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映画『ダーウィンの悪夢』
について考える(8)


阿部 賢一

2007年4月16日


15 シクリッドと「ダーウィンの箱庭」について

(1) 「箱庭」とは?

映画『ダーウィンの悪夢』を紹介するのに、『一匹の魚からはじまる悪魔のグローバリゼーション』*あるいは「『ダーウィンの箱庭』といわれるヴィクトリア湖にバケツ一杯の外来種の魚ナイル・パーチが放流されて------」という枕詞ではじまる文言が多い。

* 映画『ダーウィンの悪夢』公式サイト

http://www.darwin-movie.jp/

『ダーウィンの箱庭』とは草思社から19999月に出版された邦訳本の題名である。

出版元の広告コピーは、

「ヴィクトリア湖は、50年に1種以上という驚くべきペースで新種の魚を生み出す進化の実験場だった!」

紀伊国屋の広告コピーは

「目の前で進化が起こる夢のような場所がアフリカにあった!進化の実験ヴィクトリア湖と驚異の魚シクリッドをめぐる物語。」

原著者はティス・ゴールドシュミット(Tijs Goldshmidt)。原題はDarwins hofvijver1994年に出版。

1996年、英国で出版されたときの題名はDarwin’s Dreampond。このほか、仏・独・伊・中・ポーランドなど各国語に翻訳出版されている。

ゴールドシュミットは1953年、オランダのアムステルダム生まれ、ライデン大学に学び博士号を取得。

1981年からシクリッドの研究を始め、タンザニアのヴィクトリア湖畔で5年間を過ごした。シクリッドの生態を観察し、その進化の速さの秘密を研究した。そして外来種ナイル・パーチの猛威を実感した。その体験にもとづいて執筆した“Darwins hofvijver”の出版により、ヴィクトリア湖のシクリッドについての進化論的生物学及び生態学の専門家として国際的な賞賛を受けている。同書は、優れた文学作品として文学賞候補作品と(AKO Literature Prize)もなり、科学啓蒙書として、オランダ科学研究協会(Dutch Organization for Scientific Research)から優秀科学賞(Prestigious Science Prize)を受賞している*

* http://www.nlpvf.nl/book/book2.php?show=all&book_vertid=832&Book=65

ゴールドシュミットの有名な言葉は「広大な湖を崩壊させるためには、一個のバケツをもった人間が一人居るだけでいい」であるという。

どうもこの言葉をさらにひねって、本も映画も、キャッチコピーにしたようだ。

同書の第1章は「数百種が消えた?」と衝撃的な項目で始まる。

彼の調査では、シクリッド類(ハプロクロミス属)は500種のうち約200種があっという間に絶滅してしまった。その原因がナイル・パーチであり、ヴィクトリア湖の生態系の破壊を警告した。

以下、次の項目が並ぶ
2.
鱗を食べる魚 眼を食べる魚

3. 分子生物学、分類学、温泉

4. 自然選択で進化は起きるか

5. たった一種から数百種への分化

6. 雌に選ばれる雄

7. 生態的地位をめぐる争い

8. なぜ絶滅したのか

9. 生態系の予期せぬ変化

10. フル*は生き残れるか

* “フルは現地語であるスクマ語でもスワヒリ語でも、フル以外の呼び方のないシクリッド(砂地や泥場にいる底棲のシクリッド)のことである。

http://www.evolution.bio.titech.ac.jp/f_project/
2006/Vol_7/v_report_2006_7.html

ヴィクトリア湖に外来魚『ナイル・パーチ』が放流された経緯やその後の環境の変化については下記のサイト*に詳しい。

* ヴィクトリア湖

 http://homepage3.nifty.com/duke-box/gaia_b45.htm

残念ながら筆者はゴールドシュミット著『ダーウィンの箱庭』をまだ読んでいない。

近くの西東京市図書館、武蔵野市中央図書館には在庫があることが確認できたので、できるだけ早い機会に借用して読む予定である。

 筆者は、オランダ語はわからない。しかし「箱庭」という邦訳には、ミニチュア(miniature landscape garden)というイメージがあり、どうも違和感があったので、英語題名はどうなっているのだろうと検索してみると『ダーウィンの夢の池(Darwin’s Dreampond) 』。こちらの方がイメージがぴったりする。

