旧中山道、信州 宿場探訪 笠取峠・芦田宿(立科町) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 15, 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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◆笠取峠 私達は長久保宿を後に、国道142号線で立科方面に向かいます。 下の地図は長久保宿から芦田宿の間にある笠取峠の位置です。 芦田宿側に笠取峠松並木があります。 長久保宿から芦田宿の間にある笠取峠の位置。芦田宿側に笠取峠松並木があります。 出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図 途中、下の写真にあります笠取峠の松並木の隣を通ります。下の写真には笠取峠の松並木は映っていません。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 松並木を抜け、しばらく坂を登ると標高876mの笠取峠頂上となります。下の絵は、往事の笠取峠頂上です。 江戸時代の笠取峠(かさどりとうげ) 笠取峠(かさどりとうげ)とは、長野県北佐久郡立科町と長野県小県郡長和町との境にあります旧中山道と国道142号線の峠を意味します。 標高は約900mあります。芦田宿と長久保宿の間にあり、江戸時代は、旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと言われています。松並木が残っており往時の面影を留めています。 なお、松並木には、以下のような逸話が残っています。 江戸初期、二代将軍、徳川秀忠は、慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道に樹木を植えさせて並木をつくらせました。 この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられました。特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として広く知られています。 笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1km地点から笠取峠にかけて約2kmにわたっています。 言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、近隣の村々へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで手入れ・補植等管理されていました。現在総本数68本の松は、いずれも樹齢が150〜300年以上経たもので、その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものとなっています。 立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。 現在、笠取峠は、国道142号線を車で走れば容易に往来できます。しかし、江戸時代、中山道の笠取峠は歌川広重の絵「木曽街道六十九次・芦田」にあるように、和田峠同様、大変な難所であったようです。 それにしても広重の絵は、いつもディフォルメが鮮やかあり、シンボライズされています! 歌川広重「木曽街道六十九次・芦田 歌川広重「木曽街道六十九次・芦田 ◆芦田宿 さて笠取峠を通過すると立科町の芦田宿に向かいます。下の地図では、左下から右上に向かう黄色い道路が現在の中山道(国道142号線)です。道路沿いに笠取峠松並木という文字が見えます。また赤い●が芦田宿です。 出典:グーグルマップ 下の地図では、赤い線が旧中山道、黄色の142号線が国道です。 芦田宿(立科町) 出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図 下の地図は、現在の芦田宿です。上の黄色い道路が現在の中山道(国道142号線)、赤い●があります芦田宿の前の道が旧中山道です。 出典:グーグルマップ 芦田宿(あしだしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場。現在の長野県北佐久郡立科町芦田にあたります。
芦田宿は難所であった笠取峠の東の入口にあります。そこは生糸の産地でもありました。 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、芦田宿の宿内家数は80軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒で宿内人口は326人でした。 下は現在の芦田宿周辺の歴史的建造物です。 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 下は立科町役場周辺の街路景観です。往事の宿場町の町並みを想像していることが分かります。 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 以下の古い建造物は、金丸土屋旅館です。往事は本陣を構えていたようです。芦田宿は本陣1、脇本陣2、旅籠6軒であったそうです。 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 この土屋旅館の本家が本陣だったそうです。 土屋旅館は1階に8畳間が9ある大きな旅館です。 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 下はおそらく脇本陣山浦家です。なかなか立派な建物です。 出典:青山貞一 Nikon Coolpix S8 下が芦田宿の本陣跡です。 旧芦田宿本陣 芦田宿は芦田城芦田氏の浪人で芦田村の岩間忠助と茂田井村の土屋右京衛門が、北原・北林の地を開き、それまで芦田村の中心だった古町から人家を移して芦田宿が成立し、村の中心も移ってきました。 宿の開発に当たった土屋家が本陣に、問屋名主には岩間家がなったが、後年には小さな宿場だったので、本陣で問屋名主を兼ねることも多かったようです。 芦田宿は、天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳によると、宿の長さは東西6町32間、家数80(本陣1・脇本陣2・問屋2・旅籠6)・人数326で笠取峠を越えた長久保(長窪)宿に比べ小さく、笠取前の宿としての機能はあまりありませんでした。 つづく |