ベトナム・カンボジャ紀行 ベトナム編 その1 阿部 賢一 2008年3月22日 |
2008年1月13日~17日、『世界遺産ハロン湾とアンコールワットを訪ねる旅5日間』に参加した。 成田での添乗員の挨拶によれば通常7日間のツアーを5日間に短縮するという、いつも忙しい日本人向けのツアーということ。参加者合計25名のほとんどはシルバー世代で、仕事に「忙しい」というわけではなさそうなので、旅行費用総額の問題で日程を短縮したようだ。 ツアー広告によれば、旅行代金は5日間で139,800円だが、燃料サーチャージ15,360円、カンボジャ査証取得費・出入国税・空港施設使用料等合計約14,000円が加算され、旅費は合計169,100円と約20%増しとなる。 [1] ハノイ・ハロン湾編 ベトナムの首都ハノイと世界遺産ハロン湾 1月13日日曜日 午前11時、ベトナム航空B777で成田を出発、機内は満席、座席も最後部という初体験。座席の間隔が狭く、窓際の乗客は通路に出るのに一苦労である。長距離飛行の国際線は、国内線と違って、座席の間隔は余裕があったと思ったのだが、最近は詰め込みが一段と激しくなった。 a. ハノイ到着 成田から5時間の飛行でベトナムの首都、ハノイのノイバイ国際空港に現地時間午後3時10分に着陸。 空港は帰路立ち寄った南部ホーチミン市のタン・ソン・ニャット国際空港に比べて、規模が小さく照明が薄暗いというのが第一印象。入国審査、荷物通関は他に到着便がなかったためか早く済んだ。 ノイバイ国際空港からハノイ中心街までは約45km。出迎えの観光バスに乗り込みベトナム人ガイドの説明を聞きながら進む田園風景の中を、市の中心部に向かう。道路の両側はのどかな田園風景。しかし、田畑がつぶされた工業団地、外国企業の看板が目立つ。住宅団地の建設も進められている。道路わきには鉄骨支柱の大看板が林立している。市内に入ると、自動車、バス、トラック、そしてバイクが入り乱れて道路いっぱいに溢れる東南アジアのどこにでも見られる大喧騒、大渋滞。 ハノイ市内幹線道路 2008/01/14 b. ホアン・キエム湖(還剣湖) 旧市街にあるホアン・キエム湖(漢字では「還剣湖」)を二分する湖中道路の街路樹、その中程の島にある玉山祠に渡る赤い橋を右手に見ながら対岸の旧市内に向かう。 玉山祠は18世紀に建立され、文学の神スオン王、13世紀に元の侵略を撃退した武将ダオ、武神カンプ、医聖ランプがまつられている神社。湖中道路から赤染めの木橋を渡って行くところなど日本の神社にもよくある風景である。 ホアン・キエム湖は旧市街の南にある南北600m、東西200mほどの湖で、湖岸は幅広い樹林の散歩道。ところどころに公園があり、歩くと一周約30分~1時間だそうだ。湖岸にはボート乗り場があり、湖上レストランもある。湖の周囲はビル街・商店街で上野不忍池といった雰囲気。 ホアン・キエム湖(漢字では「還剣湖」)の由来は、15世紀初め、当時ベトナムを直接支配していたレ・ロイという将軍が侵攻してきた中国の明軍と戦っていたが、この湖で漁師の網にかかった金の剣で戦い独立を回復した。そして戦いが終わった後、レ・ロイがこの湖で休んでいると、金色の大亀が出てきて、その龍王の剣を返すようにという天啓があり、その剣を亀に返したという伝説に基づいているという。 出典: http://www.geocities.jp/yodosinjo39/vietnam/ho_hoan_kiem.htm また一説には、15世紀に漁師がこの湖で亀から剣を授かり、時の王に献呈したところ明軍を撃退して中国支配から解放したと言う伝説がある。そのために南寄りの湖上に小さな亀の塔が立っている(上の写真)。 今回は強行日程のため、ホアン・キエム湖の水辺を散歩する時間もなく、バスから眺めるだけだったが、インターネットから素晴らしい写真を借用した。湖の雰囲気がこれでお分かり頂けると思う。 ハノイは、中国雲南省に源を発しベトナム北部を貫きトンキン湾に注ぐホン河の湿地帯の中で、ちょっと小高くなったところにある。ベトナム語で「ハ」とは河、「ノイ」は内を表す。つまりハノイとは河内ということ。そのため、ハノイには大小さまざまな湖沼があったようだ。市の発展とともにそれらが埋め立てられホアン・キエム湖など幾つかの湖が水面を縮小して現在残っている。日本にも大阪府東部に河内国というのがあったが、同じような名付け方なのだろう。