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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


極東軍事裁判被告
 
Baidu 百度百科、Wikipedia 日本語、Wikimedi Comons

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月5日
 

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南京大虐殺を行った日本の戦争犯罪者たちの裁判


 日本帝国主義の侵略に対抗し、中華民族を絶滅から救うために、中国人民は立ち上がり、14年間にわたる血みどろの戦争を戦い、1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言せざるを得なくなった。

 同年9月9日、南京では中国戦域の降伏式が行われ、対日戦は歴史的勝利を収めた。 戦後、極東国際軍事裁判と南京戦犯裁判の両軍事法廷で南京大虐殺事件の特別裁判が行われ、日本軍による南京大虐殺の犯罪が確認された。


極東国際軍事裁判における日本の戦争犯罪者たち


極東国際軍事裁判
Source:Wikimedia Commons 写真秘録『東京裁判』、講談社、第1刷 パブリック・ドメイン, リンクによる


極東国際軍事裁判の判事(1946年7月29日)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる


極東国際軍事裁判の陪審員
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる


A級戦犯指名者の護送(1946年5月3日)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる


 以下は極東軍事裁判における被告である。

 なお、はA級戦犯として処刑されている。A級戦犯として処刑されのは、以下の7名である。

土肥原賢二、
広田弘毅、
板垣征四郎、
木村兵太郎、
松井石根

武藤章、
東条英機



荒木貞夫, 1877 – 1966 
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。真崎甚三郎と共に皇道派の重鎮。



土肥原賢二大佐(1883年8月8日-1948年12月23日)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン,  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑される。



橋本欣郎の未定の写真
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

右翼活動家。たびたびクーデターを試みたが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で訴追された。通称「ハシキン」。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の畑俊六
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸海軍を通した全元帥の最後の生き残りであった(大元帥である昭和天皇を除く)。兄・英太郎は陸軍省軍務局長や関東軍司令官を務めた陸軍大将、長男・俊八は陸軍技術大尉。



平沼騏一郎( 1867 – 1952)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。



広田弘毅, (1878 – 1948)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。戦後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として有罪判決を受け処刑された。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の星野直樹
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の大蔵官僚、政治家、実業家。満州国では国務院総務長官として腕を振るい、満州国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東条内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。



板垣征四郎1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将[1]。栄典は正三位・勲一等・功二級。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を勤めた。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。731部隊の前身部隊である関東軍防疫部の設立提案者[要出典]。元参議院議員の板垣正は次男。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の賀屋興宣
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の大蔵官僚、政治家。主計局長や大蔵次官を経て、退官後も東條内閣などで大蔵大臣を務めており、戦時財政を担った中心的人物でもある。



木戸幸一 (889年(明治22年)7月18日 - 1977年(昭和52年)4月6日)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の官僚、政治家。侯爵。昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の木村兵太郎 明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。



小磯國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年(昭和20年)4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。



松井石根,Iwane Matui,Matui Iwane
(明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。



南次郎 (1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)
Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。軍内派閥では田中義一、宇垣一成の直系として1927年(昭和2年)に参謀次長、1929年(昭和4年)に朝鮮軍司令官を歴任、満州事変当時は陸軍大臣として事変不拡大を指示する。戦後、極東国際軍事裁判にて終身禁固刑となる。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の武藤章(1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)
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日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派の山下奉文の部下に転じた。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり処刑された。 岳父は陸軍次官、関東軍司令官などを歴任した尾野実信大将。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の岡敬純 (1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)
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昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。位階は従三位。



大川周明 (1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)
Source:Wikimedia Commons , パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の思想家。1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴された。しかし梅毒による精神障害と診断され、訴追免除となった。なお、晩年はクルアーン全文を翻訳するなどイスラーム研究で優秀な実績を残した。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の大島浩 (1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)
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日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の佐藤賢了(1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)
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日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。



重光葵 (1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)
Source:Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン, リンクによる

第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。



島田繁太郎(1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)
Source:Wikimedia Commons,  パブリック・ドメイン, リンク

日本の海軍軍人、政治家。海兵32期。最終階級は海軍大将 正三位 勲一等 功二級。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の白鳥敏夫 (1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)
Source:Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。



鈴木貞一 (1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)
Source:Wikimedia Commons,  パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の軍人、陸軍中将。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。千葉県山武郡芝山町(山中)出身。



東郷茂徳 (1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)
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日本の外交官、政治家。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時および終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。



東条英機 (旧字体:東條 英機、1884年(明治17年)12月30日[注釈 1] - 1948年(昭和23年)12月23日)
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日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。岩手県出身。軍人として陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣、参謀総長、政治家として内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任した。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑された。



極東国際軍事裁判での戦争犯罪裁判中の梅津美治郎 (1882年〈明治15年〉1月4日 - 1949年〈昭和24年〉1月8日)
Source:Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン, リンクによる

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級。極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。1978年(昭和53年)に靖国神社に合祀される。


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