和歌山カレー事件の上告審の弁論が二月二四日に開かれる。一貫して無実を主張する林眞須美被告人が状況証拠のみ、動機も未解明で有罪・死刑とされた一、二審の審理に問題はなかったのか?弁護人と法学者が問題点を明らかにした。
【対談者プロフィール】
白取祐司(しらとり ゆうじ)
北海道大学大学院法学研究科教授。著書に『刑事訴訟法 第5版』(日本評論社)など。
小田幸児(おだ こうじ)
弁護士。大阪弁護士会所属。林眞須美被告人の一審、二審、上告審弁護人。
高見秀一(たかみ しゅういち)
弁護士。大阪弁護士会所属。林眞須美被告人の一審、二審、上告審弁護人。
──自白などの直接証拠がないこの事件の裁判では、林眞須美さんが保険金目的で夫や知人にヒ素や睡眠薬を飲ませていたとされる二三件の別件の疑惑が「類似事実」とされ、有罪の状況証拠にされています。この点に、白取教授は一審判決が出た時に疑問を呈していましたね(注1)。
類似事実による有罪立証の危うさ
白取 類似事実による犯人性の立証は危険なので、原則許されないんです。検察官が類似事実を法廷に持ち出して被告人はこんなこともやっていると主張するだけで、被告人はいかがわしいという予断を裁判官に与えられなくもないですから。
何より本件の場合、類似事実とされた二三件が本当に類似事実と言えるのか否かが問題です。というのも、類似事実とされた二三件は保険金目的の利欲犯です。しかも仮に被告人が人にヒ素や睡眠薬を飲ませていたのが事実でも、人の命を奪わないように慎重に、計画的に犯行に及んでいたことになると思います(注2)。
一方、カレー事件は粗雑で、場当たり的な犯罪です。動機も誰を狙ったかもわからない。類似事実とされた二三件とカレー事件は、むしろタイプが正反対の犯罪だと思います。
小田 類似事実とされた二三件とカレー事件の類似点は、「どっちも薬物が使われているじゃないか」ということだけですね。しかも二三件中一二件は凶器とされた薬物が睡眠薬で、カレー事件とは薬物も違います。
白取 類事事実とされる二三件の大半は、ヒ素や睡眠薬を飲まされたとされた人たちも保険金詐欺の共犯(注3)で、被害者は保険会社でしょう。そこも、カレー事件とは違う。それと、二三件中一九件は起訴されてないんですね。仮にこの一九件が実は証拠が弱くて起訴できなかったのに、検察官が類似事実として法廷
に持ち出すだけで「意味」を持たせようとしたのなら非常に問題です。
高見 起訴されてない類似事実については、それ自体の立証が許されないとかなり異議を出したんです。起訴事実なら、検察官は「被告人はいつ、どこで、どうやったか」を明確に立証しなければならない。しかし、起訴されてないと、検察の主張は「やったのはいつごろ」という曖昧な感じになり、弁護人は何を防御していいかわかりませんから。
実際、起訴されていない類似事実の中には、被害者とされた人の「被告人の家で飲み物を飲んだら、眠くなって事故をしました」程度の証言だけで、被告人がその人に睡眠薬を飲ませたと認定されたようなものがある。これは仮に起訴されていたら、睡眠薬の成分まで検察は立証しないと、事実と認定されないですよ。
白取 起訴されていない類似事実を検察官はほとんど、被害者とされた人たちの供述だけで立証していますよね。物証の裏づけがないです。
小田 だから、検察官は起訴できなかったのでしょうね。
黙秘を不利に扱った高裁
──類似事実とされた二三件中六件が一、二審で林眞須美さんの関与や犯行が認められています。しかし、この六件で被害者とされた二人のうち、夫の健治さんは大阪高裁で「ヒ素は保険金目的で自分で飲んでいた」と証言していますね(注4)。
高見 二審判決は健治さんの証言を「妻をかばう口裏合わせ」だとして退けましたが、その上で根拠としたのは、眞須美さんの証言が載った新聞や公判調書を弁護人が滋賀刑務所に当時服役中(注5)の健治さんに差し入れていたことだけだった。結論が先に決まっていたように感じました。
