日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 南京大虐殺と 中島今朝吾日記(3) (原題:)中島今朝雄:南京大虐殺の犯人で、 蒋介石の財宝も盗んだが裁判を逃れた。 中岛今朝吾:南京大屠杀的罪魁祸首, 还偷蒋介石财宝却逃过审判 来源: 中国 万象历史特约作者:凌空子 (Wanxiang History Contributing Author: Lingkongzi) 2020年6月15日 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年10月27日 |
中島今朝吾(なかじま けさご、1881年6月15日~1945年10月25日) 総合メニューへ 中島今朝吾(なかじま けさご、1881年6月15日~1945年10月25日)は、日本陸軍中将、日本第16師団長、南京大虐殺の加害者の一人である。 ◆論考の原題:蒋介石の財宝も盗んだが裁判を逃れた。 来源: 中国 万象历史特约作者:凌空子 2020年6月15日 本文 1881年6月15日に大分県で生まれた中島は、1904年に日本陸軍士官学校を卒業(23歳)し、砲兵少尉として日露戦争に従軍した。 1913年(32歳)に日本陸軍大学を卒業し、フランス駐在武官となり、1923年(42歳)に帰国した。 その後10年間で、彼は陸軍中将にまで昇進した。 1937年(56歳)、七夕事件をきっかけに、日本は本格的に中国への侵攻を開始した。 日本軍の第16師団長となり、保定、石家庄の侵攻に参加した後、宋、上海の戦場に移った。 11月12日、上海は日本軍に占領された。 12月13日、第6師団は率先して南京への攻撃を行い、陥落した。 中島今朝子の第16師団もこれに続き、南京の北郊と東郊を占領した。 (日本軍の南京入城) 12月14日、中国の首都である南京を攻略したことを記念して、上海派遣軍の司令官である松井石根は、17日に盛大な入城式を行うことを決めた。 入国式を確保するため、日本軍は市内外の大規模な「掃討作戦」を開始し、市内に潜む中国兵を探し出し、捕虜を虐殺した。 中島今朝吾の第16師団は、江東門、燕子地、魚雷収容所、紫金山での捕虜の生き埋めなどを担当した。 捕虜の虐殺だけでなく、逃げ惑う無辜の民にも銃が向けられた。 (日本兵が中国の捕虜を銃剣で刺すという残虐な行為を行っていた。) 中島今朝吾に仕えていた2人の少尉、向井敏明と野田毅が集まり、上海から南京まで、100人全員を殺した方が勝ちという「殺し合い」を行った。 南京の紫山の下で出会ったとき、野田は105人、向井は106人を殺しており、サーベルはすでに欠けていた。 しかし、どちらが先に100人を殺したかは定かではなかったので、2人はどちらが先に150人を殺すかで勝負をやり直した この試合は東京日報に掲載され、世界に衝撃を与えた。 二人は「帝国陸軍の英雄」と呼ばれた。 (新聞では「100人斬り」と報道された。) 中島今朝吾は、入城式の安全を確保するために、兵士が罪のない人々を虐殺することを許した。 盛大な式典の後、21日には中島がその功績を認められて南京警察の司令官に任命された。 そして、虐殺は続いた。 南京大虐殺の犠牲者の約半数、15万人以上が第16師団の手で亡くなったと言われている。 中島今朝吾は、まさに「虐殺の鬼」であり、南京大虐殺の責任者であった。 (虐殺の後の風景) 中島今朝吾は、南京滞在中、蒋介石の邸宅に滞在した。 彼は、蒋介石の宝物を大量に略奪し、密かにすべてを日本に帰国させた。 7月には関東軍第4軍の司令官に就任した。 1939年(58歳)、蒋介石の財宝を盗んだことが日本軍に発覚し、中島今吾は陸軍から追放され、予備役となった。 (戦争で略奪された後の南京) 1945年8月15日、日本は敗戦により降伏した。 中国は、裁判を受けるために中島今朝吾の身柄引き渡しを要求したが、10月29日、64歳の中島今朝吾が尿毒症と肝硬変で亡くなっていることを誰が知っているだろうか。 このようにして、南京大虐殺の責任者である中島今朝吾は、1946年に南京軍事法廷での裁判を免れた。 彼の死後、中島の南京での戦時中の日記が発見された。 1948年12月23日、松井は絞首刑に処せられた。 天の網目が大きく開いている ...... (中島今朝吾の手書きの日記) (Wanxiang History - Biography Writing Campの713回目のエントリー、キャンプメンバー「Red Flag Flying」の23回目のエントリー) Foxに戻る、もっと見る 総合メニューへ |