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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京大虐殺アーカイブ
アーカイブが南京大虐殺の主犯格に
頭を下げ罪を告白させた


◆这份档案,让南京大屠杀主犯俯首认罪
来源:微信公众号“CCTV国家记忆”
政务:共青团中央 2021-11-05

翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月7日
 

写真は谷寿夫。出典:中国中央電視台(CCTV)

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本文

 中国第二歴史档案館の258万冊を超える档案の中に、遺物としては真実の歴史を記録し、档案としては重要な瞬間に歴史の軌跡を左右する、地味で小さな冊子がある。「王の証拠第一号」と呼ばれる南京大虐殺の写真档案である。


写真:南京大虐殺の写真アーカイブ

 1945年9月2日、日本の代表者はUSSミズーリ号で降伏文書に署名し、ファシズムに対する世界戦争の終結と中国人民の日本に対する抵抗戦争の勝利を収めた。 そして、歓声の中で、戦争犯罪を犯した日本の戦犯たちが裁かれた。

 1946年8月、南京大虐殺の主犯格である谷寿夫が移送されていた南京の紫山下にある国防部戦犯収容所に、黒い囚人用バンが密かに乗り入れられた。

 ※注) 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日
   - 1947年(昭和22年)4月26日[1])は、日本の陸軍軍人。
  最終階級は陸軍中将。陸士15期、陸大24期(優等)。師団
  参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第
  二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、
  南京軍事法廷で、南京事件の責任者とされ死刑判決、銃殺
  刑に処せられた。Wikipedia


 わずか1ヶ月余りの間に、30万人以上の中国人と非武装の捕虜が日本軍の虐殺のナイフの下で死んだ。 しかし、南京大虐殺について軍事法廷で追及された凶悪犯罪者の谷寿夫は、「私は1937年12月21日に蕪湖(以下の注参照)を命じられ、南京に来て1週間しか経っておらず、大虐殺のことは聞いていない」と言ってすっとぼけた。」

 ※注)蕪湖(地名:上海の西、南京の南に位置する) 
  安徽省の東南部に位置し、合肥市、馬鞍山市、宣城市、
  池州市、銅陵市に接する。



写真は谷寿夫。出典は中国中央電視台(CCTV)

 主犯格の谷寿夫の詭弁で軍法会議は一瞬窮地に陥った。しかし、直接の証拠がないため、軍法会議は谷寿夫軍の戦争犯罪を暴くために南京の人々に動員を呼びかけた。

 たちまち街には、日本軍に焼かれ、殺され、略奪された人々が、日本軍の罪を叫んで臨時法廷に押し寄せた。

 その中に呉宣という若い女性がいて、小さな写真集を丁寧に南京の臨時元老院に届けていた。 冊子は「南京大虐殺写真アーカイブ」。

 16枚の写真で構成されたこのアルバムは、侵略してきた日本軍が南京で行った悲惨な犯罪の、それぞれの確固たる証拠となるものだった。

 華東写真館で見習いをしていた羅仁さんが1938年1月、日本軍の将校が持ち込んだ2本のフィルムを現像して密かに保管していたのだ。

 殺陣の写真を記念に現像するのは、どんなマニアックなことなのか。

 当時まだ15歳だった羅仁は、悲しみと怒りを胸に、命がけで余分な写真を現像し、密かに手元に置いて隠し、後に同じ愛国青年の呉宣に譲渡して保管させたのだった。 彼女がこの日本の犯罪を明るみに出すきっかけをつかんだのは、8年の歳月を経てからであった。

 1947年2月6日、南京大虐殺の主犯格である谷寿夫の公開裁判が南京(注:東京における極東軍事裁判とは別に南京市で軍事法廷がもたれた)で行われ、呉宣が手渡した写真集は「王の証拠第一号」となり、世界に衝撃を与えた。

 3月10日、軍事法廷は厳粛な判決を下した。「谷寿夫は、戦争中に捕虜や非戦闘員の虐殺に協力し、強姦、略奪、財産の破壊を行った罪で死刑を宣告された。」と。


写真:谷寿夫に対する死刑判決 出典:中国中央電視台(CCTV)

 1947年4月26日、南京大虐殺の主犯格である谷寿夫が銃殺刑で処刑された。


寿夫に対する死刑判決を伝える新聞 出典:中国中央電視台(CCTV)

 アーカイブは歴史の証であり、国の発展や社会の進歩に極めて重要な役割を果たす。 したがって、アーカイブを駆使し、社会に役立て、人々に還元するためには、あらゆる種類のアーカイブを収集することも、アーカイブ作業の最も重要な側面の一つである。


写真:中央公文書館に所蔵されているこのアーカイブは、1949年4月25日に毛沢東自身が起草した中国人民解放軍の「告示」をコピーしたものである。
出典:中国中央電視台(CCTV)

 「官僚資本企業に勤務するすべての人員は、人民政府に買収される前と同様に勤務することが求められ、資産、機械、図表、帳簿、公文書などを保護する責任がある」、「それらを保護した功労者は報いられ、破壊を怠った者は罰せられる」と、公文書の買収に関する問題が具体的に述べられている。. これは、毛沢東が新中国建国のはるか以前から、アーカイブス収集の重要性を認識していたことを示している。

 1949年11月末、中央人民政府の政務委員会は受領作業委員会に指示を出し、董碧武副首相を長とする華東作業部会を結成して、上海と南京に赴き、公文書受領作業を行った。

