32年振りの沖縄 阿部 賢一 2006年11月23日 |
私は、昭和47年(1972年)12月から翌年7月まで、沖縄県うるま市(旧石川市)の埋立地に沖縄で初めての本格的な火力発電所、出力25万KWの建設に約八ヶ月間従事しました。 1972年5月、沖縄は本土に復帰しましたが、復帰前に工事入札がおこなわれ、本土復帰後初の琉球電力発注のターンキー方式による大型発電所工事でした。それまでの電力は、那覇港に停泊している発電船や小規模な発電所からの供給しかありませんでした。 当時、米国は、ベトナムと戦争中で猛烈な北爆を続行中、ラオス、カンボジアにも空爆をつづけていました。 このため、米軍グアム基地から発進して、ベトナムを空爆するB52に対して、嘉手納基地から給油機が連日ものすごい爆音を響かせて飛び立っていました。給油機の騒音は凄まじく、夜間、まるで猛烈な雷雨に遭遇したごとく、睡眠を妨げられることも多々ありました。 2004年2月中旬、32年ぶりに沖縄在住の友人を訪ねました。 飛行機が那覇空港に近付いて眼下の海岸線をみてびっくりしました。海岸が至るところで埋め立てられていることが確認され、住宅その他の施設が建設されていました。32年振りの第一印象は開発の凄まじさでした。 空港から市内中心部へのモノレール工事が進捗中で、市街中心部ではまだ橋脚工事が行われていました。 観光地より、ついつい元土木エンジニアの本性が出てしまいます。僅か三泊四日の旅でしたが、最後まで、到着当日、首里城を訪ね、国際通り、牧志公設市場を歩いた以外の観光地には行きませんでした。 二日目、思い出の石川火力発電所に友人と一緒に行きました。発電所現場は石川海岸中心部を埋め立てた造成地でした。その両側はまだ白砂の海岸線が長く残っていました。左側は金武町のキャンプ・ハンセンへ続く登り勾配の道、その先には金武発電所の煙突から白い煙が出ていました。 当時、泳いだり、「もずく」(これが最近「沖縄もずく」としてスーパーなどで売られている酒の絶好のつまみですが、当時はそんなことは全然考えませんでした)を採ったこともある石川ビーチは跡形もなく埋め立てられ、石川発電所の手前にはもう一つのガスタービン火力発電所(出力10万3千KW)が建設され、稼動していました。 当然のことながら、32年前の沖縄の情景は完全になくなっていました。 当時の情景を思い出すと、海岸沿いのビーチの右手には嘉手納基地から飛び立つ米軍機が見られ、正面の穏やかな青い海面の先には平安座島の石油備蓄基地が眺められました。海岸沿いにあった幹線道路も全く視界の狭い街中の道に変貌していました。建設現場の近くに、本土復帰でいち早く進出してきた居酒屋「養老の滝」にはよく出かけたものでしたが、その店も含めて幾つかあった商店街はすっかりなくなり、大型ショッピングセンターがありました。 「思い出」との落差に落胆しながら、金武町のキャンプ・ハンセンを左側に眺めながら通り過ぎて、2000年沖縄サミットが開かれた名護市部瀬名岬の「万国津梁館」に行きましたが、4時で閉門ということで残念ながら内部は見学できませんでした。その手前のリゾートホテル・ザ・ブセナテラスのコーヒールームでコーヒーを飲んで那覇に戻りました。三日目、友人の好意で、一日、彼の車を借りて彼のスタッフの運転(案内)で本島北部をぐるりと回りました。 那覇からまず高速道路で沖縄海洋博覧会の開催された本部地区に向かい、国営沖縄記念公園の海洋博覧会地区に行きました。沖縄海洋博のシンボルであった未来型海洋都市のモデル、人工島「アクアポリス」は、すでに、2000年10月、鉄屑として米国の企業へ売却処分され、解体場所の上海へ海上曳航されていったのは、同年10月23日だったということでした。 