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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日中戦争、国民党が正面から

激しく戦った22の戦い、

中日の犠牲者数比較


中日战争,国民党正面硬抗的22次会战,
中日双方真实伤亡对比情况

来源: 关东煮不煮 举报 2022年1月11日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月13日
 


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 参考:青山貞一 地図に見る日本の侵略 (日中戦争編)



 20世紀半ば、世界の情勢は変化し、1931年の9・18事件以降、第二次世界大戦の影が少しずつ見えてきていた。 そして1935年10月3日、イタリアはエチオピアに侵攻し、1938年3月、ミュンヘンはオーストリアを併合した。

 そして1939年、ドイツがポーランドに電撃侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告したため、本格的な第二次世界大戦が勃発したのである。

 1931年、日本軍は「9.18戦争」を経て東北三省に侵攻し、以来、わが国の兵士と民間人は粘り強く抵抗するようになった。

 ※注)9.18戦争(柳条湖事件)
  柳条湖事件は満州事変の発端となる鉄道爆破事件。
  1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満州(現在の
  中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖
  付近で、関東軍が南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し
  た事件である。関東軍はこれを中国軍による犯行と発
  表することで、満州における軍事展開およびその占領
  の口実として利用した。
出典:Wikipedia日本語

 1931年、馬鞍山率いる第19路は上海で1カ月以上にわたって日本軍と戦った。 つまり、中国への侵略戦争は1931年に始まり、1945年に終わったことになり、実に14年の歳月が流れたことになる。

 対日戦時中、日本軍は最盛期には約410万人の兵力を中国に送り込んでいた。 日本の中国侵略を前に、張学良と楊虎城は1936年に西安事件を起こし、中国共産党と合作、1937年には廬溝橋事件が勃発し、日本は全面戦争を開始することになる。



 この14年間の戦争で、国民党は1937年から前線で日本軍と22回の戦闘を行った(遠征軍を除く)。 では、この日中戦争、国民党が正面から激しく戦った22の戦いで、中国側と日本側の本当の死傷者数の比較はどうだったのだろうか。 ここでは、時代別に見てゆく。

1937年に行われた戦い

 双方に100万人の兵力が投入された3カ月間の戦闘、日本名第二次上海事変(8月13日〜11月11日)は、日本の「3カ月で中国を滅ぼす」という計画を打ち砕いた。 この戦いで日本軍は5万人以上の死傷者を出し、国民党は約30万人の犠牲者を出した。 結果は日本軍の勝利で、上海は陥落した。



 中国北部を中心とした太原の戦い(9月13日〜11月)には、平興関の大勝利も含まれていた。 日本側は14万人半、中国側は約28万人、6軍団、52個師団で戦った。

 戦いは2カ月に及び、国民党は約10万人、日本軍は約3万人の死傷者を出した。 その結果、日本軍は勝利し、太原は陥落した。

 南京戦(12月1日〜12月13日)は、日本軍20万人、中国軍15万人で戦われた。 死傷者は中国兵5万人、そして民間人30万人であった。 日本軍の死傷者は1万2千人にとどまり、結果は日本軍の勝利で南京を陥落させた。




1938年に行われた戦い

 徐州の戦い(1月4日〜5月21日)は、最大の防衛戦として知られ、日本軍司令官寺内正一が24万人の兵を派遣し、国民党は李宗仁の指揮のもと60万人の兵を派遣して徐州を攻撃した。 戦いは5カ月に及び、中国の死傷者約10万人、日本の死傷者約2万6千人を出した。 結果は日本軍の勝利で、徐州は陥落した。 しかし、美しい太魯閣の戦いはこの中にある。

 蘭州海戦(5月21日〜6月)では、板垣重四郎の師団が単独で蘭州を攻め、中国側は当時12個師団を擁していた。 この戦いで日本側は3万人以上の死傷者を出し、中国側は約10万人であった。 その結果、日本軍の進攻を阻むことができた。

 武漢の戦い(6月〜10月)では、国民党軍は110万人、日本軍は岡村寧次が30万人を送り出し、日本軍2万6千人、中国軍40万人の死傷者が出たという。 結果は日本軍の勝利で、徐州は陥落した。




1939年に行われた戦闘

 水棹の戦い(5月1日~20日)、日本軍は湖北と河南南部の軍隊の脅威を排除するために湖北の水棹県を攻撃し、この時日本軍は11万人を、中国の李宗仁は22万人を送って防衛した。 戦いは防衛に成功し、日本軍は約13,000人、中国軍は約25,000人の死傷者を出し、中国軍が勝利した。

