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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

阜新集団墓地(万人坑)

1世紀の告発

【百年风华】阜新万人坑的控诉
阜新日報(王子辰、劉丹記者/文、張奎武/図)
出典:
2021年6月25日

翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月12日
 

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本文

 1931年の九・一八事件(柳条湖事件)以降、1945年の日本の無条件降伏に至るまで、遼寧省阜新地区には4つの集団墓地があり、総面積は50万平方メートル以上にも及んでいたこれらの集団墓地は、中国の人々を残虐に扱った日本の侵略者による凶悪な犯罪の証である。

 1985年、中国共産党阜新市委員会党史編纂室が発行した『阜新党史編纂』第1集には、「日本捏造時代に何人の鉱夫が死んだか、正確な統計はまだないが、満州国内で発行された『満州統計年報』と満州国内発行の『満州の生産性の問題』の二つの資料によると、阜新鉱山研究所設立以来、 阜新鉱業所の設立以来10年間(1936~1945年)で、さまざまな方法で略奪された労働者の総数は50万人以上、略奪された石炭は2526万トン、死んだ鉱夫の総数は約7万人であった。


遼寧省阜新地区の位置
出典:グーグルマップ


 炭坑への入坑者数と死亡者数を記録した1939年3月(擬制集中6年目)の労働統計月報の移動原因総括表では、同月の入坑者数は27,664人、死亡者数は210人であった。 1ヶ月の死亡者数を210人と計算すると、1年間の死亡者数は2,500人以上となる。

 日本阜新炭鉱株式会社が作成した『労働情報』の「移動理由調査」には、1942年(擬制監督9年目)の登録従業員、常用使用人、永久使用人の数は42,150人、死亡者数は5,280人と記録されている。

 疑似監督時代の10年目にあたる1943年8月の「労働統計月報」の「従業員及び常用労働者の移動」という表には、同月に38,755人が雇用され、468人が死亡したことが記されている。 12ヶ月の期間を基準にすると、1年間の死亡者数は約5,616人である。

 上記から、坑夫の死亡率が非常に高かったことがわかる。 これを基準にすると、毎年4,000〜5,000人、10年間で約4〜5万人の鉱夫が亡くなっていることになる。 非正規労働者、「特殊労働者」、労働者などを加えれば、少なくとも10万人はいたはずだ。

 1920年代、石炭生産におけるさまざまな災害による坑夫の年間死亡率は、1921〜1930年の10年間では日本が最も高く、米、英、独など欧米の主要工業国の平均は0.31%、1929年に最も犠牲者の多かった日本であり、米、英、独は0.26%であった。

 一方、1940年から1942年の阜新炭鉱の坑夫の死亡率はそれぞれ5.86%、4.99%、7.78%で、1943年には15.30%に達し、約5,568人が死亡している。 この値は、1921年から1930年までの日本の炭鉱における年間平均死亡率の49倍であり、前述の10年間における日本は、アメリカ、イギリス、ドイツの平均死傷率の最高値である1929年の59倍である。

 上記の情報に加えて、重要なのがクチコミ情報である。 阜新鉱山局を退職した張登輝は、日本時代と偽日本時代の孫家湾墓地管理局で死者数の登録を担当した。 「1942年3月から墓地管理事務所で便利屋(雑用係)として働き、毎日南山墓地に行き、数を数え、決められた場所に順番に遺体を埋葬した」と回想している。

 当時、南山には太平鉱山、高徳鉱山、孫家湾鉱山、製造研究所、物資の総合倉庫の5つの部隊があり、毎日死者を送り出していた。 太平鉱山は1日に16体の貨車を2台、高徳鉱山は1日に8体の貨車を1台、製造院と資材総倉庫は2日に平均8台、孫家湾鉱山は1日に8~9台の貨車を引いた。

 当時は、屋根葺きや水害、ガス事故など地下での事故が多く、馬車では遺体を引っ張りきれないため、代わりに自動車で南山に遺体を運んだという。 1942年3月から1944年8月までの27ヶ月間、1ヶ月30日として合計810日墓地に勤務し、29,970人を埋葬し、1日37人の埋葬を行った。 これは最低の見積もりであり、木炭の大流出や様々な事故などの要因は考慮されていない。

 1968年、阜新鉱山局は、孫家湾南山の1万人規模の坑内に、階級教育展示館を建設する準備をしていた。 一部の墓と骨を整理する中で、3つの大きな集団埋葬穴が発掘され、「死んだ鉱夫の骨」(西館)と「暴れた青年労働者の骨」(東館)という2つの館が建てられ、元の埋葬形態をそのまま残している。

 2つの展示館(パビリオン)は、東西に約1.5km離れている。 東ホールの墓穴は、丘の東側斜面に沿って北から南へ、北が高く南が低く、長さ16メートル、幅2メートル、底の深さ1メートル弱で掘られたものである。 合計137個の骨が配置された。

 予備調査によると、これらの人々は、生前、日本の警察で「特別労働者」に参加し、反満州抗日鉱夫の「思想矯正施設」に拘禁されていたことが判明した。

 北側の坑道は、南北の長さ13メートル、幅3.5メートル、深さ1メートルほどの平らで低い坑道である。 坑内には58体の遺体が埋葬され、遺体は一段と平らになっていた。

 2つの穴から、手足を切断された遺体の骨が発見された。 死んだ鉱夫たちが受けた残酷な拷問は容易に想像がつく。 また、2本の腕を地面に突き立て、足を後ろに伸ばし、上体を起こし、頭を少し上げて、別の体の上に凭れかかっている体もあり(坑内の体はすべて仰向け)、明らかに生き埋めでその時に這い出すつもりで、前這いの体勢をとっている。


この炭坑の集団墓地は、どのような原因で発生したのだろうか?