その跡地の海には、大きな網で囲まれた場所がつくられていて、中にはマグロが養殖されているということでした。マグロは本土へ空路運搬されて市場に出されているということでした。折から建設中のわが国最大規模の水槽をつくる『沖縄美ら海水族館』などを見た後、シナ海沿いに北上し、北端の辺土岬へ到着。この岬から多くの方々が大声で本土復帰を叫んだという碑文の本土復帰記念碑が建っていました。 辺土岬からはくねくねと見通しの利かない道、それでも立派に舗装されていましたが、山岳部を横断して、太平洋側に下りました。沖縄本島北部はまだ住民が少なく、厳しい山岳地帯で、ヤンバルクイナの住むところです。復帰後、この北部には八つのダムが内閣府沖縄総合事務所北部ダム事務所によって建設されました。そのうちの二つのダム湖を見ながら通りました。 この文を書くにあたって、北部ダム事務所のHPにアクセスしましたら、「洪水防御、既得取水の安定化及び河川環境等の保全等の為の流量の確保、水道用水・工業用水及びかんがい用水の開発を目的として、福地ダム・新川ダム・安波ダム・普久川ダム・辺野喜ダム・漢那ダム・倉敷ダム・羽地ダムの8つの多目的ダムを完成させ、沖縄の振興開発を推進してきました。 道路際には森がところどころで伐採されてパイナップル畑もあちこちに見られました。森林がどんどん破壊されていきます。この北部にゴルフ場が二ヶ所もありました。こんな遠くまでプレイに来る観光客がいるのも驚きでした。 辺野古の米海兵隊キャンプ・シュワブ基地前の道路は椰子の並木が続き整備されていました。 基地の手前では、入り江を直線でショートカットするための大型橋梁工事が行われていました。 この辺は、32年前、私が石川火力発電所工事に従事していた頃と同じような情景で、自然の砂浜、磯浜が残っている、まだまだ寒村という雰囲気でした。案内の方が、普天間基地の代替候補地はあの辺だと、近くの森を指し示してくれましたが、まだうっそうとした森が海まで続いていました。 基地が建設されると、大掛かりな開発工事で土地造成が行われることになり、その結果、土砂の流出で海辺の珊瑚が死滅することになることが当然ながら予測されます。 辺野古から山道を越えて反対側の恩納村の観光ホテル街を通りましたが、これは観光地のホテル群やその周辺状況を確認するのが目的でした。道路は歩道が狭く、開かれた公園等もほとんどなく、ちらほらと土産物屋やレストランが散在するだけで、どうも魅力には欠けるという印象でした。那覇に戻ってきたときにはすでに陽は落ちて暗くなっていました。 本土復帰後初の大型インフラ工事に参加した当時と比べると、沖縄の道路インフラは確かに充実しました。 本土復帰とともに、沖縄振興開発特別措置法が施行され、沖縄振興策として政府の補助金・交付金がどっと流れ込み、土建業者が多数輩出しました。 本土復帰30年という節目を迎えて、平成14年3月、「開発」の文字が消えた沖縄振興特別措置法が制定されました。しかし、この11月の沖縄知事選挙の重要課題は、相変わらず「雇用確保」「経済振興」であり、失業率が8%と全国最高レベルにあるという厳しい現実です。 国の補助金・交付金を大量につぎ込んでいくらインフラ投資をしても、わが国の米軍基地の70%を占めるという現実と、沖縄経済特区、自由貿易地域などの施策が実行されてきましたが、依然として「雇用確保」「経済振興」の具体的な方向性が見えません。 観光産業もまだまだ国際的に見ても見劣りがします。昨年訪れたタヒチなど比べても遜色のない素晴らしい海、素晴らしい自然環境があるのだから、本格的な国際性のある観光地を目指せないものでしょうか。 本土復帰してすでに三十年の節目を越えた沖縄の深刻な事態の改善の方策が見えていない原因は何なんだろうと考え込んでしまった32年振りの沖縄への旅でした。 |