ナチスの「生命の泉」
レーベンスボルン収容所
出典:Wikipedia 日本語
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レーベンスボルンで生まれた子供の洗礼の様子
出典・Source:Wikimedia Commonss
Bundesarchiv, Bild 146-1969-062A-58 / CC-BY-SA 3.0,
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本文
レーベンスボルン(ドイツ語: Lebensborn)は、ナチ親衛隊(SS)がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設である。
一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。ユダヤ人絶滅のために強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための収容所である。未婚女性がアーリア人の子を出産することを支援し、養子仲介なども行なっていた。
解説
ドイツの年間出生数は1920年には894,928人にのぼったが、第一次世界大戦に敗戦し200万人の戦死者が出たことで1932年には年間出生数は512,793人に激減した。また、大戦後の世界恐慌による生活苦によって堕胎施術が流行し、1937年には出生数を超える60万から80万の堕胎が行われた。
こうした事態から1934年3月、ナチス福祉局(NSV)は、母子援助制度を開始し、女性の出産育児に対する経済支援を展開した。父親が十分な養育費を支弁できない家庭への経済援助策として、ドイツ児童手当制度(Das Deutsche Institut fur Jugendhilfe e.V.)も同時期に開始された。人口政策的な目的を有する「児童扶助(Kinderbeihilfe)」が導入されたのは、ドイツにおいてこれが初であった。
1935年12月、SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、母子家庭の支援団体であるレーベンスボルン(別名生命の泉協会)を首都ベルリンに設置した。 1936年8月15日、レーベンスボルンは、最初の母子保護施設「高地荘」をバイエルン州エーベルスベルク郡シュタインヘーリンクに開設した。
高地荘は設立当初は母親30人・子ども55人を常時受け入れ可能な規模の施設であったが、1940年までに受け入れ可能人数が倍増され、SS医官グレゴール・エープナー(de:Gregor Ebner)が運営責任者として任についていた。
レーベンスボルンは親衛隊本部のひとつであるカール・ヴォルフ親衛隊全国指導者個人幕僚部の隷下にあったが、自立的に運営されており、SSとは無関係の母子も利用できたが、入所要件として人種的、係累的条件を満たす必要があった点はSSと類似していた。施設の維持は「民族的義務」と喧伝され、運営費用の多くはSS兵士からの寄付でまかなわれていた。
高地荘の成功を受け、レーベンスボルンの母子保護施設は国内外の各地に続々と設置されていった。
子ども達のその後
子ども達は、親たちの戦争犯罪とは無関係だが、第二次世界大戦後、親世代の戦争犯罪を理由に非難されると、自身の出自を意識するようになっていった。1960年代に入り、当時の子どものたちの多くが思春期、青年期を迎えると、子ども達の多くは罪の意識を感じるとともに、社会に拒絶された自分たちの親を恥じるようになった。
ドイツ国内のレーベンスボルン生活施設
「高原荘」エーベルスベルク(de)郊外シュタインヘーリンク(de)、1936年?45年4月、定員:母50子109
「ハルツ荘」ヴェルニゲローデ、1937年、母41子48
「マーク侯荘」クロスターハイデ(de)、1937年、母23子86
「ポンメルン荘」バート ポルツィン(pl)(現ポーランド領ポウツィン・ズドルイ)、1938年?1945年2月、母60子75
「フリースラント荘」ブレーメン郊外(現シュバンヴェーデ(de))、1937年?1941年1月、母34子45
「タウヌス児童園」ヴィースバーデン、1939年?1945年3月、子55
「戦争母の家」ステッチン(現ポーランド領)、1940年
「お日さまヶ原児童園」ライプツィヒ郊外Kohren-Sahlis、1942年、子170
「シュヴァルツヴァルト荘」ノルトラッハ(de)(現バーデン)、1942年
「フランケン児童園1号、2号」ブロッケンベルク郊外アンスバッハ、1944年
「ミュンヘン家族村」ポーシンガー通り
ノルウェーのレーベンスボルン計画
「生命の泉」計画はドイツ国内を中心に展開された政策だが、ヒトラーはノルウェー人などの北方人種を「より純粋なアーリア人」とみなし、ドイツ人のアーリア化を推進ため、ドイツ人ナチ党員男性とノルウェー女性との性交渉を積極奨励していた。(他のナチスドイツ占領地域では、このような行為は禁じられていた)。
そのため、ノルウェーではドイツ人の父とノルウェー人の母の混血児を対象としたレーベンスボルン施設が存在した。1940年から1945年までの間に、ノルウェー国内10カ所に設置されたレーベンスボルン運営の産院で出生した子どもは約8000人おり、その他の施設で出生した約4000人と合わせ、約12000人の子どもが駐留ドイツ兵とノルウェー人女性との間に生まれたとされる。
