日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 下関条約締結時、日本人は 李鴻章に危害を加える ためにフグを与えた? 签《马关条约》时,日本人给李鸿章 吃河豚鱼,是为了害他? 来源: 用车生活百科 2021年12月26日 中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年2月22日 |
本文 1895年4月17日、馬関(現下関)の春帆荘で、清国代表の李鴻章と日本代表の伊藤博文が向かい合って座っていると、春帆荘の仲間が魚を一杯出して、李鴻章の前に置いてくれた。 ※注)李鴻章(りこうしょう、1823〜1901)とは 李鴻章は中国、清末の政治家。安徽あんき省合肥の人。 字あざなは少荃しょうせん、号は儀叟。諡おくりなは文忠。 曽国藩のもとで淮軍わいぐんを組織して太平天国の乱を 鎮圧。以後40年余にわたって両江総督・直隷総督・北洋 大臣・内閣大学士を歴任、日清戦争(下関条約)・義和団 事件など重要な外交案件にかかわったほか、洋務運動 の中心人物として清国の近代化に尽力した。 Wikipedia 「私の故郷山口県の特製フグ鍋です、ご賞味ください。」 伊藤博文が李鴻章に言った。 「閣下、フグには毒があります」 李鴻章の周りの係員は緊張した。 李鴻章は魚の入ったボウルを見て、首をかしげた・・・・・・。 伊藤博文はなぜ李鴻章にフグを食べさせようと誘ったのか、それは本当に李鴻章を傷つけるためだったのだろうか。 伊藤博文は嘘はついていない。フグは確かに山口県の馬関(現下関)の名物だったが、話の半分しか言っていないし、内臓などの毒のある部分を食べると確実に死ぬので、当時は食べる人が少なかったのである。 歴史的に見ても、当時下関では200年以上もふぐを食べる人がいなかった。 日本で最初にふぐの食用を禁止したのは豊臣秀吉である。秀吉は16世紀後半に2度にわたって朝鮮を侵略し、全国から武士を集めて戦わせ、その多くは船で下関を経由して朝鮮半島に渡っている。 武士たちはフグに毒があることを知らなかったので、下関に集合したとき、誤って死んでしまう者もいた。 そこで、ふぐの食用禁止を命じたのである。 明治維新後、古い幕府の決まり事の多くが破棄され、多くの人が再びふぐを食べてみるようになったが、ふぐの扱いに長けた料理人が少なすぎたため、やはり食べた人の多くが中毒死してしまったという。 これを受けて、明治政府もふぐの食用禁止を命じた。 明治20年末、下関に到着した伊藤博文は、以前から知っていた春帆荘に泊まり、古里の料理を食べることができた。 当時、春帆荘の女主人は、旧友の伊藤博文に自慢の海鮮料理でもてなそうとしたが、偶然にも嵐の時は漁船が出ておらず、新鮮な食材は手に入らなかった。 伊藤を空腹にさせるわけにはいかないので、何度か考えた末に、女将はわざわざまだ禁断のふぐ料理を出したのである。 驚いたことに、伊藤博文は数さじ味見をして、「こんなおいしい魚を禁止する理由はない」と感心してしまったのだ。 翌年、山口県のふぐが解禁され、以来、春帆楼はふぐ料理ナンバーワンの店として知られるようになった。 実は、幕末の頃、表向きはふぐ禁止令が出ていたが、伊藤博文は何度も食べて、そのおいしさに飽き足らなかったという。 春帆荘で食べたときは、ふぐを解禁するために、わざと初めて食べるふりをしたそうです。 ふぐ料理の公認店としてナンバーワンの栄誉に輝き、現在も高級カツレツ店として活躍している。 しかし、ふぐは扱いが複雑なため、高級食材でありながら食べられる人が少なく、まったく普及しなかった。 1895年3月、清国と日本の講和会議開催が決定すると、日本側代表の伊藤博文は直ちに春帆荘を交渉の場に指定し、外務大臣陸奥宗光とともに日本全権大使として会議に出席した。 当時53歳だった伊藤は、72歳の清国全権大使・李鴻章(りこうしょう)と交渉していた。 伊藤博文が李鴻章にフグを食べさせたのは、李鴻章が事故に遭えば、日本に何らかの不利益をもたらすからであり、毒殺を目的としたものではない。 まず、日清戦争は、日本が勝ったが、強さは十分ではなかったし、その後完全に保持することはできないまま戦ったが、北東はもちろんのこと、ロシア皇帝の目があるので、日本のために賠償金を得るために下関条約に急いで最も有利な要件下で署名した結果である。 第二に、伊藤博文は、自分より19歳も年上で、しかも自国の政府の行政官である李鴻章をより尊敬しており、李が敗者として背負っている恥も知っていた。 以上の2点から、伊藤博文が李鴻章にフグを食べさせたのは、毒殺ではなく、好意を示すためであり、彼からすれば、相手にフグを食べさせることは、「私の故郷を味わうと同時に、私の好物を食べてください、だから早くサインを!」という意味であった。 李鴻章がふぐを食べたとき、新鮮さではなく苦味を味わったのは、条約に調印したことで、少なくとも50年間は両国の強弱の状態が続くと知ったからだ。 そんな思いで、「臨終の詩」の最後の一行を悲しげに書いた。「海外の埃っぽい雰囲気はまだ鎮まらない。」 中国の子孫には、かつての恥を払拭し、再び立ち上がってほしいと願っている、と。 特記事項:上記のコンテンツ(画像や動画がある場合はそれも含む)は、情報蓄積サービスのみを提供するセルフパブリッシングプラットフォーム「NetEase」のユーザーによってアップロードされ公開されたものです。 お知らせ:上記のコンテンツ(写真や動画がある場合はそれも含む)は、ソーシャルメディアであるNetEase Haoのユーザーによってアップロード、投稿されたものであり は、情報保存サービスのみを提供する。 エントランスへはここをクリック |