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フョードル・ルキヤノフ:


自由主義体制の秩序は終焉を迎え、

予期せぬ問題を生み出した

国際政治は国内の弱さを隠す

ための芝居と化した


Fyodor Lukyanov: The liberal order is over, and it’s created

this unexpected problemInternational politics has become theater

to mask domestic weakness


RT War in Ukraine  #8519 30 September 2025

英語翻訳 池田こみち 環境保全研究所顧問

 独立系メディア E-wave Tokyo 2025年9月26日



地球儀のイメージ写真 © Getty Images / Ryan McVay

2025年9月30日 13:48 世界ニュース

寄稿者:フョードル・ルキヤノフ(『ロシア・グローバル・アフェアーズ』編集長、対外・国防政策評議会常任委員会委員長、ヴァルダイ国際討論クラブ研究部長)

本文

 自由主義的秩序は終焉を迎えた。礼儀正しさは放棄され、ルールは忘れ去られ、国境はかつての意味を失った。武力はまだ存在するが、平和は古いスローガンに固執する者たちの想像の中にしか存在しない。我々が「国際情勢」と呼ぶものは、台本のないスペクタクルである。その課題は、それを描写し、理解することだ。

 ヴァルダイ国際討論クラブは毎年、世界システムの現状に関する報告書を発行している。今年の論文は『ドクター・カオス、あるいは:不安を捨てて無秩序を愛する方法』という示唆に富むタイトルで、世界が革命的状況に入り、全く新しい秩序をもたらすのかを問うている。答えはノーだ。

 変化は急進的でしばしば不安を掻き立てるが、革命的ではない。なぜか、その理由は、このシステムが主要なプレーヤーにとって耐え難いほど不公平なものではないからだ。システムは衰退しつつあるが、転覆を迫られるほど耐え難いものではない。制度は弱体化しており、その多くは名ばかりの状態で存続しているが、誰もそれを完全に破壊しようとはしていない。最近の記憶の中で最も混乱を招いた米国のドナルド・トランプ政権でさえ、根本的な改革を試みたことは一度もない。ワシントンは、自国の利益にとって都合がよい場合には、制約を単に無視するだけなのだ。

 これは、世界の大国たちが慎重になったり責任感を持つようになったからではない。秩序があまりにも複雑化しすぎて、解体できなくなったからだ。かつては支配的な大国によって体現されていた「トップ」は、もはや真の覇権を行使することはできない。米国は最も明確な例である。米国には、これまでのように世界を警察的に統治する資金、国内での推進力、そして意志さえも欠けている。しかし、「底辺(ボトム)」、いわゆるグローバル・マジョリティも、革命を求めているわけではない。新興国は完全な崩壊に過大なリスクを見出している。彼らは古い枠組みを完全に破壊するよりも、その中での階段を上ることを選ぶのだ。

 ここでヴァルダイ報告はレーニンの革命的状況の定義を援用している:支配階級が以前のように統治することが出来なくなり、被支配階級が変革を要求しなければならない。今日、前者の条件は存在するが後者は存在しない。ほとんどの国は、システム全体の断絶という賭けをせずに、自らの地位を漸進的に高めることを好む。

◆多極化の混乱

 覇権から多極化への移行は深遠なものだが、多極化はまだ秩序ではない。それは流動的で混乱に満ち、非線形の環境である。世界はかつてないほど相互接続されているが、同時に紛争も激化しているため、不安定性は増幅している。国家にとって、対外的な野心よりも国内の安定がより重要になっている。ロシアを含む世界中の政府は、今や世界支配の夢よりも国内の発展と回復力を優先している。

 この移行が特異なのは、イデオロギーの革命家によって推進されていない点だ。台頭する巨人・中国は世界を自らのイメージで再構築しようとはしない。状況に適応し、中心的存在であることのコストを最小限に抑えようとする。この変容は客観的だ――経済的、社会的、文化的、技術的変革が同時に、しかし同期せず進展した結果である。ヴァルダイ報告書の皮肉な表現を借りれば、これら全ての力のベクトル和を計算できるのは、いずれ人工知能だけかもしれない。

 その一方で、外交政策が衰退しているわけではない。むしろ国際的な活動はかつてないほど活発だ。しかしその目的は変化した。国家はもはや完全な勝利を夢見ない。漸進的な優位性――小さな修正、近い将来の有利な条件、圧力に裏打ちされた永続的な交渉――を求めるのだ。

 例えば米国は、過去のようには自国の優位性を守れないことを認識している。ロシアもまた、決定的な戦場での勝利のために社会経済的安定を危険に晒すことはしない。核抑止力により、主要国間での全面戦争は考えられない。イスラエルは現状を恒久的に変えられるかのように振る舞い、アゼルバイジャンはカラバフへの支配権を回復した。だがこれらは例外だ。大半の国々にとって、国際政治は18世紀の「位置的対立」へと回帰しつつある。流血の争いはあるが、総破壊は稀だ。20世紀に生まれた「敵の殲滅」という概念が復活する可能性は低い。

◆混乱の中のレジリエンス

 この広範な不安定さは、変化がいかに深いかを示している。しかしここに逆説がある:現代世界は驚くほど回復力がある。ストレスで歪むが、折れないのだ。この回復力は、西洋が作り出した秩序への郷愁や、役目を終えた制度を維持したいという願望から生まれるものではない。今日の世界の複雑さと国家の内部発展そのものから生じている。

 つまり、レジリエンスは戦略ではなく必然である。政府は制御不能な変化に適応せねばならない。旧秩序を回復できず、革命も許されない。その結果、確固たる基盤が存在しない状況でも、頑なに耐え抜き、何とかやり過ごすことを強いるような状態が生まれる。

 これが、今日の外交政策がしばしば劇場のように見える理由だ:終わりのない動き、絶え間ない危機、脅威や敵に関する劇的な議論。現実には、国家は国内のことにより焦点を当てている。対外的な動きは国内目標に役立てている。軍事作戦でさえ、いかに破壊的であろうと、完全な征服ではなく、内部の安定を固めたり、内部の弱さから目をそらすためのものが多い。

◆18世紀的な未来

 もし、このモデルが優勢となれば、国際政治は20世紀よりも18世紀に似たものとなるだろう。対立は激しくなり、戦争は勃発するが、完全な征服は稀になる。「世界秩序」は構造というより、流動的な均衡となり、大小のプレイヤーが生きのこるために調整するものとなる。

 一方、西側は世界のルール形成の独占権を失った。今も「自由主義的秩序」の防衛を唱えるが、その秩序は既に終焉している。新たな秩序はまだ確立されていない。多極化はシステムではなく、システムの不在である。これを恐れる者もいれば、解放と捉える者もいる。

 ヴァルダイ報告書の結論は、我々が目撃しているのは崩壊ではなく移行――革命家なき革命である。頂点に立つ権力者はもはや指揮できず、底辺の大多数は反乱を望まない。世界はその狭間に囚われ、無秩序でありながら持続可能、不安定でありながら奇妙な回復力を秘めており強靱である。

 これは、我々が受け入れねばならない現実だ。自由主義的世界秩序は終焉し、その後何が来るかは未知だということだ。確かなのは、国際政治が普遍的ルールよりも国家の存亡を優先するようになる点である。支配による平和というかつての夢は終わった。残るのは絶え間なく続く、熾烈な競争であり、ロシアと世界の他の国々は、この競争に耐える術を学ばねばならない。

本記事は雑誌 Profile に初掲載され、RTチームにより翻訳・編集された。

本稿終了