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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

周恩来総理が、ソ連が要求した
旅順の日本式望楼の取り壊し
を厳格に拒否した理由
 
日本在旅顺建的百年表忠塔,
苏联要求拆除,为何被周总理严词拒绝

出典:懂点历史赵富贵 2021年12月4日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月30日
 

旅順にある日本軍が建てた忠誠表塔((「表忠塔」とも。中国では白玉山塔)


本文

 日本が無条件降伏した後、中国本土の日本軍は速やかに撤退したが、撤退後、日本人が戦果を誇示するために使用した多くの建物が残された。

 宗教的な信仰や習慣からか、そのほとんどが仏塔(仏塔)であり、日本軍は中国大陸に仏塔に関する建物を多数残している。


旅順にある日本軍が建てた忠誠表塔(「表忠塔」とも。中国では白玉山塔)

 しかし、これらのパゴダの多くは、日本軍が大陸から撤退した後、中国人に破壊されてしまい、ほとんど残っていない。そんな中、破壊されないばかりか、完全な状態で保存されているパゴダがある。

 このパゴダが建てられた背景には、中国の血塗られた歴史が埋もれているが、他の国とも無関係ではないだろう。

 百数十年前、それがどんな国であれ、一つのことを認めざるを得なかった。それは、八紘一宇の連合軍による中国侵略に見られるように、獅子である中国が傷ついて眠っている間、彼らはみなそれを狙い、むなしくそれを引き裂き、共有しようとすることであった。

  ※注)八紘一宇(はっこういちう)
   八紘一宇は「天下を一つの家のようにすること」、
   「全世界を一つの家にすること」を意味する語句
   であり、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」
   等ともいう。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を
   掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの
   家のようにすると解釈したもの。

   出典:Wikipedia

 しかし、今日、私たちが話しているのは、8大連合国のうちの2つの国、1つは後に我々の友人(注:ソ連、ロシア)となり、もう1つは我々の最も恨めしい敵となった国(注:日本)についてである。

 そして、かつて中国の領土をめぐって激しい争いもしたこの二国は、明らかに中国の領土であったのに、清国がその領土を手放して、二国が戦争に突入してしまった。

 そして、中国人は、無力なうめき声と泣き声だけで戦争に臨んだ。

 戦後、日本人はここに日本人の死者の魂を呼び起こすための塔を建て、「表忠塔」と名付けた。


「表忠塔」

 しかし、塔がそのまま保存されていたため、ロシアは激怒し、中国に取り壊しの交渉を繰り返したが、中国にはね返された。

 中国の流血と恥の歴史を象徴するこの仏塔を、中国はなぜ取り壊さずに残したのか。 この塔の解体を、我々よりもロシアが熱望した理由は何だったのだろうか。

 この塔と日本、ロシアとのつながりは、中国の侵略の歴史を表しているだけでなく、100年前の旅順での日露戦争という残酷な戦争も関わっている。

 この戦争は日清戦争と同じくらい、いやそれ以上に残酷なものだったが、現在では日清戦争はよく取り上げられるが、旅順大虐殺は置き去りにされている。

 現実があまりにも過酷なためか、人々は無意識のうちにその出来事を避けてしまう。一方、戦争は日本とロシアという2つの国の確執から始まった。

 この事件の発端は、明治維新後の日本にある。

 日本の急速な発展後、彼らは日本という小さな島に満足することなく、かつて彼らが崇拝していた国、中国をその側に攻撃し始めた。当時は清国が統治しており、清国政府の腐敗により、中国の発展は西洋や日本に大きく遅れをとっていたのである。

 日本の野望は大きくなり、次第に中国侵略を中心とした「本土政策」を展開し、台湾から徐々に本土を腐敗させ、最終的には中国を滅ぼすという野望を達成しようとしたが、最終目標はアジアの征服であった。

 1871年、中国と日本は日中友好条約を結んだ。その第一条は、両国に属する土地に侵入してはならない...というものであった。

 しかし、日本は最初からこの条約を守るつもりはなかった。この条約は、力によって守られたものではなく、弱い側に警戒心を抱かせるためだけに結ばれたものだった。

 当時の清国政府は、条約締結後も、改革を展開しようとは微塵もせず、確かに春の夢を見続けていたことは間違いなかった。

 そして、日本は1874年に台湾、1876年に朝鮮を侵略する計画を順調に進め、清国の無策ぶりを見て、次第に東の獅子が病んで立ち行かなくなったと判断し、さらなる中国侵略のために、日清戦争という有名な戦いに踏み切ったのであった。



 その結果、清国は敗れ、その後1895年に日本は中国の清国政府との間で下関条約を締結させたが、この条約こそが、その後の日露紛争の原因となった。

  ※注)下関条約または日清講和条約
   1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に日本
   と中国の間に締結された日清戦争(1894年-1895年)の
   講和条約。山口県下関市の料亭春帆楼での講和会議を
   経て締結された。調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸
   奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方である。
   出典:Wikipedia