 第一次長沙の戦い(9月〜10月)、「軍神」と呼ばれた雪岳は24万人の兵を指揮し、日本軍は約10万人を派遣した。

 白崇西が指揮を執る桂林の戦い(1940年11月~1月)では、国民党軍は杜友明の第五軍と崑崙山道で大勝利を収めた。


1940年に行われた戦闘

 棗毅の戦い(5月1日~6月18日)日本軍は約12万人、中国側は54個師団約38万人を投入し、日本側の死傷者1万1000人、中国側の死傷者3万7000人となり、日本側が勝利して宜昌が陥落した。 最大の悲しみは、張子中将の殉職である。




1941年に行われた戦闘

 河南戦争(1月30日~3月1日)平漢鉄道開通のため河南南部を攻撃した。 日本軍は3個師団、5万人以上を投入し、李宗仁は8個軍を指揮して防衛にあたった。 この戦いで日本軍は9,000人以上の死傷者を出した。 結果は、中国側の勝利。

 上高地での戦い(3月14日〜4月9日)は、「抵抗戦争以来最もエキサイティングな戦い」として知られ、日本軍は2万5千人、中国軍は10万人の兵力を投入しました。 日本軍は15,000人、中国軍は20,000人の犠牲者を出した。 結果は、中国の勝利。

 蒋が「最も屈辱的と言った」忠烈山の戦い(5月)。 中国側の死傷者は約5万人、日本側の死傷者は3,000人以下であった。 結果は日本の勝利。

 第二次長沙の戦い(9月17日~10月9日)では、雪岳が中国軍10軍を率いて、阿南結城の日本軍12万と戦った。 日本側も航空機や軍艦を派遣して支援したが、日本側の死傷者5万人、中国側の死傷者1万8千人で、この戦いは中国側の勝利に終わった。




 第三次長沙の戦い(12月24日~42年1月15日)、阿南蕗は二度目の長沙攻略に失敗した後、三度目のカムバックし6万人以上を洞窟に送り込み、雪岳は「天炉の戦法」を使って阿南蕗を破り、今度は日本軍の犠牲者5万7千人を出して中国の勝利となった。 日本軍の降伏後、阿南は自決した。


1942年の戦い

 浙江関の戦い(5月~9月)日本軍は主に浙江関上空の飛行場を破壊し、日本軍の死傷者3万6千人、中国軍の死傷者7万人の被害を出した。 日本軍も最終目的を達成し、師団長の一人を戦死させた代償を払うことになった。


1943年に行われた戦闘

 中国西部の戦い(5月~6月)日本軍は長江を中心に攻め、3個師団と砲兵中隊を送り込んだ。 この戦いは中国の勝利となり、陳澄は日本軍の犠牲者約2万8千人を外地に訴えた。 彼自身の死傷者は1万人を超えていた。

 東洋のスターリングラード」と呼ばれる昌徳の戦い(11月2日〜12月20日)では、横山勇指揮下の日本軍10万人が湖南省昌徳に攻め込んだ。 この戦いは中国の勝利であり、それまで失っていた陣地を回復し、4万人以上の日本軍兵士を犠牲にした。




1944年に行われた戦闘

 渝中の戦い(4月17日~6月19日)日本軍は15万人以上の兵力を集め、大陸の通信路を開くために河南を攻撃した。 日本軍は4,000人の犠牲を出しながら、国民党を戦いに破った。

 日本軍が湖南の大部分を占領した衡陽の戦い(5月下旬〜9月上旬)では、日本軍28万人に対して国民党軍は16軍約38万人を投入した。 結果は日本の勝利。




 桂林の戦い(9月~12月)では、日本軍は衡陽を攻略し、さらに衛と越の軍を強化した結果、日本軍の勝利と20万平方キロメートル近い土地の喪失を招いた。 また、国軍の派閥間の対立も露呈した。


1945年に起こった戦い

 湘西の戦い(4月~6月)この戦いは、中国が日本に抵抗する正面側の最後の戦いで、日本軍は主に珠江の空軍基地をめぐって戦い、最終的に約3万5千人の死傷者を出して敗れた。 この戦いの2カ月後、日本軍は降伏した。


 以上の戦争で国民党軍は約322万人の戦死者を出し、日本軍は100万人以上の戦死者を出した。

 14年にわたる戦争で、中国の兵士と民間人は侵略者から国を守るために戦った。 歌える将軍や兵士、英雄的な息子や娘がたくさん死んだこともある。今、私たちが生きている平和な時代に感謝すべきだ。

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