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ベトナム・カンボジャ紀行
 ベトナム編 その3

阿部 賢一

2008年3月22日

j. ハノイへ戻る
 
約二時間半の短いハロン湾観光を終えて、バイチャイ船着場に戻る。バスに乗り込みこれからハノイ市内まで200km、4時間の行程である。昨夜の往路では暗くて見ることの出来なかった道路両側の景色を眺めることができる。

 ベトナム北部にはまだ高速道路、いわゆる自動車専用道路はない。街中をバイパスする道路もない。しかし、部分的には日本でいう高規格道路的な片側二車線の舗装道路や立体交差がある。

 ハロン湾から1時間も行かないところに火力発電所があり運転中であった。外観を見る限りソ連式発電所である。ハロン湾付近はホンゲイ炭という良質な無煙炭の発掘が19世紀末から始まっており、多分石炭火力発電所であろう。

 通り抜ける街中両側はほとんどが三階建てコンクリート造りの民家や事務所。周辺の田圃の中の農家もコンクリート建てがほとんどで木造建築はあまり見かけない。

 この辺の米作は二毛作。田圃は区画が小さく、牛耕と人力作業が主体で農業機械はまだ導入されていないようである。我々が訪れたときは農閑期、苗代もみあたらず、農作業をする人々も見当たらなかった。牛が数頭、田圃の中に放されているのが見える。

 しかし、ハノイに近づくにしたがって、のんびりとした田圃風景の中に突然造成中の工場団地や住宅団地が多くなる。良質の田圃がどんどんつぶされている。ガイドの女性は、良質な農地がどんどんなくなっていくことによる農業生産の減少を危惧していた。

 ハノイへの中間地点でトイレ休憩を兼ねた「ヒューマニティ・センター」(Hong Ngoc Humanity Center)へ立ち寄る。ここは、昨日の往路でも立ち寄ったところだ。昨夜は時間が遅いためトイレだけが利用できるようになっていた。

 ここは戦争孤児のための職業訓練所である。訓練生達が刺繍絵などの作業をしている。彼らの製作した作品などを販売する大きなスペースがある。運営は米国NGO。1996年10月、ベトナム戦争に参加したひとりの米軍兵士が戦争孤児や身体障害者が多いのにショックを受けて、彼らの自立支援訓練施設をつくったものである。開設当初は60名が入所したが現在では700名に達しており四ヶ所に訓練所がある。ここ、Hong Ngocの訓練生の67%は身体障害者、そして70%が女性である。彼女達の作業場がお土産品陳列場の中にあり、製作した刺繍絵がギャラリーに展示されている。ベトナムののどかな農村風景を刺繍した大作が多い。とても高価で手が出ないし、狭い我が家には展示する場所もない。
* Hong Ngoc, a social economic company
http://www.tdm2007.net/joomla/index.php?option
=com_content&task=view&id=35&Itemid=8


k. ホン河(紅河 Red River)ロンビエン橋(Cau Long Bien)
 ようやくホン河に戻ってきた。渡ればハノイ市内である。

 ハノイ付近でホン河に架かっている橋は現在4本である。そのうち1本は鉄道橋(ロンビエン橋----後述)。

 一番新しいのが2006年11月、日本のODAで竣工したタインチ橋*1である。2007年2月、開通式が行われた。全長3,084mのPC橋である。将来は6車線の高速道路になる。

 昨日、我々のバスがハノイ市内からホン河を渡り、堤防沿いに走って、陶器の村バッチャンの手前でくぐった橋がどうやらこのタインチ橋のようである。暗闇のなかで照明灯がついていたが通行する自動車は確認できなかった。取付道路がまだ工事中のような感じだった。工事の施工監理を行っているコンサルタントのHP*2によれば、「陸橋およびアクセス道路を建設中」となっている。

*1 http://www.smcon.co.jp/csr/1_3.html
*2 http://www.pcitokyo.co.jp/topics/news_070220.html

 タインチ橋建設と連絡道路建設の総工費は589億3,100万円、うち円借款として272億7,800万円が供与された*。そして、昨年1月、もう一本日本のODAで新しい橋の建設プロジェクトがスタートした(後述)。
* http://my.reset.jp/~adachihayao/070202A.htm

 チューンズーン橋(Cau Chuong Duong)を渡る。自動車とバイクの専用橋であり、ごった返しているので、ゆっくりと進む。ベトナム北部への幹線道路につながる重要な橋である。

 上流側にはロンビエン橋(Cau Long Bien)が見える。1902年竣工の古い鉄骨トラス型式の鉄道橋(歩行者と自転車も通行可能)である。渋滞で停止したバスの中から、一枚撮影した(下図)。