 まず、「人間採掘」の方針から事故が頻発し、多くの労働者が死亡した。

 日本の侵略者は、「中国人労働者の命で資源を採掘する」という政策を追求し、「石炭」と「人民」の関係を扱うのに「人民なき石炭」の原則を堅持したのである。

 石炭」と「人」の関係では、日本人は「人なき石炭」の原則を貫き、炭鉱の採掘方法、生産管理、生活様式などに侵略者の本性を反映させた。

  当時、日本軍は坑道を開き、扉を引いて石炭を採掘したが、厚い炭層は積み上げ方式を採用し、炭層の底から水路を切り、石炭スキッドの漏斗を設置し、炭層に穴を開け、大砲を撃ち、すべての炭層が落ち、20~30メートルの厚さの炭層は柱で守られていなかったので、底の石炭スキッドで採炭をした。

 大砲の掘削、装填、放銃の過程で、作業員は九死に一生を得、落石や屋根からの落炭でいつ死傷してもおかしくない状況での作業であった。

 擬制7年目の1940年3月の「労働統計月報」21ページの「労働災害の理由」の表によると、阜新鉱山ではわずか1カ月で329件の災害があり、内訳は坑内240件、坑外42件、露天41件で災害発生率が高いことが分かる。

 首領の告白も坑夫の回想も、日本統治時代、侵略者が欲しかったのは人ではなく石炭であり、ルーフィング、水の浸透、ガス爆発などの事故が続き、坑夫に多くの死傷者が出たことを示している。 これが、集団墓地が形成された重要な理由であった。

 第二に、残酷な経済搾取によって、多くの鉱夫が老いる前に死に、拷問を受けて死んだことである。

 封建的な首長制度は、日本の侵略者が中国を侵略し、安い労働力を略奪し、鉱山資源を押収するための重要な手段であった。 この人たちは、毒蛇のように鉱夫の血を吸い、日本の侵略者のもとに運んだのだ。

 日本の侵略者は、広州で大量の労働者を確保するために、「華北労働者募集法」と「労働支配計画」を制定したのである。 彼らは裏切り者やリーダーを集めて河北省と山東省に「労働者派遣所」を設置し、「集中募集」と称して騙して労働者を募集した。 酋長に労働者を採用させるために、鉱山事務所は、酋長が採用した労働者はすべて彼らの管理下にあることを認めた。 毎月、労働者数の13パーセントの歩合をもらっていたので、ボスやスーパーバイザー、オーバーザーは、日本人のために一生懸命働いた。

 
第一に募集費を横領して私腹を肥やす、第二に別名義を作って労働者を搾取する、第三に労働時間を延長して労働強度を高める、第四に個人商店を作って高値で売買する、第五にカジノや遊郭を作って利益を共有する、第六に状況に乗じて利殖する、第七に飽くことなく死者を搾取する、など七つの方法で鉱夫たちを搾取していたのであった。

 過労と劣悪な生活環境のために、数え切れないほどの坑夫が過労死、飢え、病気で亡くなった。 より多くの石炭を略奪するために、日本の軍国主義者たちは労働時間を延長し、労働強度を自在に高めたのである。

 当時の統計によると、1カ月間継続して働けない人が25%、3カ月間継続して働けない人が50%いた。 当時、鉱山には 「この世には18の地獄があり、その下には鉱山労働者がいる」という民謡があった。

 第三に、無数の鉱山労働者を殺傷した残忍な政治的抑圧である。

 阜新炭鉱にある4つの集団墓地のうち、8万平方メートルの興隆口集団墓地は、主に日本時代や偽物の時代に興隆炭鉱で屋根ふき、ガス爆発、湧水、各種疫病などで死亡した鉱夫を埋葬するために使用されたものだ。

 現在、墓地は地元の村人によって農地として利用されており、大小20の塚が残るのみで、背面には「忘れることなかれ(Never forget)」と刻まれた記念碑が立っている。

 毎年、清明節の頃になると、子孫たちが参拝に訪れ、人々がこの歴史の一端を決して忘れないことを表している。 市南部の墓地は45,000平方メートルの広さがあり、主に市南部の炭鉱で亡くなった鉱夫を埋葬していたが、当時は埋葬する穴が少なかったため、現在は地元の村人たちの農地になっている。

 武隆南溝集団墓地は17万5千平方メートルの面積を持ち、主に平安と武隆の炭鉱で亡くなった鉱夫を埋葬するためのものです。 鉱山の生産と建設により、この切羽はほとんど消滅し、鉱山の排出ガングーサイトと化している。 孫家湾の集団墓地は20万平方メートル以上の広さがあり、周囲には「満炭墓地」と刻まれた石杭があり、これまでで最も保存状態の良い墓地となっている。

 2014年10月3日、習近平総書記は、2014年に国家反戦記念地の一つに挙げられた阜新の集団墓地の修復と保護について重要な指示を出した。

出典:阜新日報(王子辰、劉丹記者/文、張奎武/図)。


声明:本記事で述べた見解は著者のものであり、捜狐は情報公開プラットフォームであり、情報保存空間サービスを提供するだけである。

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