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公文書管理法修正案が衆院を通過したが、私の経験からすると、この法案にもあいかわらず日本の行政法の立法手続上の重大な課題が横たわっている。 そこで以下に日本の行政法が抱える重要な問題について私見を述べてみたい。 .... 公文書管理法にかぎらず、さまざまな行政法(手続法、実体法を含め)を見ていて強く感じるのは、日本の行政法は内閣提案法はもとより、議員提案法においてさえ(行政法分野で議員提案法案は滅多にないが)、議員、さらひ広く言えば立法府の目が届くのは、法の本体、すなわち「骨子」のみであり、法を実際に施行、運用する際に不可欠かつ重要となる政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針などをすべて行政(官僚)にまるなげしていることである。 たとえば環境法(行政法)のひとつである大気汚染防止法を例にとった場合、法律以外に以下に示すように、施行令、施行規則、省令、政令、総理府例、規制基準、措置令、指針、通知がある。 いずれの行政法も、法律本文の数倍から数10倍の法律に準ずるものがある。 以下は大気汚染防止法の構成要素であるが、それらは上記の施行令から通知と密接に関係している。政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針などがあって、法律は初めて所期の目的を達成することができるのである。 政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針の多くは技術的なものが多いが、だからといってこれらを行政だけにまるなげしたら、あとでトンデモないことになる。 たとえば聞き慣れない<告示>ひとつをとっても、これを官僚組織、役人にこれを任せるとどういうことになるかを巻末に示す。 また<施行令>の令を巻末に示す。 上記の例を見ただけで、いかに<施行令>や<告示>の内容が環境を守るためではなく、業者、事業者側に立ったものであるかが分かるというものである。 巻末の事例に示した環境省の告示や施行令は先進諸国の笑いものとなるトンデモないものであり、科学性、客観性もない。技術的な事項であるから行政に任せるという考えは非常に危険である。 日本では政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針は立法府と関係なく、行政府(官僚)が勝手につくっているが、このことが、さもなくとも問題が多い行政法を運用段階でさらにおかしく、骨抜きにしていると断言できる。 わが国では国会、立法府はよくいわれることだが、一部改正を含む行政法の立案は、ほぼそのすべてを内閣提案法案として行政府に丸投げしている。議員提案法案で制定された重要な行政法は、私が知る限りほんの少ししかない。 もちろん、行政府の官僚らは、それら行政法の立案の素案、原案を審議会、検討会、委員会などをたくみに使い、パブリックコメントにより国民に意見を求める。しかし、その実態は、御用学者は言いように官僚に利用されるだけ、パブリックコメントはアリバイ的に国民の声を聞きましたと利用されるだけである。さらにいえば、行政法の立案過程では、シンクタンクなど民間の調査研究機関も援用される。しかし、そこでまともな調査結果、研究結果がシンクタンクから行政に政策提言されても、官僚側の意向にそわないものは無視される。 一昨日も、大学で同僚との議論の中で、同僚は国の審議会で40の委員を掛け持っているひとがいるといる、と話していたが、40の委員をかけ持つまではなくとも、およそ理念、さらには審議会分野の見識、実務経験もあるとは思えない大学教授やいわゆる「有識者」が審議会を跋扈している実態があることは間違いない。 この春、立教大学で知人の日隅弁護士や醍醐東京大学大学院教授、服部立教大学教授らと、日本の審議会のあり方について忌憚のない議論をした。 ◆青山貞一:みんなのメディア作戦会議 第2弾参加記 会場に詰めかけたひとびとは私たちの発言に唖然としていた。私が官僚社会主義と揶揄する日本の立法、行政、司法の世界に類例のないひどい実態を理解する上で、この問題は看過できない。 上記のパネル討議では、日隅弁護士が翻訳し、私が監修した「審議会革命」という著作にある英国の公職任命コミッショナー制度をもとに政策提言を行ったが、この英国の制度と対比すると、日本の審議会委員の選定は、まさに官僚、役人のやりたい放題である。 ... だが、行政法の立案で丸投げされているのは法案だけではない。法の条項以外の重要部分、すなわち政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針などがすべて行政府(官僚)に丸投げされているである。 しかも、それら政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針を行政府の官僚がつくる際には、各種審議会はもとより委員会、検討会など何ら正当性も正統性もない場所で「御用学者」が利用されている。 御用学者の多くは当然のことながら、現場でそれらの行政法がどう活用されるか、その結果どうなるかについて専門的、実務的な知識も、いわゆる見識がほとんどない。 もとより行政はそれら御用学者に本質的な期待などもっていないといえる。自分たちの手の上で御用学者がうまくコントロールでき、アリバイづくりに黙って(黙っていなくとも)協力するひとを無責任につかっているだけだ。 すごい話しもある。