 鉄骨トラスが一部しか残っていない。ベトナム戦争時代、米軍北爆による破壊で河川部分ではこの部分が奇跡的に残った。上記の写真では見えないがハノイ市内側の河岸取付部分はリベット打ちの鉄骨トラス部分が大分残っている。

 北爆で破壊されても、その度にベトナムの工兵隊や人々が総出で修復、現在も鉄道が通る現役の幹線橋梁である。


紅河のロンビエン橋(Cau Long Bien) 2008/01/14


  出典:ロンビエン橋(Cau Long Bien)竣工プレート
http://www2.ttcn.ne.jp/~taktplus/24hanoireportlongbien.html

 ロンビエン橋についての山田耕治氏(日本工営)の報告抜粋を紹介する。
 この橋の建設を推進したフランス植民地時代のドーメル総督の名前を冠して当時ポール・ドーメル橋と呼ばれた。ドーメル橋の建設は1899 年に開始され、3 年後の1902年に竣工。総事業費は620万フラン、3,000人のベトナム人労働者が雇用された。全長1,682メートル。竣工プレートの[Dayde & Pille ]は19 世紀末から20世紀初頭にかけてフランスや国外で活躍し、「鉄の魔術師」といわれたフランスの土木技師グスターヴ・エッフェルの会社(エッフェル合資会社、Eiffel et CIE)との共同事業の実績もある建設会社である。

 この橋の設計者をパリ・エッフェル塔の設計者として知られるエッフェルである、としているものが少なくない。エッフェルは生涯に少なくとも7 つの橋梁の設計・建設に関わっており、鉄道橋はエッフェルが得意とするものであった。またエッフェルはかねてより外国での橋梁建設に関心をもっており、仏領コーチシナ(今のベトナム南部)の総督ド・ヴィレルとの対話をきっかけに、水路が網の目のように広がるアジアにおける経済的な架橋の方法として、1879年ころから組み立て式のトラス橋の構想をもっていたという。

 ドーメル橋の設計にエッフェルが関わったとする説が本当かどうかはよくわからない。1989年にはエッフェル塔が完成し、直後にエッフェルはパナマ運河の建設のために南米に渡航している。またその後に会社の資金をめぐる不祥事が発覚し、1893年には裁判所で有罪判決をうける。翌年には嫌疑がはれるのだが、エッフェルおよびその会社はひどい打撃を受けたと言う。エッフェル合資会社も橋梁の建設当時にはすでに事実上機能停止していた。こうしたことを勘案すると、この橋にエッフェル自身が直接関わったとは考えにくい。とはいえ、この橋が、エッフェルが中心の一人として確立した鉄のトラス構造を応用する、当時のフランスの建設工学の一つの姿を今に伝えていることは間違いない。
出典:エッフェルゆかりの「ロンビャン橋」
www.jcca.or.jp/kaishi/226/226_yamada.pdf
日本工営株式会社 開発計画部/ 専門部長 山田耕治
 第2次世界大戦が終結する1945年には、ベトナム独立を経て、ドーメル橋は現在の名称である「ロンビャン橋」と改名された。

 ベトナムニュース(2007/12/06)によれば、ハノイ市人民委員会と交通運輸省は老朽化が問題となっているロンビャン橋について、2020年までのハノイ市交通開発計画案の中で、オリジナルの形式を保持したまま新しい橋を建設する方式が提案されている。もう100年を過ぎた老朽橋梁がまだ現役であることに驚く。
出典:http://www.viet-jo.com/ditem.php?itemid=071205063210

l. 日本のODA橋梁プロジェクト
 深刻化しているハノイ市内の交通渋滞の緩和及びハノイ首都圏の経済活性化を目的とするホン河架橋については、日本のODAでニャッタン橋建設プロジェクトコンサルタント業務が昨年2007年1月7日に契約締結された。プロジェクト概要は、中央に5連の斜張橋(中央支間300m)を有する全長3.9kmの橋梁、取付道路およびインターチェンジからなる。円借款136億9,800万円(第一期)。完成は2010年10月のハノイ遷都千年記念を目指している。
出典:http://www.chodai.co.jp/topics/200701.htm

m. ハノイ旧市街

 ハノイ市内の雑踏の中に入り、旧市街のなかのお土産屋に立ち寄りショッピングタイム。ツアーでは欠かせない定番のコースである。グループの女性達はショッピングに夢中だが、興味のない筆者は時間を潰すのにいつも苦労する。

ハノイ旧市内の道路 2008/01/14


ハノイ旧市内 お土産屋の向かい側の商店 2008/01/14

 上の写真をよく見るとハングル文字の看板の店が二軒ある。韓国系商店か韓国観光客向けの商店かはわからないが、ベトナムに韓国勢が積極的に進出していることはたしかである。商店街の前の電柱には数え切れないほどの電線や電話線が架かっているのが見える。

