東北シリーズ(1) 『鳥海山』その1 「山頂争い裁定」と各登山口 阿部 賢一 2007年7月14日 |
今年六月二十四日日曜日、酒田観光物産協会八幡支部主催の鳥海山湯ノ台口山開き登山に参加した。昨年に続いて二回目である。 その登山途中に話題となった『山頂争い』の歴史を紹介し、今年の山開き登山を報告する。 1. はじめに 鳥海山は、東北地方第二の高峰*、山形県と秋田県の県境に位置している。 山形県側の山麓は遊佐町の日本海、海抜ゼロから最高峰の鳥海新山2,236mまでは直線距離で約15km。 単独峰であるため天候が変わりやすく雲がかかることが多い。降雨量・降雪量は、屋久島に劣らず7,000mm台を記録する。 日本海からなだらかに高度をあげて優美な山容を示しているが、活火山でもある。 最近では1974年2月から5月にかけて鳥海新山付近で小規模な水蒸気爆発を起こした。 酒田市下安町交差点から撮影 撮影:2007/7/10 午前9時 鳥海山の最高峰は山形側の外輪山内側の円形ドーム型鳥海新山(標高2,236m)で粘性度の高い溶岩のガレ場となっている。 この新山は1801年の噴火の際に形成された。荒々しいドーム状山頂直下には「胎内めぐり」という洞穴がある。 鳥海山は独立峰であるので、視界は三百六十度拡がる。日本海、遠く飯豊山、朝日連峰、蔵王連峰、その手前に月山、葉山、最上丘陵の奥には、神室、栗駒など、宮城県、岩手県、秋田県の山また山が連なる。 日本海近くのテレビ塔が乱立する高館山、修験の金峰山、麻耶山、月山、羽黒山、最上丘陵、鳥海山などに取り囲まれる庄内平野の中央には、芭蕉の詠んだ「五月雨を 集めてはやし 最上川」の最上峡から流れ下る最上川が河口酒田で日本海に注ぐ。 * 東北最高峰は、尾瀬沼で有名な福島県南会津郡檜枝岐村に属する燧ヶ岳2,356mである。 2. 鳥海山山頂論争 地図を広げてみると、分水嶺等で県境となっているところが多い。しかし、鳥海山の山頂は山形県側に属しており、それも鳥海山系の稲倉岳(1,554m)から飯ヶ森(1,199m)を頂点とする三角形で、不自然に大きく秋田県側に突出している。 出典:http://park14.wakwak.com/~kayowai/9chokai3dm.jpg 出典:Yahoo地図 鳥海山には古より神として大物忌神が祭られていた。その後鳥海山麓の各地で修験道が発達、山形県庄内地方(庄内藩)の本山派の天台(順峰)と秋田県矢島口(矢島藩)の当山派の真言(逆峰)、この二派の宗教上の争いが鳥海山頂の争奪にまで発展、これに庄内藩、矢島藩の領土支配権も絡み複雑化した。 元禄十四年(1701)、鳥海山上の本社造り替えにあたり、法門での裁決でも解決せず、幕府の寺社奉行への裁決方出願に至った。 幕府は大目付以下四十数名の検使を現地に派遣、実地に見聞して裁決を下した結果が現在の県境になっている。 当時生駒氏矢島藩は一万石にみたない小名であり、相手は徳川譜代四天王の雄、酒井氏、庄内藩十四万石(藤沢周平の「海坂藩」のモデル)、矢島藩にとってははじめから勝ち目のない訴訟であったが、幕府直々の裁決を願い出た当時の矢島藩の人々の意気が高かったことが偲ばれる。 幕府裁定後、山頂交渉の中心となった若き矢島藩家老が、庄内藩の策謀によって山頂訴訟に敗れたことを知り、憤然と職を辞して、庄内藩家老某の門前において抗議の切腹をしたという、小国「矢島藩」の悲哀話が「矢島の歴史」に伝えられている*。 * 鳥海山の山頂論争 http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/chokaisan01.htm 宗派争いに便乗して大国が横車を押す領土拡大は、昔から現在に至るどこにでもある大国の傲慢の一例である。 山頂訴訟に敗れた矢島藩の人々の意気がなぜ高かったのか。それは戦国時代を生き抜いた生駒氏に思い至る。 矢島藩主、生駒氏の初代は生駒親正。美濃可児郡土田村出身。永禄九年はじめて織田信長に仕え、齋藤氏攻めの際、秀吉とともに墨俣の砦を守り功があった。太閤記に出てくるあの生駒氏である。 信長死後、秀吉配下として、天承十五年には讃岐一国を与えられ高松に築城。関ヶ原の戦いにおいては、その子一正と孫正俊は徳川方に属して奮戦、その功により讃岐十七万六千石を知行することとなった。 その後4代高俊が幼弱のため、家臣間に不和抗争(お家騒動)を生じ、お家取締り不行届きの故を以って、寛永十七年(1640)、讃岐全土没収。堪忍料として、出羽の国矢島に一万石と江戸下谷に中屋敷を賜り、かろうじてお家断絶は免れた。 