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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日本軍による宣化州彭家堡での残虐行為

龍岩鉄鉱山鶴岡東山「万人坑
(河北省)

侵华日军在宣化庞家堡龙烟铁矿的暴行
旅行ブロガーHanhuaYimei 署名写真家Yunwei
2014-08-15

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月2日
 

署名写真家Yunwei

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本文

肉塚墓の罪
宣化県の厖家堡ロングパイライト鉱山で日本人の侵略者が犯した残虐行為


河北省宣化県の肉丘墓


河北省宣化の位置
出典:グーグルマップ


 中国への侵略戦争中、日本軍は河北省宣化で凶悪な残虐行為を行った。宣化市方家堡の龍岩鉄鉱山にある「肉塚墓」、別名「万人坑」の骨は、今日まで日本侵略者の恐ろしい犯罪を世界に伝えてきた。 

 ここで騙されて捕まった労働者の多くは、到着する前に亡くなっていた。 輸送中、混雑と暑さ、食料・水不足により、数日間にわたって多数の労働者が死亡した。

 鉱山に着いても、食料不足とクーリーによる迫害で、さらに多くの人が死んだ。 しかし、日本人は中国人労働者を消耗品とみなし、いくら死んでもすぐに補充していた。

 コレラにかかった人は集団墓地に投げ込まれ、働けない人はすべて処分されるのが日本の信条だった。 1943年以前には8,200体以上の遺骨が埋葬されていたと言われている

 1941年12月から1年間で、これだけの中国人労働者が死んだのである。

 1945年前半の統計では、方家宝鉱山で8000人以上が死亡し、1944年には「肉塚墓」、鉄道駅近くの「千人地」が設置され、今でも方家宝だけで3つの集団墓地が残っているそうだ。

 また、1943年以降、労働者の脱走が相次ぎ、再逮捕された者は、骨が積み上げられた「砂地」で銃殺された。 日本統治時代には、19,765人が不自然な死を遂げ、現地労働者の75%を占めたという。



 子供の頃、両親から「万人坑(集団墓地)と肉塚」の話をよく聞いた。今日、ブラックマウスはここに来て、その話を直接記録し、その屈辱的な歴史を一緒に思い出すことができるようになったのだ。



 1937年から1944年にかけて、日本軍は宣化龍岩鉄鉱山と厦源炭鉱を侵略した。 その後8年間、日本の匪賊はあらゆる血なまぐさい手段で、鉄鉱石や石炭だけでなく、何万人もの中国人鉱夫の命も奪っていった。

 血と恐怖に満ちた「万人坑(集団墓地)」、埋められた白骨は、日本軍の中国に対する残虐行為の断ち切れない証拠である。







 パンジャバオ町ミアンエルゴ村の村民、孫万友さん(70歳)は、龍岩鉄鉱の「集団墓地」を今でも覚えている。「穴はすべて死体で埋まっていた」。


鉄鉱石鉱山の強制労働略奪事件

 龍岩鉄山」は、慈城県の龍岩から宣化燕山にかけての鉄鉱石の鉱山の総称で、その中心が方家堡のあたりにあったため、方家堡鉄山と呼ばれるようになった。

 1937年12月、日本軍は龍岩鉄鉱を占領し、翌年、龍岩鉄鉱株式会社を設立した。 略奪の規模が拡大するにつれて、鉄鉱石の労働者も日に日に増えていった。

 統計によると、日本軍の侵攻の前夜、鉱山全体の労働者は500人ほどしかいなかったという。 日本軍の侵攻を受けた1938年から1945年まで、龍岩鉄鉱石鉱山全体で5万人以上の鉱夫が働いていた。

 日本軍は鉱物資源を略奪するために、河北、河南、山東、山西、北京や天津から大量の労働者を連れてきていた。

 1943年以降、日本人はカビや発芽したジャガイモをたくさん持ち込み、それを食べた多くの労働者が嘔吐、下痢、中毒で死亡しました。 坑夫の大半は、サック片をまとったり、クラフト紙で作ったセメント袋に包まれたりしていた。