 この条約はロシアの利益を侵害するものではなかったのに、なぜロシアは下関条約の後、すぐに中国に駆けつけ、日本と死闘を繰り広げたのだろうか。


日本がロシアの口から食糧を奪っていったため、ロシアが日本と戦った旅順の戦い

 ロシアが日本と敵対していたのは、ロシアが長い間中国の土地を欲しがっていたからという単純な理由だが、下関条約が結ばれる1年前の1894年、日本はロシアが将来の領土の一つと見ていた旅順を早くも奪ってしまったのだ。

 ロシアにとっては、日本に食べ物を汚されたようなものであり、それ以来、ロシアは密かに日本を恨んでいる。

 明らかに、どちらの側も侵略された側として、弱小国家に外交は通用しないことをすでに知っていた中国を考慮に入れていなかったのである。

 日本第二軍が、すでに占領していた大連湾の警備に数人の部隊を残し、その後、大連市旅順に進出して占領したのは1894年11月17日のことであった。

 この時、旅順には清国政府の2個大隊、計4100人余りが駐留していただけで、李鴻章は11月初めにすでに3000人を旅順に送り、その後4000人を追加し、さらに他の場所の敗戦から逃れた残党も加えても、計14700人しかいなかったのである。

 しかし、それぞれ指導者を持つ清国軍は、日本軍が攻めてきた時には連絡を取り合っていなかった。予想通り、旅順半島の戦略拠点は一日ですべて日本軍に奪われ、清国軍は2000人以上の兵を失い、日本軍はわずか280人の戦死者を出しただけだった。

 清国が敗れ、日本軍が旅順を占領した直後、世界に衝撃を与えた悲劇が起きた。

 日本軍が旅順を占領してからの3泊4日の間に、2万人もの人々が日本軍によって残酷に殺されたのである。

 旅順の街は、日本兵が旅順の人々を追いかけては殺し、通りは手足と血にまみれ、路地には殺された人々の死体がうずたかく積まれていた。

 刀と銃で武装した日本兵は、旅順の人々の家に押し入り、大きな穴に追い込み、生きたまま土に埋めた。

 この地獄のような光景は、イギリス人のアランが『転がる竜の旗の下(Beneath the Rolling Dragon Flag)』という本に記録しているが、この記録では、旅順の虐殺の残酷さを伝えるには、ほど遠い。

 1895年に清国と日本の間で結ばれた下関条約には、旅順を含む遼東半島を日本に割譲する条項が含まれていた。


下関条約会議

しものせきじょうやく
(下関条約)

 しかし、ロシアも旅順に目をつけており、ロシアは旅順の獲得に乗り出し、清国政府に金を出させ、日本から遼東半島を償還させたのである。

 その年3月、ロシアは、清国が遼東半島を取り返すのを助けるという口実で、清国政府に旅順条約を締結するよう強要した。

  ※注)旅順・大連租借に関する露清条約
   1898年3月27日にロシア帝国と大清帝国の間で結ばれた
   遼東半島先端部の旅順港・大連湾の租借に関する条約。


 7年後、八カ国同盟は、皇室の甘えで国庫の金がすべて横領されたり浪費されたりしているときに、外国の銃や大砲で武装して北京に侵入し、肉親で防衛を形成した清国の兵士に発砲した。

 その結果、清軍の多くは、まだ剣や尖兵を使用していたが、熱兵器の前では少しも有効でない冷兵器であった。

 一人ずつ襲いかかり、血肉で敵を食い止めるしかないのだ。

 後日、八紘一宇の中国侵略に参加した退役軍人が、「もしこの清国兵が非武装でなかったら、その猛々しさと大胆不敵さで無敵だっただろう」と言ったという。

 しかし、残念ながら、より勇敢な兵士たちは、あまりに腐敗した政府にこてんぱんにやられてしまった。

 清朝は再びこの侵略者(日本)に頭を下げ、数え切れないほどの条約を結んで国を辱め、中国を屠殺用の食卓の魚に変えてしまったのである。

 しかし、実際には、日本は土地としての旅順を手放すわけにはいかず、1902年からロシアに東部州からの撤退を求める交渉を始めたが、口の中に入った肉は吐き出すことは不可能であった。

 1904年、旅順をめぐって日露の大戦争(注:これが日露戦争)が中国領で勃発した。

 1904年2月8日、日本海軍は中国の旅順口に駐留していたロシア艦隊を急襲した。 当時、清国政府は巻き込まれることを恐れて、開戦前に中立を明らかにし、旅順は他国に譲渡していた。