(2) シクリッド(Cichlid)

ヴィクトリア湖は、この道の研究者の間では、ダーウィンのいう進化論の基本概念、自然淘汰、生存競争、適者生存を導き出し、その要因によって常に環境に適合する様に進化し、勝ち残った結果として、多様な種が発生する、ということの「進化の実験場」として注目を集めている。その研究対象が、シクリッドという魚である。

シクリッド(Cichlid)とは、和名カワスズメ科、学名スズメダイ亜目シクリ科。

さまざまな環境に適応し、その姿を大きく変化させる能力を持っていて、大きさは34cmのものから80cmを越えるものまで、姿・形・色なども様々である。

生息地はアフリカ大陸とアメリカ大陸。このことからアフリカ大陸とアメリカ大陸が一つの大きな大陸として存在していた36000万年〜24000万年前(石炭紀〜ペルム紀)にはシクリッドの祖先が生息していて、分離移動する両大陸に乗って広がったと考えられている。

アフリカ大陸のシクリッドは1000種、中南米のシクリッドは約200種。アフリカ大陸では今でも新種が続々と発見されている、という。

このシクリッドは、我が国の熱帯魚店でも、一匹1,000円〜10,000円以上で販売されている。

中南米産、マラウィ湖産、タンガニーカ湖産、ヴィクトリア湖産の東アフリカのアフリカン・シクリッドは、色彩が大変魅力的な種類が多く、飼い方によっては自宅での繁殖も簡単に出来る。

インターネット【シクリッド】で検索すると、この魚の多彩な画像にアクセスできる。

(3) 我が国におけるシクリッドの研究

我が国でヴィクトリア湖のシクリッドを研究しているは、東京工業大学や京都大学などの、生命科学研究者たち、そのなかで、DNA研究で業績を上げているのが東京工業大学の岡田教授である。

『ビクトリア湖・岡田プロジェクト』で現地調査も行っている*

*『ビクトリア湖・岡田プロジェクト』フィールド・レポート

最新版 Vol.72006.10.2310.29

http://www.evolution.bio.titech.ac.jp/f_project/2006/Vol_7/v_report_2006_7.html

岡田研究室がなぜ、シクリッドを研究しているについては、下記のサイトにわかりやすく解説している*

* 東京工業大学大学院生命理工学研究科生体システム専攻
進化・統御学講座 岡田研究室 シクリッド班

  http://www.evolution.bio.titech.ac.jp/f_research/cichlid/cichlid.html#3

岡田研究室は2003年よりアフリカ・ビクトリア湖のシクリッド遺伝子研究を開始し、2004年、現地調査を行なった。その成果などについて、アットホーム()の機関紙「at home time(200412月号)に「進化するDNA」と題する岡田教授の対談記事がある*

* http://www.athome.co.jp/academy/biology/bio08.html


対談のシクリッド関係部分を引用すると、

ヴィクトリア湖に注目した理由は:

「ビクトリア湖は12千年前に一度完全に干上がり、魚がいったん死滅しました。だからビクトリア湖の固有の魚である700種以上のシクリッドはわずか12千年の間に、同じ祖先から進化してきたと考えることができる。

シクリッドは体の大きさ、体の表面の色と模様、アゴの形状など、実にさまざまな種類に分れていて、見た目だけでは、ほぼ同一の染色体を持っているとは到底思えないほどです。こういうケースは非常に珍しいので、生物進化の研究に適しているのです。」

