日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 日露戦争の目まぐるしい結末 日俄战争的结果让人目瞪口呆 出典:历史探寻者 2018-03-17 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月11日 |
総合メニュー へ 日露戦争(にっこうせんそう、英語: Russo-Japanese War, 日本語: 日露戦争、ロシア語: Русский-Японская война)は、1904年から1905年にかけて日本帝国とロシア帝国が中国北東部の遼東半島と朝鮮半島の支配権をめぐって戦った戦争である。 この戦争は、ロシア帝国の敗北に終わった。 1905年、ユーラシア大陸に広がる伝統的な大国ロシアが、小さな日本の手にかかり、予想外の敗北を喫した。 その勝敗を分析する人は多いが、ある重要な人物を見落としがちだ。在ロシア日本軍駐在武官、明石元二郎上級大佐である。 かつて、ドイツのカイザー・ヴィルヘルム2世は、彼の活動のエネルギーに驚嘆し、「20万人の軍隊に匹敵する男」と評した。 しかし、本業は諜報活動と対反乱工作であり、ロシアの革命家レーニンに対しても自ら対反乱工作を行うなど、その「功績」は死ぬまで隠そうとした。 ※注)明石元二郎 (あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は、明治・大正期の日本の 陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代 台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子(郡保宗の二女)、 後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。出典:Wikipedia日本語 明石元二郎は破天荒な人間であるが、日本の軍人とし て唯一無二の諜報活動を行い日露戦争に日本の勝因と なった人物とっ推察される。訳者注 1865年、福岡藩の武士の家に生まれた明石元二郎は、13歳で陸軍幼年学校に入学する。 幹部候補生学校では、その冴えない姿から、クラスメートから「パパイヤ」とあだ名された。 しかし、実際の明石は、イタズラ好きの気の利いた男だった。細部にこだわる日本兵にとって、明石は確かにだらしない男だった。明石が士官学校の責任者だった頃、日本陸軍の山県有朋大将は「将来、戦隊を指揮できれば幸運だ」と断言した。 結果的には、山縣の勘違いであった。 1904年3月のある日、明石はスウェーデンに隠遁していたフィンランド独立党の指導者ジリアクスの自宅を訪ねる。 そこで明石は、居間の壁にツィクラクス捕獲のためにツァーリが署名した指名手配書が額縁に入れられ、その右側に日本の明治天皇の肖像画が掛けられているのを見て、びっくりした。 明石が「これはどういうことですか」と聞くと、ジリアクスは「ロシアは日本との戦争に疲れているので、フィンランド人にとってはいい知らせだ」と言った。 協議の結果、両者は協力することで合意した。 しかし、反乱を起こすには、お金がなければ遊べない。 明石元二郎は、自宅から日本軍に100万円を要求したが、当時、明石の要求はライオンの拒否に等しく、日本陸軍大将の大山倍達(日露戦争時の日本軍司令官)は、その要求を無視したのである。 その結果、明石元二郎は、ある「悪知恵」を働かせて資金を集めるしかなかった。 ストックホルムの高級カジノで30分ほどルーレットを見た後、高度な数学の知識を駆使して一獲千金を狙ったのだ。 その後、ストックホルムのいろいろなカジノに進出し、地元のカジノオーナーを困らせた。 興味深いのは、日本軍で高度な数学を使ってルーレットを解いたとされる人物は2人しかおらず、明石のほかには、1941年に真珠湾攻撃を行った山本五十六がいることである。 明石元二郎は、この資金でスイスやドイツの武器商人からリボルバーやライフル、爆薬などを買い集め、反乱軍の手に渡す方法を探った。 販売店の記録によると、ロシア社会革命党に1000丁、コーカサスの反乱軍に5000丁、フィンランドの独立派に8000丁、ポーランドの民族主義者に5000丁の銃が渡った。 また、明石はジリアクスの口添えで、ロシアでの野党連合を作ろうとした。 ジリアクスが中心となってロシアの19の政党に招待状を出したが、社会革命党を含む8つの政党しか応じず、ボルシェビキやメンシェビキなどの政党は参加を拒否した。 1904年10月1日にパリでロシアの野党合同会議が開かれたが、この会議では連立がまとまらなかった。 その大きな理由の1つは、ジリアクスの背後に日本のスパイがいるのを当事者が見たからだ。 