ドイツ降伏後に当時のノルウェー政府が「対敵協力者」の処分を決定し、上述のノルウェー人女性約14000人は逮捕され、そのうち約5000人が18ヶ月間強制収容所に入れられた。
ドイツ兵と結婚した女性についてはノルウェー国籍を剥奪され、出生した子どもには極めて政略的な「知能鑑定」が行われ、子どもたちの半数は「知的障害の可能性が高い」との恣意的診断を受けた。
ドイツ兵と占領地の女性の間に生まれた子どもは、フランスで約8万人、オランダでも1万人以上いたと推定されているが、このように政府が「公式に迫害」したのはノルウェー政府だけだったと言われる。
1999年12月、こうした迫害を受けた混血児122人が、「欧州人権規約」に反するとして、ノルウェー政府に国家賠償を求める訴えを起こした。このうち7人については事実関係が認められたものの、裁判では時効により損害賠償は却下された。
しかし2000年に、当時のヒェル・マグネ・ボンデヴィーク首相がこの問題について公式に謝罪し、2002年にノルウェー国会は公式謝罪と補償を政府に促す決議を全会一致で採択した。2004年7月、迫害の内容に基づき、各被害者に対し2万ノルウェー・クローネから20万ノルウェー・クローネの補償が決定した。
スウェーデンのポップグループABBAのメンバーだったアンニ=フリッド・リングスタッドも、ドイツ人ナチ党員の父とノルウェー人の母の間に生まれた子であった。彼女はノルウェーでナチス・ドイツ崩壊直後に生まれたが、ナチ残党への追及を避けるため母と共にスウェーデンへ逃れ、そこで成長したため知的障害者施設への収容は免れた。彼女もまた、実の父が存命中にもかかわらず、父は死んだものと聞かされて育てられていた。
レーベンスボルンの誕生の家(1943年、上部は親衛隊の旗)
出典・Source:Wikimedia Commonss Bundesarchiv, Bild 146-1973-010-11 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
占領地域下での子どもの拉致
「生命の泉」計画ではポーランド、チェコ、フランスなどの占領地域での子どもの拉致が政策的に行われていた。ポーランドではおよそ5万人から20万人の子供が拉致され、検査を経て「アーリア人」の条件を満たすと判断された子どもは出生証明書を書き換えられ、選定された新しい家族の元に送られた。子ども達の多くは、本来の肉親の元に帰されることはなく、また自らがポーランド人であることも知らなかった。
フィクションなどにおけるレーベンスボルン
ソフィーの選択:レーベンスボルンが登場する小説および映画。ソフィーはポーランド人のカトリック信者で、アウシュビッツKLに拉致された。
007 美しき獲物たち:本作で主人公と対決するマックス・ゾリンは、レーベンスボルン出身という設定。
非合法員:船戸与一の小説。破壊工作員である主人公の相棒ボルマンはレーベンスボルンで産み落とされたが、先天性障害の顕現により殺処分されそうになっていたところを敗戦により生き延びたという設定。
鏖殺の凶鳥(フッケバイン):佐藤大輔の小説。本編エピローグで主人公の養女となる孤児ヨセフィーネ・クニッケ(ペピ)は乳児期にSSがノルウェーより拉致してきたという設定。
死の泉:皆川博子の小説。レーベンスボルンに身を置く母親の目を通じて、ナチス時代の狂気を描く。
レーベンスボルン的施設が登場する作品
MONSTER - 旧東欧共産圏版レーベンスボルンともいうべき作中架空施設 511キンダーハイム出身者ヨハン・ヴィルヘルム・リーベルトと日本人脳外科医の対決を描いた作品。
ゴルゴ13 第51巻(文庫版では第43巻)「毛沢東の遺言」 - 日本軍の細菌部隊が同盟国ナチスドイツのレーベンスボルンを真似て設立した超高度東洋種族創出所によって誕生させられた東郷狂介(中国名:小東郷)の足取りを追う中国弁公室(中国人民解放軍弁公室第四処"国防情報局")と主人公の対決を描いた作品。
狂四郎2030 - 国策により社会の敵とされているM型遺伝子異常の子供達を収容(実態は強制徴用)し、特殊軍事訓練を課す関東厚生病院という施設が作中で登場(主人公も出身者の一人)。
脚注
1・ 大田俊寛 ナチスの「生命の泉」
2・ http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071603.pdf
3・ 講談社選書メチエ『ヒムラーとヒトラー』p.117
4・ 以上、出典:「ナチス将校が父 『ドイツの子』――半世紀の差別、謝罪、補償へ」2003年6月25日付「朝日新聞」、BBCニュース2001年12月5日付、2003年2月4日付け記事、「ドイチェ・ヴェレ」2001年2月12日付記事
参考文献
1・鎌田明子、『性と生殖の女性学』、世界思想社、2006年、79ページ以下
谷喬夫著、講談社選書メチエ『ヒトラーとヒムラー氷のユートピア』講談社ISBN 4-06-258176-0
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