「シクリッドが多彩に分化できた原因として、ごくわずかなDNAの変化が、非常に大きな生態の変化を作り出すという可能性が考えられます。

例えば網膜には光を感じる数種類のタンパク質が存在しますが、そのタンパク質の設計図であるDNAがほんの少し変化しただけで、感じる光の波長が変る。そして、より暗い光を感じることができるようになった魚は湖の深いところで生息できるようになり、やがて新しい種に分化する。網膜だけでなく、異性をひきつける役目を果たす体表の色と模様の変化も大きいでしょう。また餌を取ったり、子育てをしたりするためのアゴの形状もさまざまです。DNAのわずかな変化でこのような種の分化が起きていることが解明できれば、非常に大きな成果になると思います。」

そして現地調査での発見として

(2004年夏二週間ほど)現地で調査をしてみると、非常に興味深い新事実が判明しました。最近、ビクトリア湖ではナイルパーチという回遊魚が登場し、これがシクリッドを食べるために、シクリッドは絶滅の危機にあるのですが、1種だけ減らない種がいたのです。実はこのシクリッドは夜行性だったんですね。だから、昼間に活動するナイルパーチから逃れることができたというわけです。どうやって夜行性になったのか、DNAの変化を今調べているところです。」

なるほど、遺伝子研究者が、ヴィクトリア湖を「進化の実験場」と考えている理由がよく分かる。

確かに「ダーウィンの夢の池」である。

(4)    アフリカ大陸大地溝帯(Great Rift Valley)

 アフリカの大地溝帯地域は人類発生の地である。

http://www.pia.co.jp/sp/wwm/1221/1221njamena.htm

ヴィクトリア湖は大地溝帯(Great Rift Valley)の東部地溝帯と西地溝帯に挟まれるような位置にあり、大地溝帯の隆起によって形成されたものと考えられている。

これがニアサ地溝帯(マラウィ湖)につながる。マラウィ湖はモザンビークでは公式にはニアサ湖という。

ヴィクトリア湖、タンガニーカ湖、マラウィ湖の位置関係がこれでわかり、タンガニーカ湖の分水嶺がヴィクトリア湖の近くまで来ている。これら大地溝帯の古代湖は、現在も地殻が少しずつ裂け続けている割れ目である。

三大湖の成立年代はそれぞれタンガニーカ湖が1,200万年、マラウイ湖が200万年、ヴィクトリア湖が12,400年前と、放射性炭素による年代測定などでわかっている*

* http://www.evolution.bio.titech.ac.jp/f_research/cichlid/cichlid.html

これらの湖には極めて多様なシクリッドが生息している。これらは爆発的な適応放散の産物だということ、とりわけ、ヴィクトリア湖とマラウィ湖では,シクリッドの祖先系統はたったひとつと推定されている*

しかし、周辺の河川の種分化・適応放散はそれほど多くない。湖という「ゆりかご」が種分化・適応放散を可能にする環境なのだろうか。

* http://ecol.zool.kyoto-u.ac.jp/~hoso/topics.html

 An extant cichlid fish radiation emerged in an extinct Pleistocene lake.

Joyce, D. A. et al. (2002) NATURE 435: 90-95

最初に形成されたタンガニーカ湖のシクリッドが、大地溝帯の地殻変動や気象条件の変化で、そのうちの一種類が、新しく出来たマラウイ湖に流出し、さらにその後新しく出来たヴィクトリア湖へまた一種が流出し、それぞれ種分化・適応放散を遂げたという。

ヴィクトリア湖では、地球や人類の歴史から見れば極めて短いわずか12,400年間に、シクリッドが700種にも分散したのかは、この地球上にかくも多種多様な生物(動植物)が何故存在するのかという大命題を研究する格好なテーマとなっている。

