、ドラクリッチ出身のセルビア人ヨバン・ブラゼノヴィッチ(Jovan Blazenovic)の切断された頭部とポーズをとる6人の同志の姿が写っている。

 6人のうち4人の身元が確認されている。アンテ・ペツィチ(Ante Pezic)、メホ・セリッチ(Meho Ceric)、フランホ・リカノッチ(Franjo Likanac)、マルコ・コラコヴィッチ(Marko Kolakovic)の四人だ。この報告書は、ラコバツ(Rakovac)での虐殺がどのように行われたかを詳しく説明している。

 鉱山労働者は、シフトを開始するときに待ち伏せされ、セルビア人は分離され、鈍器で打たれ、頭にピックを突きつけられて「殺害」させられたのだ。同じ方法が、地上に戻ってくる第3勤務の鉱夫たちにも使われた。死体は坑道に投げ込まれた。

 この2つの報告は、2005年にラザール・ウクカジッチ(Lazar Lukajic)によって出版された「Friars and Ustasha Slaughter(修道士と ウスタシャの虐殺)」という本に収録されている。また、ドラガン・スティヤコビッチ(DraganStijakovic)と他の12人の生存する村人の証言も含まれている。

 ルカジッチ(Lukajic)によると、虐殺で殺されたセルビア人の総数は2315人で、そのうちドラクリッチから1363人、サルゴヴァツから257人、モティケから679人と、ラコヴァツで殺された他の村の鉱夫16人であった。

■ファーザー・サタン 悪魔の神父

 英国でJHMFの慈善事業を率いるトマセビッチ(Tomasevic)氏は、ドラガン・スティヤコビッチ氏の弟ムラデン(Mladen)氏の孫娘で、彼は虐殺当時、ドイツの捕虜収容所にいた。彼女はRTに、ペトリチェヴァチのフィリポヴィッチ修道士はウスタシャの中隊に同行しただけでなく、個人的に虐殺に参加したと語った。

 キリストとその使徒を真似て、修道士はウスタシャの12人をサルゴヴァツ(Sargovac)の小学校に連れて行き、そこで子供たちを虐殺し始めた。虐殺を生き延びた教師ドブリラ・マルティノビッチ(Dobrila Martinovic)は、後にルカジッチに、フィリポビッチが自ら7歳のラドイカ・グラモカニン(Radojka Glamocanin)を目の前で殺害し、他の生徒に殺し方を見せたと語っている。

 1942年2月7日の学校の日誌のページには、58人のセルビア人の子供が「自然死」で死んだと記されている。

 フィリポビッチはまた、ウスタシャに、自分はどんな罪も放免すると言い、彼らの殺害は「背教者」に 「洗礼」を授けること(に等しい)ことだと言ったと伝えられている。フィリポビッチが虐殺に関与したことが知られると、ペトリチェヴァク大修道院長はフィリポビッチを脱会させ、ドイツ軍の特使フォン・ホルステナウ将軍(General von Horstenau)は彼を起訴するように要求した。

 軍法会議にかけられ、刑務所に入れられたが、フィリポビッチの転落は長くは続かなかった。1943年3月、彼はクロアチアの死の収容所の責任者であるウスタシャのヴィエコスラブヴ・ルブリッチ(Vjekoslav ‘Maks’ Luburic)(マックスとも呼ばれていた)に目を付けられた。ルブリッチはこの元修道士を「商売の達人」、つまりセルビア人殺害の達人と名付け、その後フィリポビッチは「マジストロビッチ(Majstorovic)」という第二姓を名乗るようになった。

 ルブリッチは、フィリポビッチ・マジストロビッチを、ヤセノヴァツ複合施設(Jasenovac complex)収容所の一つであるスタラ・グラディスカ(Stara Gradiska)の司令官に任命し、そこでセルビア人収容者をナイフ、斧、ハンマー、その他の鈍器で惨殺させた。犠牲者の間では、彼は「フラ・ソトナ(Fra Sotona)」(悪魔の修道士)として知られるようになった。

 戦後、共産主義者に捕らえられたフィリポビッチ・マジストロビッチは、戦争犯罪の裁判にかけられ、1946年にフランシスコ会のフロックに身を包んで絞首刑に処された。彼はカトリック教会から破門されることはなかった。

■沈黙の罪

 ドラクリッチ、サルゴヴァツ、モティケの虐殺者の何人かは戦争末期に処罰されたが、それ以外の多くの者は処罰されなかった。クロアチア人によるセルビア人に対する残虐行為の全容を明らかにすることは、戦後ユーゴスラビアを元に戻すことを不可能にするものだった。共産党はもともとユーゴスラビアを解体するつもりだった。1928年の悪名高い議案では、「大セルビアブルジョア帝国主義」を破壊するために民族的な境界線で分割することを求めたが、政権を握ると思い通りにはいかず、ソ連と西側連合国の両方から支持を得ることとなった。


<関連動画:RT制作 ドキュメンタリー特集>
忘れられた大量虐殺:沈黙の罪
Forgotten Genocides;The Sin of Silence (RT special document)


 したがって、NDHによる大量虐殺は認められる一方で、セルビア王党派はウス
タシャと道徳的に同等であり、共産パルチザンが枢軸の占領に対する唯一の真の
抵抗勢力であると宣言された。ユーゴスラビアの人々は、「兄弟愛と統一」とい
う形で、平等を受け入れるように言われたのだ。それが、自分の処刑者の隣に住
むことを意味するならば、それはそれでよしとするということだ。

 このため、生き残った人々は、親族の虐殺に関与した隣人によって略奪された家宝を取り戻すのに何年も待たなければならなかった。その隣人たちは、新政府の中で職と権力を手に入れた。1960年代に建てられた大虐殺の犠牲者のための控えめな記念碑は、クロアチア人の感情を害さないよう、彼らがセルビア人であることを示すことができなかったのだ。

 1990年代のプロパガンダが、冷戦の勝利者によって書かれた新しい「歴史」の中で、セルビア人を大量虐殺の戦争犯罪者として、また、第二次世界大戦の処刑人を無実の犠牲者として傷つけてからずっと後のことであり、それが、スチャコヴィッチ(Stijakovic)兄弟や他の生存者が2000年代まで証言を公開できなかった理由でもあったのだ。