1905年4月、ジュネーブで再び連合会議が開かれた。 今回は、パリ会議よりも代表的な会議で、メンシェビキとボルシェビキの両方が参加し、レーニンも直接出席していた。 しかし、レーニンは、会議の目的が自分の主義主張と合わないことを確信して、すぐに退席した。 レーニンは、「蜂起の闘争相談」という論文で、自分の考えをはっきりと述べていた。 つまり、レーニンは、ツァーリに反対する勢力が協調して行動することには賛成だったが、外国のスパイを使って彼らを団結させることには賛成ではなかったのだ。 フィンランド独立党の影響を受けた部隊が極東への武器輸送を阻止するために鉄道を爆破したり、ポーランド独立党の指導者が前線のポーランド兵にロシア将校に銃を向けるよう呼びかけたり、バルト海沿岸やトランスコーカシアでは警察署の襲撃や役人の暗殺が行われたり...日本のスパイはロシア各地で手に負えない暴動を誘発させた。 このような状況に直面し、皇帝は日本との講和に同意せざるを得なくなった。 日露戦争末期、帰国を命じられた明石元二郎は、その後提督に昇進し、著書『謀反の手引き』は日本陸軍中野スパイ学校の教科書となった。 日本人は明石元帥について、「那岐提督がいなければ旅順を占領できた。東郷提督がいなければ日本海の大海戦に勝てた。しかし明石元帥がいなければ、日本は日露戦争に勝つことはできなかった」と評している。 核心提示:日露戦争の際、清国政府は中立を保っていたが、実際はツァーリによる東北占領と予定通りの兵力撤退ができなかったことから、政府関係者も一般市民も日本側に傾いていた。 呉由璋が言うように、「人々はロシア皇帝を憎み、また日本側に同情を寄せ、日本側が戦争に勝ったことを喜んだ」のである。 (16) 王雲生も同じことを言っている。「中国は長い間ロシアに虐げられていたので、日露戦争になると、一般国民は兄弟愛と危機感を持ち、中立でありながら、精神的にも物質的にも日本を助けた。」と。 (17) 政府高官としての袁世凱も同様で、表面上は中立でありながら実は日本を贔屓し、呉佩孚を日本の情報将校と一緒に東北に潜入させて日本のために情報収集するなど、人的な面でも日本を支援することがある。 1901年11月、袁世凱は李鴻章の後を継いで志里総督と華北公使に就任した。 志理総監や華北大臣の職務自体が、東北地方に対して一定の責任を負っていたのである したがって、これまで私が入手した情報を見る限り、袁世凱(えんせいがい)は清朝政府官僚の中で初めて東北地方に関心を持った人物であったと言える。 ※注) 袁 世凱(えんせいがい、英:Yuan Shikai、1859年9月 16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日) 中国清末民初期の軍人・政治家。初代中華民国大総統。 北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めた が、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華 民国大総統に就任。一時期中華帝国帝政として復活し、 その際に使用された元号より洪憲と呼ばれることもある。 出典:Wikipedia日本語 日露戦争が終わると、彼は東国三省の統一計画を打ち出した。 著者は、袁世凱の東北への関心は、その政治的野心もあったが、それ以上に、国の主権と安全に対する国民感情を持った地方官僚の責任であったと論じる。 実は、日露戦争のずっと前に、ツァーリ派のロシア人が東北地方から撤退することを見越して、袁世凱は東三省の改革計画を打ち出していたのだ。 この東部三省の改革案の要旨は、1903年5月18日付の『太公望』に掲載された。 満州における袁世凱の政策:袁世凱は最近、ロシア兵の撤退後に満州を支配する新しいシステムを作り上げ、前月24日に詳細に事実によると、これはその主要なポイントは次のとおりであることが明らかになった。 ① 改革の行政システム Shengjing、吉林2つの州は、それぞれの州、知事、知事の設立に従うと、州、郡と知事に従属し、次の職員を設定します。 ② 軍制の改革 ロシア軍は占領され、2つの地方はなだめられた。 軍隊は外国式に訓練され、武器はすべて外国式に準じており、防衛軍は......知事とセットで計画され、知事は領土の安全を管理するために同意しなければならない。 ③ 海外イベントのヒアリング。 満州のすべての外国人は、すべての行政や民事刑事、疲れたり、中国の人々と外国人のオペレーティング-ビジネスについて関与して、それはFengtian、吉林省、中国と外国の裁決局で、正確にするために設定することが適切であるとの裁判を行う。 ④ 重要な自治体の開放性 商業を発展させるためには、重要な都市を開放し、中国人と外国人の間で自由な貿易を行うことが必要である。 ⑤ 中国における新しい税制の確立。 外国貨物のすべての満州の土地のインポートは、特定のインポート税の対象となり、それは国家の領土と本土の重要な資本に新しい税の税関を設定することが適切である。 ⑥ 教育機関の新設。 国民の知識を発展させるために、各都市に外国語や一般教養を教える学校を新設し、徐々に高等教育へと進めていくのが望ましいと思います。 ⑦ 袁世凱の東北政策は、実際には東北地方の全面的な改革のためのプログラムであり、軍事政権体制から地方体制への転換、政治・軍事・経済・教育の全面的改革、すなわちニューディールの全面的実施と大陸に準じた東北地方への早期近代化の拡大、さらに東北地方の開放と外国との関係の適切な処理などが含まれていた。 袁世凱の東北地方における改革計画は、東北地方におけるニューディールの実施、東北地方の後進性を改めるための統治と建設の強化、東北地方の国防強化、東北地方に対する外国の侵略への抵抗にとって、非常に重要なものでした。 この改革計画は、ロシアによる東北地方の占領が間近に迫っている中で提案されたもので、時宜を得たものであった。 袁世凱の東北改革計画は、ロシアが予定通り撤兵せず、その後日露戦争が勃発したため実現しなかったが、東北の全面的改革の先駆けとして、その後の改革に大きな影響を与えた。 日露戦争勃発後、清国政府はその弱さと無力さゆえに、治外法権の中立を選択せざるを得なかった。 それを提案し、実行に移したのは袁世凱である。 しかし、たとえ中立であっても、袁世凱が「私の現状を見る限り、局外には気をつけなければならないが、局外の公法は国境を守るために兵を出し、客兵に領地を借りさせないのがルールである」と言ったように、それなりの覚悟が必要であった。 人間の兵士や賊軍の崩壊を防ぐだけでなく、予測不可能な2つの大軍が強引に進入してきた場合、前もって計画を立てておかなければならない」。 ⑧ 領土外の中立国の責任について清朝に提案した点の中に、"領土外の者は、戦国が領土を通じて敵を攻撃することを許さず、それを防ぐことができない場合は、自分たちも領土外であり、敵は軍隊を連れてきて自衛できる "というのがあった。 ⑨ 袁世凱は新北陽軍を戦場に送り込み、中立地帯を厳格に守り、戦況の推移を注視した。 しかし、清国政府の中立は、「東三省の領土に対する権力は、両国の勝敗にかかわらず、中国の自治にとどまり、占領されることはない」という原則を前提とし、各国に対して厳粛に宣言したものであった。 ⑩ ここでもう一つ明らかにしておかなければならないのは、清朝末期の袁世凱の日本に対する認識の問題である。 袁世凱の12年間の朝鮮出兵の主な任務は、李鴻章と清朝の意向に沿って、中朝間の伝統的な藩閥関係を維持し、日本など列強の朝鮮への浸透に抵抗することであった。 1882年、袁世凱は朝鮮を平定するための軍事作戦「壬申の乱」に参加した。 1884年、袁世凱は自ら中国軍を指揮して甲申政変を鎮圧し、日本がカイザー党を支援して政府を転覆させ、中国から離脱しようとしたのを粉砕した。 そのため、甲申事変後の日中交渉で、日本の代表団が袁世凱に厳罰を科すことを提案したのである。 ⑪ 袁世凱は朝鮮通商相在任中に朝鮮を積極的に管理し、中韓貿易は1885年から1893年の間に6倍以上に急増したが、同時期の日韓貿易は2倍程度に過ぎなかった。 日本側は、「朝鮮におけるわが商人の中国商人に対する競争力は失われ、朝鮮の商業的利益の多くはわが商人から中国に移った」と絶賛した。 ⑫ これは、朝鮮侵略の野心を抱いていた日本にとって決して好ましいことではなく、ついに1894年に日清戦争を起こし、朝鮮と中国を侵略し、中国を破り、朝鮮を併合したのである。 ⑬ 袁世凱は、日本の侵略に抵抗し、中国の権利を擁護したことから日本の敵とみなされ、日本政府は「親中派の袁を恨み、朝鮮の日本拒否は、中国の朝鮮総督府の袁世凱の仕業と疑ったのである。 ⑭ しかし、日本は朝鮮半島の占領に満足せず、次の目標は中国への侵略であり、中国侵略は中国東北部の占領から始まった。 早くも1890年には、山県有朋が『外交政策論』の中で、「主権線は国の領土、利益線はわが主権線の安全・安心に関する領域」「利益線には三つの焦点がある」という主権線と利益線の新しい概念を提唱している。 ⑮ 中国への侵略とソ連への侵略: 中国、朝鮮への侵略は、明治維新後の日本の対外膨張の目標であったが、山形が朝鮮と中国を日本の利益線の焦点として言及したことは、日本政府の国策をさらに確認するものに過ぎなかったのである。 帝政ロシアは、八紘一宇の中国侵攻を機に、中国東北部に別働隊を派遣し、この地域に進出する日本と対立し、日露の対立は激化、ついには日露戦争が勃発することになる。 総合メニュー へ |