ヴィクトリア湖のシクリッドは、確かに種分化・適応放散を遂げてきたが、だからといって、そのシクリッドを食べ尽くすナイル・パーチは「適者生存」で生き残るわけではないだろう。食べ尽くした後、ナイル・パーチは生き残れないはずだ。現在では餌のシクリッドが少なくなって、ナイル・パーチも小型化、共食いをしているようである。それゆえ、ナイル・パーチを「ダーウィンの悪魔」というのなら、それもそうだと理解も出来るが、そこからなぜ「悪魔のグローバリゼーション」と「ダーウィン」の名前を使って飛躍させられるのだろうか。

現在の東アフリカの貧困や病苦は、ナイル・パーチが引き起こしたと強引にむすびつけるには無理がある。東アフリカの国境線を引いたのは、ヨーロッパ列強による植民地獲得競争の結果であり、植民地支配の後遺症である。ヨーロッパ人による開発という自然破壊と資源の強奪、土着伝統文化の破壊、これらはアフリカにむかしから住む人々にとってはまったくの災難でしかなかった。独立後も、人材(指導者及びスタッフ)不足、統治能力不足、財源不足、気象変動に伴う旱魃化、それに伴う農業生産力の衰退、一方で、人口爆発、内部紛争や近隣諸国間戦争の増加・拡大なによる産業破壊、生活環境破壊、難民流動化等々、さまざまな問題が複雑に絡んでいる。

(5) ヴィクトリア湖の生態環境上の問題点

以下に引用したのは名古屋大学大学院環境学研究科地球環境科学専攻の入学試験問題過去問である。

ヴィクトリア湖の問題点がわかりやすいので紹介する。

問題1:

 東アフリカのタンガニーカ湖、マラウィ湖、ビクトリア湖には、極めて多様な形態的あるいは生態的特徴を持った淡水魚(主としてカワスズメ類)が多種類生息している。

彼らは、藻類食、昆虫食、鱗食(他のカワスズメの鱗を食べる)といった多様な食性の違いを示し、湖の数百メートル離れた岩場には別種が生息しているというほどの高度な生息地適応を示す。生殖においては、少数の子どもを口内保育によって育てるほか、色鮮やかな色彩パターンを持つ雄を雌が選ぶという性選択の特徴が顕著にみられる。

問1.地質学的年代スケールにおいて比較的最近に(75−25万年前)誕生したビクトリア湖に、何故かくも多様なカワスズメ類が生息するのかという問題に、長年研究者の興味が注がれてきた。最近カワスズメ類の分子系統解析が行われた結果、ビクトリア湖のカワスズメは、タンガニーカ湖のカワスズメのたった1系統に由来し、非常に短期間にビクトリア湖の中で種分化・適応放散を遂げたらしいことが分かってきた。この爆発的種分化が起きた理由について、湖の環境的要因とカワスズメ類に関する生物学的要因に注目して考察せよ。

問2.湖の生態系は、光合成を行う藻類などの一次生産生物とそれに依存した動物、さらには死骸を分解する生物の微妙なバランスのもとに保たれている。ところが、ナイルパーチという肉食性の外来魚を1950年代にビクトリア湖に導入した結果、同湖の魚類の99%以上を占めていたカワスズメ類が、現在では1%以下にまで低下してしまった。それに伴い、ビクトリア湖の環境破壊(例えば湖の無酸素化)が深刻な問題となっている。

ナイルパーチの導入がどのようなプロセスで湖の無酸素化につながったと考えられるだろうか。

問3.ビクトリア湖のカワスズメ類の多くの種は既に絶滅し、かろうじて生き残っている種も回復の見込みは少ないと言われる。個体数をいったん激減させた種が、仮に生息環境に一時的な改善がなされたとしても、なかなか絶滅の危機を脱せないのは何故か。

考えられる理由をのべよ。


この問題に対する正解は筆者にはわからない。しかし、我が国にもこの問題を研究して、現場に出かけている研究者も多いようなので、そのうち、グーグルで検索すると、これらに対する解答にアクセスできるかもしれない。

(つづく)