 しかし、この時は日本もロシアもこの弱虫政府に構っている暇はなく、中国の土地で1年以上戦い続け、旅順の人々は再び戦争(注:今度は日露戦争)の犠牲となったのである。

 この旅順の戦いは、1905年9月5日に日本の勝利で幕を閉じ、旅順の人々は地獄から地獄へと移ったのである。


中国の勝利の後、ソ連は我が国(注:中国)に干渉しようとし、恥丘の取り壊しを要求してきた

 「なぜロシアの敗北を喜ぶのか? 日本の勝利にどんな喜びがあるのか。 我が党はいつになったら目を覚ますのか?」

 この歌は、日露の中国侵略の際に流行した歌で、日本とロシアに相次いで祖国を侵略された愛国者たちの悲しみと恥辱が歌われている。

 日本がロシアに勝利し、旅順を占領した後、日本の植民地当局は、日露の主戦場跡に神社や仏塔を建て、「戦功」を誇示するようになった。

 日本の植民地当局による中国侵略の初期の事例として、日露戦争で亡くなった20万人以上の日本兵を追悼するために日本軍が建てたのが 「表忠塔である。


白玉山の塔の記念碑部分

 しかし、皮肉なことに、この塔(注:表忠塔、中国名、白玉山の塔)は、日本の植民地行政によって強制的に徴用された旅順の人々が、戦死して名誉を得たと思っていた日本兵が、他人の家を侵略しようとして死んだとは考えずに、記念塔を建てたのである。

 彼らは恥じるどころか、日本やロシアの中国侵略の証拠となるこの場所を自分たちの聖地とし、40年以上にわたって繁栄を享受してきたことに誇りを感じていた。

 そして、1945年、中国は侵略者を追い出し、主権を守り抜いたが、この旅順の塔は残された。

 かつてのロシアは、今や同盟国であるソ連に姿を変え、目的はどうであれ、多くの援助をしてくれたが、これは否定できない。

 1945年8月15日、日本は降伏し、その7日後にソ連赤軍が旅順に進駐した。

 塔を見たソ連は、これがソ連の前身であるロシアと日本の敗北の恥を表していると考え、解体してモスクワに運び、戦勝記念に再建しようとしたが、中国の建築家は、塔が市の中心部の白玉山にあり、解体すると周辺住民に影響を与え危険な状態になるかもしれないという理由で全面的に拒否されたという。

 その理由は、この塔が街の中心部にある白玉の丘にあり、解体すると周辺住民の身の安全に影響を与える恐れがあるからというものであった。

 この時、中国は勝利を収めたばかりで、自国民に危害を加えることを断固として許さない、それはもちろん屈しない、自己主張しないことであった。

 一方、ソ連は中国の激しい反応を見て、同盟国として友好を壊さないよう、この問題を棚上げにした。

 しかし、ソ連の塔に対する執着は深く、1953年にフルシチョフが訪中し、中国の旅順のことももちろん知っていた。ただ、ロシアの敗戦を象徴する「恥の塔」が旅順にそのまま立っていることを知ったとき、彼はやや苛立った。

 結局、塔は中国侵略におけるロシアの罪の証拠であり、ロシアの敗北の象徴だった。彼は中国に取り壊しを強く要求して、望んだ 旅順にロシア戦没者慰霊塔を建立しようとした。

 しかし、周恩来周総理は「中国の領土は、いかなる侵略者の記念碑にもならない」と厳しく断りました。

 にもかかわらずし、フルシチョフは、なぜ塔を残しておく必要があるのか、それは旅順での日本軍虐殺の証拠ではないのか、と問うた。

 周総理は、「我々が受けた不名誉と侵略を忘れてはいけないと戒めるためだ。この残酷な歴史を忘れないように、繰り返さないようにしなければならない!」と答えた。

 そのためか、この塔は中国の激動の時代を無傷で乗り越えてきた。


周恩来総理とフルシチョフ

 今、中国はあらゆる面で成長し、日本を凌駕している。

 日本は次第に自分たちの犯罪の証拠を直視することを恐れ、「表忠塔」を破壊しようとし、取り壊す代わりに旅順にホテルを建てると申し出たが、中国は拒否している。

 1985年、日露戦争と帝国主義による中国侵略の証拠として市指定文化財に登録され、山号を白玉塔と改称した。

 白玉塔は現在、萬忠の墓があり、旅順の虐殺の犠牲者の一部が埋葬されている。

 日本が中国を侵略した証拠であると同時に、かつてロシアが中国を侵略した証拠でもあるこの仏塔を、中国が取り壊すことは不可能である。

 先祖の骨を踏んで平和で安定した生活が築かれたことをすべての人が実感できるように、後進が敗北につながることを未来の子や孫の世代が痛感できるように、この証拠を永遠に保存しなければならない。


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