 約30分のショッピングタイムが終って、ハノイ空港へとバスは市中を走り抜ける。空港まで約1時間。

 今回のベトナム旅行はハロン湾クルーズが目的の急いだ日程であったので、ハノイ市内はバスからの観光で終った。

n. ベトナムについての感想
 ベトナムの現代史は国家の存亡をかけた戦争連続の歴史である。

 1962年2月、アメリカがベトナムに介入、泥沼化したベトナム戦争も1975年4月、サイゴン陥落、南ベトナム崩壊。北ベトナムが全土を掌握してベトナム戦争が終結。

 翌1976年4月 南ベトナム消滅による南北統一。

 1978年12月、ベトナム軍がカンボジア侵攻を開始。当時、カンボジャのクメールルージュを中国が支援していた。

 1979年、中国との戦争(中越戦争-ベトナムのカンボジャ侵攻・占領に対して中国がベトナムに侵攻、その後1979年から1989年まで何回も国境で武力衝突を繰り返した)。

 1986年12月 社会主義型市場経済を目指すドイモイ(刷新)政策を開始し、改革・開放路線に踏み出す。

 1989年9月、国内経済が疲弊したベトナムは、カンボジアから完全撤兵。

 1991年11月、ドー・ムオイ書記長らが訪中し、中国との国交正常化。

 1995年7月、クリントン・アメリカ大統領はベトナムとの外交関係樹立を発表、両国の国交正常化。同年7月、東南アジア諸国連合(ASEAN)はベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認める。その後近隣諸国との関係修復し現在に至っている。

 バスのまどから垣間見たハノイの道路は人、バイク、車で溢れていた。長期にわたった戦争の影響は表面的には見えなかった。中国に集中していた外国資本による工場移転が、現在はベトナム、インドへと向いている。

 しかし、電力、交通、上下水道、港湾などのインフラ整備はやっと始まったという感じである。

 わが国の対ベトナム円借款プロジェクト一覧表(2007~2009年度)*をみると、61件もリストアップされている。
* http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/
oda/data/sonota/longlist/list.html


 昨年11月末、グエン・ミン・チエット国家主席がベトナムからの初の国賓として来日するなど両国の関係は緊密化している。

 2005年2月、ピースボート世界一周の途上、ベトナム中部のダナン港に寄港して市内を散策して以来、二度目のベトナム訪問であった。あのときダナン港は、他に船舶も停泊しておらず、埠頭が一ケ所、クレーンも一台、閑散としていた。港から市内中心街までは工場(倉庫?)が一つあるだけで、幅広いコンクリート舗装道路は通行車両もほとんどなく閑散としていた。

 ちょうど旧正月であったせいもある。しかも、市内の市場や商店街も正月休みのためかシャッターを下ろした店が多かった。賑やかさや華やかさなどの喧騒がない静かな街であった。ダナンがベトナム戦争で注目されたのは1965年3月、アメリカ海兵隊が上陸して、大規模な米軍基地を建設し、1967年には中央直轄市となったことである。しかし、1968年旧正月に南ベトナム解放民族戦線がダナン駐留米軍に大攻勢をかけたテト攻勢でベトナム戦争の激戦地となったところでもある。

 しかし、そのような戦争の跡はバスからは見えなかった。

 古代史ではチャンパ王国が栄えた場所でもあり、チャンパ王国の遺跡も残っている。市内のチャム博物館(Bao Tang Cham)を訪れてチャンパ王国の遺跡写真や、美術品を鑑賞した。

 このチャンバ王国はカンボジャにも侵攻し、アンコール・トムのバイヨン遺跡第一回廊にはその戦いの様子が壁画に刻まれているのを翌日見ることになる。

 ピースボートは寄港地で多くの交流イベントをしたが、ダナン青年団との交流では、アオザイ姿の若い女性達がはつらつとしていた。それを見て張り切ったピースボートの日本の若者達が、歌や踊りで大活躍してパーティが盛り上がった。

 しかし、そのときのダナンの印象は、米軍は戦争に来たが広い道路以外は何も残していない。ベトナムのインフラ開発はまだまだこれからで大変のようだなということだった。

 今回は、ハノイからハロン湾をバスで往復したが、バスから垣間見る限り、まだまだインフラ投資の必要性を痛感するとともに、すでに開発で様々な問題が出てくるようだということであった。中国の次はベトナムだと日本企業の進出も盛んになっているが、インフラとともに国民の教育水準、生活水準の向上が課題であろう。

 午後六時、ベトナム航空は出発、次の訪問地カンボジャのシェリムアップに向かった。

(ベトナム編おわり)