小田 一審で黙秘した眞須美さんの二審での証言が一審判決の弱いところをついていたので、大阪高裁は「後出しジャンケンで信用できない」と決めつけていた。だから、眞須美さんの証言に内容が合致した健治さんの証言も退けたんです。高裁が眞須美さんの証言をもっとマトモに検討していれば、健治さんの証言に関する認定も悩むところだったと思う。
健治さんの証言は非常にリアルで、本当にやった人でないと話せない内容でしたからね。「ヒ素は、耳掻き一杯の量をこうやって飲むんだ」とか、「ヒ素を飲んでしばらくすると、腸音がグルグルと鳴って、きた、きた≠ニ思う」とか。
白取 私も公判記録で健治さんの証言を読みましたが、非常に生々しかったですね。
小田 それと、二審判決は「誠実に事実を語ったことなど一度もなかったはずの被告人が、突然真相を吐露し始めたなどとは到底考えられない」と言っていますが、これは実質的に黙秘権侵害です。一審で黙秘したことを不利に扱ったわけだから。
高見 裁判官が判決のその部分を読み上げた時は、驚きました。被告人が今まで本当のことを言ってないという証拠なんて、どこにもないのに。
白取 二審判決のその部分は、問題がないかといえば、おおいに問題ですね。黙秘したことを不利にとるのは、自由心証主義でも許されない。
小田 黙秘権に関する問題は一審にもあった。黙秘権を行使した眞須美さんへの検察官の尋問を裁判所が許したことです。何度も異議を出したが、尋問は二時間くらい続き、二〇〇問くらい尋問されてしまった。
高見 眞須美さんは検察官の尋問に何も答えませんでしたが、尋問に答えないだけで傍聴人や裁判官は「やってるから、答えないんじゃないか」という心証にいく。黙秘権の意義に照らしても、一審で検察官の被告人尋問が許されたことはおかしい。
白取 取り調べには受忍義務があるとされていますが、被告人が公判廷で証人尋問を受け続けなければいけない義務はないんです。結局、あのような尋問によって被告人は無意味に苦痛を与えられました。一審の被告人質問は、法律的にも説明のつかない、まったく理不尽なものでしたね。
科学鑑定の鑑定人に問題
鑑定資料にも不自然さ
──科学鑑定により「林家などから発見されたヒ素」と 「カレーに混入されたヒ素」を同一だとした認定も有罪の決め手になっています。しかし、捜査段階で鑑定にあたった東京理科大学の中井泉教授が起訴前に鑑定結果を公表し、「悪事を裁くために鑑定した」旨を公言したことなどから、一、二審では鑑定人の中立性の有無が問題になっていますね。
小田 中井さんを警察に紹介した山内博さんという鑑定人(注6)も、テレビ番組でヒ素を使って実験をして見せたりしていた。鑑定は公平だったのか?という疑問は拭えない。実際、中井さんは鑑定の途中で警察官に追加でヒ素を持ってこさせるなどし、有罪の証拠が厚くなるようにしていましたし。
白取 法律家がよく言う理屈に、「裁判は公正ではないといけないのはもちろんだが、公正らしくないといけない」というのがある。そうでないと国民や被告人が納得しないからです。本件の二人の鑑定人のように、著しく公正を疑わせるような例はかつてなかったし、裁判所には「許せる限界を超えている」という判断をしてほしかったですね。
高見 鑑定嘱託の経緯にも問題は多かったです。例えば警察は、中井さんに口頭で鑑定を依頼しただけで鑑定資料のヒ素を届け、後日に鑑定嘱託書をつくっていた。つまり文書で鑑定事項を明確にせず、中井さんに自由裁量で鑑定をやらせていた。