 この時、南京が解放されて久しいにもかかわらず、旧体制のアーカイブスの受け入れは思ったほど簡単ではなかった。 当時、国立歴史博物館に残されていた古文書が無事に受理され、整理が始まった以外にも、国民党の敗北によって長らく失われていた共和国政府の古文書が多数存在していた。



動画:蒋介石国民党軍の台湾への敗走 動画だがここでは一部写真のみ
 出典:中国中央電視台(CCTV)

 南京歴史事務所のスタッフは、国民党の台湾への撤退に伴って廃棄された古文書を回収し、全国に輸送するという前代未聞のプロジェクトに着手した。

 交通機関が後進国で鉄道も珍しい時代、アーキビストたちは安全のために水路を使わず、通常は悪路を車で移動していたが、その過程でほとんどすべてのアーキビストが生死をさまよった。

 南京データ照合局の局長だった王克峰は、その代表者だ。


王克峰の息子、王淑生  出典:中国中央電視台(CCTV)

 王淑生は、「父がバケットの上に座ってアーカイブスを護衛していたので、運転席に座らずにこのような長距離を移動するのは非常に危険で、その結果、山間部の急カーブに差し掛かったときに事故が発生し、車輪が山道を乗り越えて横転しそうになりました。 車を外側に反転させるのではなく、道路に内側に反転させていました。

 転倒事故の後、王克峰は一歩も退かず、一行が協力して古文書を車に積み込んだ後、王克峰はバンに乗り、旅の途中で貴重な古文書を守り続けた。 当時、王克峰のようなアーキビストは、すべてのアーキビストの縮図に過ぎなかった。

 1980年3月17日、党中央委員会と国務院の承認を得て、国家公文書局は「歴史公文書の公開に関するいくつかの意見」を発表した。 ビルの壁の奥に隠されていた貴重なアーカイブは、その後、より多くの人に知られるようになった。

 特に、アーカイブや歴史的資料の編集・出版は、このように広く普及し、社会的にも良い効果をもたらしている。 人々はアーカイブに対する新たな理解を得て、より多くのアクセスを得ることができ、その利用はより便利になった。

 中国のアーキビストたちは、歴史上の特別な出来事の貴重なアーカイブよりも、数が多くて見つけにくい一般の人々の個人的なアーカイブを見つけるという課題を解決するために、どのようなことを考えているのか。

 歴史ある中国第二歴史档案館の東側には、近代的な建物が建っており、紙のアーカイブを電子アーカイブに変換して永久保存するデジタル化センターとなっている。

 ※注)档案とは
  档案は中国における歴代政権の公文書。檔子(档子、とうし)とも
  いう。各種組織、機関或いは個人が業務処理を行う際に発生し保
  管される記録、文書、資料を表す中国語。特に中華人民共和国で
  は国家による国民管理を目的に作成される個人の経歴、思想等の
  調査資料を収集した秘密文書である「人事檔案」を特に示す場合が
  ある。Wikipedia




 午前8時、デジタル化センターはすでに満員で、カテゴリーの特定からデジタルコピー、ファイルの加工、サーバーへのアップロードまで、すべてが整然と行われていた。 この作業は10年以上前から行われており、その間に何万冊もの紙のアーカイブがこの方法で電子画像・データ化され、真に縮小され、永久に保存され、使いやすくなった。

 Ma Zhen-calf が中国第二歴史档案館長である

 Ma Zhen-calf氏は、「私たちのデジタル化作業は、優先使用の原則に従っている。つまり、私たちは、人々が最も頻繁に利用する情報がすぐに見られるように、私たちが最初に行う。比較的、一般に公開されているアーカイブの90%以上は、電子的に適用することができ、今回、この作業は成功裏に完了した」と述べている。

 2007年以降、国家档案局は一連の文書を発行し、全国の档案部門が率先して人民の生活に奉仕することを指導し、その結果、人民の生活のための档案を数千世帯に奉仕することになった。

 新世紀に入ってから、アーカイブの継続的な発展に伴い、アーカイブの利用も新たな使命を与えられている。 中国のアーカイブは、国外に出て、世界に出て、中国の物語を世界に伝え、実践的な行動で国家の尊厳を守っている。

 2014年3月、国家档案局は世界記憶遺産プロジェクト中国国家委員会の名で、南京大虐殺アーカイブスの推薦書をユネスコ世界記憶遺産プロジェクトに提出し、正式に世界記憶遺産登録を宣言した。


写真:「南京大虐殺アーカイブ」の世界遺産選定に成功
出典:中国中央電視台(CCTV)

 2015年10月9日、ユネスコは詳細な議論を経て、「南京大虐殺アーカイブ」を含む「2015年世界記憶遺産」の登録対象に選ばれたリストを発表するニュースを公式サイトで公開した。

 中国のアーキビストたちの努力により、すべての中国国民に悲しみと怒りを与えたこの悲劇的な歴史は、ついに世界の記憶となり、人類の歴史の中で不滅のものとなるであろう。

 秘密主義、守秘主義から開放主義、共有主義へ、歴史研究から一般福祉へ。 過去数十年の間に、中国のアーカイブズの急速な発展により、アーカイブズの利用は小さな利用から大きなサービスへと歴史的な飛躍を遂げた。

 今後、科学技術のさらなる発展に伴い、中国でのアーカイブの利用も時代に合わせて、新しい姿勢で、より便利に、より早く、より包括的なサービスを提供し、中国が新たな分野に飛躍することを支援してゆく。

 編集者:Hou Shubing(東北師範大学)
 校正者:Li Tong
 校正:Chen Yuan, He Hengping
 エディター・イン・チャージ丨Wang Xiaokun


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