この地をハノイと呼び始めたのは1831年、阮朝の明命帝の時代からである。 c. 中央官庁街とホーチミン廟 街路樹のうっそうたる通りを抜けると迎賓館(旧フランス総督邸)をはじめとする中央官庁街。黄色のフランス植民地風建物が並ぶ。視界が開けると、見渡せるのはバーディン広場、全体の広さは35,000ヘクタール。その奥の中心部にホーチミン廟がある。1945年9月2日、この広場でホーチミン主席がベトナム民主共和国(当時)の独立宣言を読み上げた。 ホーチミン主席は1969年に79歳で南北統一を見ずに亡くなった。ホーチミン廟は、旧ソ連の援助で1975年の建国記念日に落成。30m四方の大理石造の廟である。内部のガラスケースに遺体が安置されている。見学時間を過ぎているのでバスの中から右手に眺めながら通り過ぎた。 バーディン広場からタンロン城跡地区(11世紀から19世紀に栄えた李朝の城郭)を通る。北門だけがバスから見える。紅河を渡って陶器の村バッチャンに向かう。 ロシア・モスクワの「赤の広場」のレーニン廟、中国・北京「天安門広場」の一角にある毛沢東紀念館、そしてハノイのホーチミン廟。共産主義国というのはどうゆうわけか、建国の英雄の遺体をガラスケースに入れていつまで国民に拝ませるつもりなのだろうか。 フランスと戦い、アメリカと戦い、忍耐に忍耐を重ねながら国家を指導した「ホーおじさん」と親しみを持って呼ばれたホーチミン主席の肖像画はいつも笑顔だ。タイヤのゴムでつくったサンダルを履いた好々爺,庶民的な暮らしをしながらベトナムの独立に尽くした清貧の人物,という印象がとても強い。荘厳な大理石の廟でガラスケースに納められて観覧されていることが果たしてベトナム国民にとってどう受け取られているのか。彼の遺言は遺骨を三分割して北部、中部、南部に納骨して欲しいということだったという。 ホーチミン廟近くの林の中にはホーチミンが11年間住んだという高床式二階建の質素なバンガロー風の家がありこれも見学できる。 d. 陶器の村バッチャン ハノイ中心街の混雑を抜けてホン河を渡り、ハノイから約15kmのホン河沿いにある陶器の村バッチャンに向かう。ホン河堤防上の道路は夕暮れがせまり、土手道から降りると自動車のヘッドライトをつけて道路舗装工事が行われていた。堤防道路からバッチャン村に降りたたときには、すっかり暗くなり、村の陶器店もほとんど店じまいしていた。ガイドさんが案内した店とその向かい側の店だけが開いていた。陶器職人達はすでに帰宅しており、売り子の娘さん達が案内してくれた。 バッチャンで陶器の生産が始まったとされるのは13世紀。バッチャンが繁栄したのは15世紀から16世紀。マック朝下で実施された商業抑制政策の廃止が、商業の活発化をもたらした頃で、この時代は海外との海上貿易が盛んになった。15~17世紀のバッチャンとハイフォンは、ベトナム陶磁の北部における生産拠点となった。海外への玄関口でもあるハイフォンまで流れ下るホン河沿いに位置していたバッチャンは、地理的な運にも恵まれていた。 17世紀にはいると、その繁栄に陰りが見え始め、1684年、清が渡航禁止条例を撤廃したので、良質の中国産陶器が海外に大量に流出し始めた。このため、ベトナム陶磁器は完成度の高い中国陶磁器に太刀打ちできなくなり、さらに、日本の鎖国政策の影響も受けることになった。日本はそれまで東南アジアからの輸入に頼っていた絹・砂糖・陶磁器などの国内での生産力が高まり、それらの物を輸入する必要性が薄れる一方で、ちょうどその時期、ベトナム・グエン朝は、貿易の抑制政策をとった。 このような歴史の流れが、ベトナム陶磁器を衰退へと追い込んだ。その後、大きな国内需要に支えられ、いまなおベトナム陶磁生産拠点としての地位を確保している。 ガイドさんの説明では、バッチャンは伝統的に村全体が陶器つくりで生活し、筆を使って手作業で模様を付けるので、バッチャン焼は同じものがひとつとしてないという。 以前は炉の煙害のため短命であった村の陶器職人達も、最近は電気炉が導入されて長命化、良質な陶器をつくっている。 日本にもバッチャン陶器類を販売する店がある。バッチャン陶器は下記のサイトにその一部が掲載されている。 バッチャン陶器類 http://www.hoalam.com/ http://www.rivet-jp.com/store/zakka/asia/ajiatouki/vietnam.html 参考サイト:バッチャンの歴史 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7245/t_vietnam_battrangflame.html e. 