白取 鑑定嘱託の依頼を文書でしないといけない決まりはないのですが、口頭ですると、鑑定嘱託の趣旨から外れた鑑定がなされたかどうかのチェックができない。極端な言い方をすると、警察が「被告人に何か不利な結果をつくってくれ」と鑑定人に頼み、出てきた鑑定結果に合わせて鑑定嘱託書を書くこともできますから。上告趣意書では、鑑定資料の捏造説も弁護人は主張していますね。
小田 たとえば、林家の台所の流し台の下から見つかったとされる「ヒ素の付着したポリ容器」は、林家の人は誰も見覚えがないんです。しかも、九〇人くらいの捜査員による家宅捜索で最初の二日は見つからず、三日目に発見されたことなどが不自然じゃないかと主張しています。
白取 それは不自然ですね。
住民たちの証言は歪められた可能性も
──犯人性の立証には、カレーが提供された夏祭りを開催した現地の住民たちの証言も使われています。例えば、現地住民の中に犯人がいることを前提とし、住民らの証言による消去法で犯行機会が林眞須美さんにしかなかったとした立証・認定の手法に問題はなかったでしょうか?
白取 「この中に犯人がいる」というと推理小説みたいですが、消去法の立証自体は悪くはないです。問題は「この中に犯人がいる」という前提が本当に成立するのか否かです。
小田 夏祭りは、現地住民以外の人も来てますからね。それと、裁判の認定では、現地住民たちの証言によって犯行時間帯が一二時二〇分頃から一三時頃とされ、その間にカレー鍋の周りで一人になれたのは眞須美さんだけだとされたが、犯行時間帯の絞り込みが正しいかも疑問です。
高見 初期報道では、裁判の認定ではすでにカレーにヒ素が混入されていた一四時頃にカレーを味見した人もいたことになっていたんです。それに犯行時間帯とされた以外の時間帯なら、眞須美さん以外にも鍋の周りで一人になった人はいるんです。
小田 現地住民の証言に関しては、捜査にも問題がありました。警察が実況見分で住民たちを一同に集め、事件当日の状況を再現させていたことです。それだけでも住民たちの記憶が変容する恐れは大きいのに、その際に警察は時系列表をつくり、各住民の証言が相互に矛盾しないようにまとめていた。そんな捜査をしていたというだけで、本来なら住民たちの証言に証拠能力はないですよ。
白取 「小さな集落の中の誰かが犯人」という状況でそんな捜査をしたら、住民の記憶を変容させる効果は大きかったのでは、とも思いますね。
高見 そんな捜査の問題もあったから二審では、捜査員たちが捜査で使った聞き取り書きの開示を求めたんです。そこには、捜査の影響を受ける前の住民たちの初期供述が出ているはずだから。しかし、証拠開示命令の申し立ては簡単に蹴られてしまった。大阪高裁は、一審の有罪判決が崩れるような余計なものは見たくないという姿勢がアリアリでした。
──林眞須美さんがカレー鍋の周りでウロウロするなど、不審な行動を目撃したとする女子高生の証言も有力な有罪証拠とされていますが?
高見 年齢的に幼かったこともあると思いますが、彼女は証言中に前につっぷしたりとか、マイクをいじったりとか、法廷では途中から著しく集中力をなくしていましたね。
白取 一般論ですが、そういう態度の証人の証言は、一般的には証明力が低いといっても良いですよね。証言を嫌がるのは、調書にとられた供述内容に十分得心していないからかもしれませんし。
高見 それに、彼女の供述はすごく変遷しているんですね。たとえば、捜査段階で最初は目撃場所を「自宅の一階」と言っていたのに、途中から「自宅の二階」になったりとか。
白取 彼女の証言については、その点が一番気になりますね。見たものや見た時間が変遷するならまだいいのですが、見た場所が一階から二階へと変わるというのは、かなり不自然な印象を受けます。
アナザーストーリーも上告審弁論では主張
──動機を検察は「他の住民に疎外されて激高した」などと主張しましたが、退けられました。「動機未解明」のままに有罪・死刑という判決は、問題ではないでしょうか?
