日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 父が戦争で南京に行ったかもしれない 河北電子台ドキュメンタリー番組: 「追尋往事」(過去を尋ねる旅) が制作されるまで 野田契子 (岐阜県中津川市) 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月20日 |
出典:野田契子 河北電子台ドキュメンタリー番組: 「追尋往事」(過去を尋ねる旅)より ※注)野田契子さん主演の中国・河北電視台ドキュメンタリー雁組の 動画のURLは巻末にあります。 本文 学校教育の中で、日本の近代史を学ぶ機会がほとんどなかった私は、1970年後半から1980年代に出版された日本の戦争についての数々の書物から、特にアジアの国々に対する多くのおぞましい加害の事実を知ることとなりました。 幼いころから、父は中国に戦争に行ったと聞かされてはいたものの、両親はそのことについてはほとんど何も語らず、ただ「南京」というやわらかで歯切れのいい「言葉」のみが、私の脳裏の片隅になぜかぴたりと張り付いておりました。 長じて母亡き後、家族を東京に残し、岐阜県の山里にて父の面倒をみることになりましたが、父は戦争の話は決してしようとはせず、だからこそ私はなお一層父の戦争を知りたくてたまらなくなりました。父の言動から何かを隠しているという確信も、日に日に強くなっていきました。 そんな父が、怪我が元で長く入院することになり、私は毎日の父の世話から解放され、ある日どうしても手に入れたかった書物を買う目的で名古屋に向かったのです。 その電車の中で、つり革を持ち立っていた私の前の席に、中国人らしき青年が3人腰かけていました。青春切符で今日一日名古屋見物をしたいが、さて名古屋の名所・名物は何だろう?と隣の席の日本人に流ちょうな日本語で問いかけているのでした。 その日本人は、「僕は神戸人だからわからない」と。 おせっかいかもと思いながらも、そんな彼らにちょっと手助けがしたくなって、少し言葉を交わしたことが、私の「過去を尋ねる旅」の入り口になりました。 3人の中の一人、呉紅波君とはそれ以来文通が始まりました。あとで分かったことですが、彼らは信州大学の留学生でした。 私たちは長野市と中津川市をお互い行ったり来たりするほど親しくなっていきました。「まだはっきりしないけど、父が戦争で南京に行ったかもしれない」という話もして、「いつか、どの国よりまず中国を訪ねたい」という願望も伝えていました。 2年程の闘病の後父は他界し、1999年3月、一時帰国した紅波君を追いかけるように、私は初めての中国・北京を目指し中部空港を飛び立ったのでした。紅波君に「一か所でいいから、中国の戦争犠牲者の方々にお詫びの合掌ができるところへ案内してくれること」を約束してもらって。 北京空港で私を迎えてくれるのは紅波君だと思っていた私は、思わぬ人たちの出迎えにびっくり!紅波君のお姉さん(河北テレビ記者)を含む河北テレビのスタッフたち4人も一緒でした。 このテレビ局の人たちと出会った瞬間から、私の「過去を尋ねる旅」が歩き始めたのです。 当時、中国へ団体旅行する日本人の多くは観光目的で、カメラをぶら下げ、何でもかんでも「安い、安い」と言って万札をひらつかせ買いあさっていることは国内でもニュースになったりしておりました。 そんな中、戦争を直接知らない日本人が、過去の戦争の加害の事実に贖罪の思いを抱き旅をしたいなどとは、いったいどういうことなのか?と、私の訪中の目的を紅波君から聞いたテレビ局スタッフは信じられない思いで私を待っていたのです。 それから8日間の旅の日程のほとんどを、私は北京の中国人民抗日戦争記念館訪問を皮切りに、河北省の日本軍隊がもたらした戦争の傷跡の何か所かに案内されました。 家は焼かれ、強奪、強姦の後、村民はほとんどが殺されたという残虐な事実を、それが行われたその場所で、生き証人の方たちから詳しく聞かされました。 帰国してからの私は、何よりもまず、父の戦争について詳しく知らなければと強く思うようになり、故郷の戦争記念館、戦友の方、当時存命だった父の兄弟を次々訪ね、父が南京攻略の兵士の一人であった事実にたどり着いたのです。 このことから毎年中国を訪ねることになったのですが、とうとう念願の南京にも行くことができ、父の写真と共に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館を胸がつぶれる思いで見学させていただき、その時の様子も河北テレビは15時間もかけて省都である石家荘からやってきて、撮影を続けました。 その翌々年、大きなカメラを肩に担いだカメラマンと記者である紅波君のお姉さんが訪日、中津川市内にて私が主催する中国現代画展(ささやかながら戦争の傷跡の小学校建設や、教材のための寄付を目的とした)を撮影して帰国しました。 約4年間撮りためた膨大な映像記録から何本か番組を制作したそうですが、その中の一本の30分番組が、2003年、CCTVが募集した中国全土のテレビドキュメンタリー番組に応募され、第一位となったということを、私は石家荘からの電話で知りました。 私の長年の念願であった中国訪問が、思いもかけない出会いにより叶い、こうして映像になり、NHK岐阜支局ディレクターとアナウンサーによる翻訳の手配、映像への日本語字幕付け(すべてボランティア)、すでに中国河北テレビを退職された元ディレクター・魏恩祥さんがYouTubeUPを許可してくださったこと、また、YouTubeUPの労を執ってくださった青山貞一先生、これらすべての方々に心よりお礼申し上げたいと思います。 ◆河北電子台ドキュメンタリー番組: 「追尋往事」(過去を尋ねる旅) 野田契子 |