 坑夫たちは、1日10時間以上働かなければならなかった。 多くの人が真っ逆さまに作業に没頭し、二度と立ち上がれなくなった。 毎日3、4人が小屋から運び出され、狼尾山の麓にある「集団墓地」に投げ込まれた。


タイトレッド」キャンペーンは非人道的だった

 1943年春、中国への長期侵略戦争と太平洋戦争による膨大な消費を補うため、中国北部に駐留していた日本の侵略軍は「飛躍的な統治」計画を打ち出した。

 龍岩鉄鉱石の場合、限られた時間を使って、鉱夫の命を顧みず鉱山を襲撃し、鉄鉱石資源の略奪を激化させ、「増産キャンペーン」を行うことを意味し、ここの鉱石が赤いことから「タイトレッド」とも呼ばれる。

 赤線がきつかった時代、坑夫は17時間、18時間、坑内から出られないと生殺しにされた。 坑内に入る前に一人2個、時にはその間にもう2個のミックスドーブが配られた。

  飢えと渇きに苦しむ坑夫たちは、坑底の赤い泥から水を盗み、空腹を満たさなければならなかった。 坑内を利用して池に這い上がって水を飲む坑夫もいたが、日本軍に見つかると殺され、多くの坑夫が池のほとりで死んだ。

 1943年11月、「タイトレッド」の時、洞窟にいた鉱夫たちは屋根から異常な音を聞き、掌底の両側の岩がどんどん落ちてくるのを感じた。 しかし、日本兵と鉱山の責任者が無理やり引き返させた。 しばらくして、坑道が崩れる音がして、そこにいた48人の鉱夫のうち47人が死亡した。

 一時はスモーキー・ヒル鉱山の屋根が落ち、30人以上の鉱夫が中に閉じ込められた。 数日間、鉄パイプを叩いて助けを求める声が聞こえたが、日本軍は銃剣で救助隊を追い払い、結局、全員が洞窟の中で窒息死した。

 「タイトレッド」では、日本軍がコスト削減と略奪品の価値拡大のためにわざと信管を切り、最短でも数秒、爆風を避けるのが遅かったため多くの鉱夫が犠牲になった。


生々しい墓の中の犯罪-宣化方家宝龍岩鉄鉱山における日本の残虐行為


日本軍の犯罪を目撃した「万人坑(集団墓地)

 孫完友は、「以前、鉱山の人たちが、万人坑(集団墓地)の骨の多くは針金で縛られていると言っていたのを聞いたことがある」と言った。

 日本軍は龍眼を侵略した後、あらゆるファシズム的残虐行為を行い、無数の鉱夫を残酷に扱った。 そのため、日本軍は死体引き揚げ車による特別死体引き揚げ隊を設置した。

 坑夫の生死にかかわらず、もう働けないと思った者は、棉花山の麓の大きな穴に引きずり込まれた。 さらに多くの死体が投げ込まれ、穴は次第に埋まっていき、おぞましい万人坑(集団墓地)となっていった。

 万人坑(集団墓地)には8,200体以上の骨があったと推定する人もいる。 宣化鉄鋼公司龍岩鉱業所所長の張建強氏によると、日本軍が占領していた龍岩鉄鉱では、鉱石1000トンにつき平均9人の鉱夫の命が支払われた。

 1944年以降、西窯付近には「肉塚墓」、白廟駅付近には「千人地」が形成されたという。 白帝駅付近に「千人の国」が形成された。 さらに、西の「灼熱の野原」、砂の「死者の山」にも白骨がたくさんあった。 ある作業員が自分で数えたところ、6区の下の側溝だけで290体以上の人間の頭蓋骨があったそうだ。



(日本軍は龍眼を占領した約8年間で、300万トン以上の鉄鉱石を略奪しただけでなく、2万7千人以上の中国人鉱山労働者の命を奪うなど、あらゆる血生臭い手段を用いた)


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