白取 動機未解明で有罪にすること自体はありえますが、動機というのは非常に有力な状況証拠です。動機がないなら証拠が一部欠けているということなので、他の証拠はそのぶんしっかりしてないといけません。
しかし、他の証拠をみても、自白はなく、鑑定に問題はあり、原則禁じられた類似事実による立証をやっている。本件の場合は動機がないなら、全体的な証拠構造が問題です。
小田 類似事実で犯人性を立証するなら、類似事実とカレー事件は動機も似てないといけないはずだが、カレー事件のほうは動機もわかってない。そう考えると、証拠の脆弱さを類似事実で埋め切れてないですね。
白取 人は普通、動機がないと人を殺しません。しかもこの事件の場合、犯人が誰を殺そうとしたのかもわからない。動機がないと真相がわからない事案だけに、余計に、動機なしでいいのかな、と思いますね。
──支障のない範囲で構いませんが、二月二四日の弁論で、弁護人はどんな主張をするのでしょうか?
小田 まず、被告人が犯人ではなければ誰が……というアナザーストーリーとヒ素の希少性に関する主張です。林さんはヒ素を敷地外のガレージに置いていて、そこはいつでも誰でも入れたということです。なので、真犯人がそのヒ素をカレー鍋に入れた可能性もないとは言えない。実際、現場の周辺にそれらしき人もいる。
高見 それに、林家にあったヒ素は、中国から輸入されたドラム缶六〇缶のヒ素のうちの一缶とされていますが、残り五九缶の行方は全然わかってない。五九缶のどれかが事件当時に和歌山にあった可能性もないとは言えません。
あとは、林健治さんが被害者と認定されている殺人未遂事件ですが、「ヒ素は自分で飲んでいた」という健治さんの証言は嘘で言える内容ではない。それに何度もヒ素中毒に陥っていたこと自体(注7)がヒ素は自分で飲み、自分の症状の原因を知っていたからだと主張します。
――ありがとうございました。二月二四日の最高裁が注目されます。
(注1)『法律時報』03年3月号に寄稿した論稿「和歌山毒入りカレー事件第一審判決──事実認定上の論点についての絞殺」にて。
(注2)類似事実とされた23件のうち、被害者が死亡したとされた事案は1件だけ。この件は眞須美被告人の関与が認定されていない。
(注3)類似事実とされた23件で被害者とされた男性6人のうち、夫の健治さんら4人は、眞須美被告人とは保険金詐欺の共犯関係だった。
(注4)健治さんと共に被害者と認定されている知人男性I氏についても、「ヒ素は自分で飲んでいた」旨を林夫婦は二審で証言している。
(注5)健治さんは、眞須美被告人と共謀の上で3件の保険金詐欺をはたらいたとして懲役6年の実刑判決を受け、服役していた。
(注6)北里大学医療衛生学部教授。カレー事件発生当時は聖マリアンナ医科大学予防医学教室助教授。ヒ素の生態影響に関しては第一線の研究者というフレコミで捜査協力した。
(注7)類似事実とされた23件のうち、健治さんが被害者とされた事案は4件あった。うち1件だけが眞須美被告人の犯行と認定されている。
【和歌山カレー事件概要】
1998年7月25日に和歌山市園部で催された夏祭りで、ヒ素が混入されたカレーを食べた67人が死傷。同年10月に保険金詐欺などの容疑で逮捕された林眞須美被告人は2度の再逮捕を経て、同年12月にカレー事件の容疑で逮捕。02年12月に一審、05年6月に二審で死刑判決を言い渡されたが、カレー事件については一貫して否認し、上告している。
まとめ/片岡健(フリーランス)
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