一路ハロンへ バッチャン村を出たのは夜7時過ぎ、これから東へ約180kmのハロン湾へとバスは向かう。暗闇の中、あまりすれ違う車もなくハロンのホテルに到着したのは午後10時近くになっていた。遅い夕食。ベトナム料理は、中国料理風の海鮮料理が多く美味だった。ハイネケンと地ビールで乾杯、東京の自宅を午前6時過ぎに出発した長い一日が終った。 f. ハロン湾、バイチャイ船着場へ 1月14日月曜日 午前8時、ホテルを出発。昨日同様、どんよりとした曇りである。バスで約15分、ハロン湾クルーズが出発するバイチャイの船着場に着く。 船着場には数十隻の木造の龍頭観光船やジャンク船が係留されている。ガイドさんが切符売場で切符を購入、それを各自に配布、船着場の桟橋開門は午前9時。桟橋は海風のためか肌寒くチャーターした観光船に足早に乗り込む。 ハロン(Halong)とは、「龍が降り立つ」(「ハ=降りる」と「ロン=龍」)という意味で、昔、外敵の侵略に悩まされていたこの地に、龍の親子が降り立ち、敵を打ち負かし、1000の宝玉を落としていった。それがハロン湾に浮かぶ大小の奇岩になったという伝説がある。 空から舞い降りた龍が、火を吐いて侵攻してきた中国船団を撃退し、龍の炎の舌が海に触れて、それが奇岩になったという伝説もある。 ハノイの武将ゴ・クエンが、奇岩や島の点在するハロン湾で、中国の船団に挑んで全滅させたのが、西暦938年。これをきっかけとして、1009年にハノイを首都とする李朝が成立した。 ハロン湾は広さ約1,500平方キロメートル。1994年、世界自然遺産に登録された。 ハロン湾は、北は遠く中国の桂林辺りから続く石灰岩の台地が長い年月のうちに沈降を繰り返し、海になった所である。数億年前、この地は海底にあり、生物の死骸がうずたかく積もって石灰岩が形成された。その後、海底が隆起して、石灰岩の山岳地帯となった。 風雨にさらされ、流水に浸食され、柔らかい地質の部分が削られていった。ある部分には鍾乳洞も形成され、硬い岩の部分だけが浸食されずに残った。こうしてできた石灰岩の岩峰が屹立するいわゆるカルスト地形が、地球の最後の氷河期以降、海中に没した。現在の2,000とも3,000ともいわれる数の島や奇岩はその頂部となって、ハロン湾に水墨画のような景観をつくりだした。 ハロン湾の衛星写真 http://www.vietnam-sketch.com/special/travel/2004/07/012.html 上の衛星写真と下の地名の入った地図を重ね合わせると、我々がクルーズで訪れたティエンクン(天空)島がハロン湾という字の左下横に矢印で示されている。 g. ハロン湾クルーズ ハロン湾クルーズは二種類ある。 一つはわずか3~4時間のクルーズ。バイチャイ船着場から約30分の最も近いThien Cung(天宮)島に上陸、Thien Long洞窟(鍾乳洞)を見学して、再び船に乗り、その奥の島々の間を巡りながら観光船のコックが腕を揮う早めの昼食をとって船着場に戻ってくるというもの。我々のツアーはこれであった。 もう一つはジャンク船に泊まるハロン湾クルーズで、丸1日約24時間ハロン湾に滞在できるため、定番コースでは行けない奥の方のSung Sot洞窟(鍾乳洞)を上陸見学、そことBo Hon島のLuon洞窟の中間地点で停泊し夜を明かす。2日目の午前中にLuon洞窟をくぐり、岩山に囲まれた神秘的な湖を見学。さらに同島の反対側に回り込んでTrinh Nu洞窟へ。そこから大きく島々を巡って帰るというコース。 現在ハロン湾の島々には観光でいける鍾乳洞は六ヶ所。今後埋もれている鍾乳洞が発見される可能性もある。 もうひとつ、デラックスコース。かつてハロン湾を行き来していた外輪船「エメロード」をモデルに復刻された船、「エメロードクラッシック」号。仏領インドシナ時代を彷彿させるクラシックなデザインの外観や内装、ハロン湾に浮かぶ船の中でも最大級の広い船内で、ゆったりとした一泊二日の旅を楽しむコースもある。 上記の衛星写真と地図を見比べると、その巡遊面積のちがいが一目瞭然、一泊二日コースでは五倍以上に広がる。ハロン湾の自然をじっくり観光したい向きには、こちらをお勧めする。 (つづく) |