生駒家は、秀吉子飼いで賤ヶ岳の七本槍の加藤清正(肥後52万石、家督を継いだ忠広は幕府の命により改易となり、庄内藩預かり、鶴岡市(旧櫛引町)の丸岡城で死去、丸岡城址は現在の天澤寺、加藤清正公の墳墓(五輪塔)や清正閣がある)、福島正則(安芸広島藩49万石から信濃国高井郡2万石へ配流、末子正利が旗本として存続したが嗣子なくして断絶)とは違い、しぶとく明治まで生き残った。 高俊は寛永十七年十月、移封の地、矢島に入国、八森に陣屋をかまえ、明治に至っている。 高俊死後、矢島藩二代目高清は、舎弟に自領二千石を割いて分家させ、自らは八千石となり、大名格をはずれ、江戸幕府交代寄合(表御礼衆 柳間詰め、大名とほぼ同格)として、代々公儀に仕え、藩政は領地在住の家臣にまかせた。八代親睦のとき、将軍家治は、親睦の江戸在勤の役を解き、二代高清以来百八十年ぶりに藩主が帰国し、直接領内の政治を行った。 * 生駒氏の治世時代 http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/ikoma01.htm 生駒氏時代における矢島藩の産業の中で特に畜産とその馬政、せり市場の開設等については、東北他藩に誇る特異な存在であった。鳥海山麓における畜産、特に馬産についての歴史は古い。古記録によれば、矢島地方はもと畠山重忠(鎌倉時代初期の有力御家人、源頼朝の忠臣)の馬草料地であり、その代官が築館に居って領地のとりしまりを行なっていた*。 *矢島藩の産業・馬政とせり市場 http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/sangyou01.htm 秋田県では市町村合併が進み、矢島町(旧矢島藩)も由利本荘市に合併されたが、この地の歴史については旧矢島町のHP*に現在も掲載されている。 *バーチャル記念館(旧矢島町HP) http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/index.htm 八森陣屋跡の濠 矢島高校と矢島小学校の間にある。 http://www.pref.akita.jp/fpd/chokai/denen-01.htm* * 矢島町のその他の写真については上記サイトをクリックすると見られる 3. 鳥海山の登山路 鳥海山への登山路は9ルート。最も一般的なのが山形県酒田、秋田県象潟からブルー・ラインをドライブして高度を上げて鉾立(五合目)から登る象潟口である。ここからの登山路はだらだらとゆるやかに登る道で整備状態もよい。このルートを登る者は多く、とりわけ夏は登山客でごった返す。筆者もすでに三回このルートを登った。最初は三十年以上も前に外輪山七高山へ、次は四年前の秋、御浜小屋まで、そして昨年夏には御浜小屋から長坂道に入り、?ヶ岳(1,635m)のお花畑で咲き乱れる高山植物を鑑賞した。鳥海山の楽しみ方は四季を通じてさまざまである。 秋田県側登山口である鉾立口(旧象潟町)、祓川口(旧矢島町)、百宅口(旧鳥海町)の山開きはまだ残雪の多い毎年5月1日前後に行われる。山形県側登山口の山開きが6月末から7月初旬なので、二ヶ月も早い。 旧矢島町からの鳥海山登山は、歴史の古い祓川口である。旧矢島町からブナ林を登ると五合目に祓川小屋と駐車場がある。そのすぐ上が、竜が原湿原。竜が原湿原から鳥海山頂までは約4km、四時間の行程である。 秋田県側旧鳥海町の法体の滝手前の展望台から 見た鳥海山 撮影:2007/06/15 秋田県側から見る鳥海山は富士山のようであり、筆者が見慣れている山形県側から眺める姿とは随分違う。 秋田県側の人々は、山形県側から見る鳥海山をなぜか裏鳥海という。 旧鳥海町(旧矢島町の東隣)のリゾートホテル フォレスタ鳥海から見る鳥海山 撮影:2007/06/15 山形県の鳥海山麓の地元、庄内平野の人々にとっては最もなじみのあるのが酒田市(旧八幡町)湯ノ台口である。 出典:http://www.chokaizan.com/route/index.html 湯ノ台口は、鳥海山の登山口としては、最も短距離で頂上に達することができるが急登を覚悟しなければならない。高山植物の咲き乱れる八丁坂を登りきると河原宿小屋、その前面には夏でも残る大雪渓と、それに続く夏の終わりには消える心字雪渓を登りきり、階段状のあざみ坂を急登、外輪山の伏拝岳に到着、象潟口からの登山路もここで合流する。ここから外輪山系を進むと、外輪山最高峰七高山(2,230m)、その手前の鞍部から外輪山内壁を急降下すると大物忌神社、反対に岩石が激しく隆起した岩石の裂け目をぬって上に登れば鳥海新山(2,236m)の頂上である。 (つづく) |