立教大学で事例報告された東大大学院の醍醐教授は、国の財政関係の審議会だかその分科会で、議事録などのチェックを依頼され、チェックした。後にできあがった議事録を見たら肝心なところが直っていなかったという。官僚は自分たちに都合の悪い部分を勝手に削除したり、修正をしないというのである。 私の経験でも、審議会や委員会で相当こまかく、丁寧に指摘した部分が議事録では簡単に要約され、発言趣旨と異なるものとなっていることた多々あった。 国民的立場からすると、日本の立法や行政を少しでもマトモにするためには、「御用学者を飼う」ことをやめさせることがまず大切である。 そして、立法府を専門的に支援するシンクタンクを御用学者、御用研究者でない第三者的な専門家、研究者によって創設すべきである。それらの委員を選定する際にも公職任命コミッショナー制度を援用すべきである。 敏速な行政訴訟により明確な行政責任が問われる米国でも、立法府、行政府の公聴会で専門家の意見が公的に述べられる。しかし、日本的な審議会では司法はもとより委員の見識が問われる場面はほとんどない。日本では審議会は内閣提案法案の立法過程の一部に組み込まれており、行政(官僚)と座長、委員長、委員との間での茶番のデキレースが連日繰り広げられている(笑い)。 そもそも、それらの御用学者は何ら行政的責任を負っておらず、しかもそれらの責任を問えない司法構造になっているから、透明性も正当性もないひとびとが暗躍していることになる。 .... さて周知のように行政が上記の政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針を策定する際に行うこととされているパブリックコメントは、まさに国民や見識あるひとびとの不満へのガス抜き行為であり、いかにまともな指摘がなされたとしても行政に無視されるのはご存じの通りだ。 結果的に多くの法案、法では、法の本体に行政の裁量でいかようにも解釈、判断できる条項がステルス的に(笑い)組み込まれる。 その解釈について委員会でまともな審議を行った場合でも、後の政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針などの作成過程で無視ないし実質無視されることが多い。 判例的には、国会の委員会審議における政府の回答は法規定に準ずることとなっているが、現実に問題が起きたとき、それらの政府見解をもとに個別具体の事案を法的に判断させるのは至難の業である。 このように法案の審査過程でいくら理念、手続ともに形式上の修正があったとしても、私が指摘する上記の問題を本質的に変えない限り、日本における行政法は国民のためのにはならないと言うのがこの分野を研究してきた私の実感である。 司法の面から見てみると、米国のように行政訴訟が実体法だけでなく手続法についても可能な国家では、上記のような行政裁量に対し、行政訴訟を通じ、敏速な司法審査が行える可能性が高い。 しかし、日本ではご承知のようにその種の行政訴訟は、改正行政事件訴訟法にあっても原告的確性、処分性はじめ多くの法理が立ちはだかり、実質的に司法審査は困難どころか、できない現状がある。 私はここ10年、10本以上の行政訴訟、そのうちいくつかは改正行政事件訴訟法により新規訴訟類型に加わった差し止め請求、義務づけ訴訟に関与してきた。 そのうちのひとつ総務省相手にここ数年、実に115名の原告をそろえ行っている行政訴訟(行政不服審査)では、まさに国会、立法府で一切の審理なく、行政法(電波法)の省令を行政府が勝手に一部改正したことにを問題にした。 ※この総務省相手の行政訴訟、異議申し立ての詳細 、この行政訴訟(行政不服審査)では、総務省が省令を一部改正し、民間企業が開発する製品に型式指定(行政処分の一種)をすることで、メーカーは製品を市場化することになるが、その製品が電波環境に著しい(法的には甚大な)影響を及ぼすことが問題となっている。 原告側は、当初、型式指定という行政処分の差し止め請求、後に行政処分の取り消し訴訟を提起している。 このように総務省相手に行政訴訟を提起した大きな目的は、当然その型式指定が環境に甚大な影響を及ぼす可能性があるから(想定されるから)である。 だが、当該行政訴訟は、総務省の言い分、すなわち採決主義、前置主義を裁判所が認めたため、何と当初の行政訴訟は、総務省所管の審議会への異議申し立てへと切り替えられてしまった。 もとより法改正することなく、霞ヶ関、官僚組織の省令の一部改正によって甚大な影響をもたらす可能性が大きな行政処分を立法府の審議なく、総務省が行ったことが問題ある。それに対し行政訴訟を提起したにもかかわらず、司法(東京地裁、東京高裁)は、総務省(行政)が管轄する電波監理審議会に判断を差し戻したのである。 これひとつだけ見ても、立法府だけでなく、司法も行政に蹂躙され、おもねているかが分かるというものだ。 かくしてもともと行政主導の内閣提案法で自作自演的に提案し、立法府がまともな審議もせず(しても実質的には不変?)に衆参を通過して制定された法に、事後的に行政府が良いように政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針を付加していることが、あとになって行政の裁量による暴走を許す結果となっているのだ。 .... 行政法と言えば環境法においても上記の諸点は顕著である。 法学者の圧倒的多くはできあがった行政法の解釈、せいぜい運用事例の紹介的解釈ばかりをしている。しかし、環境法でも政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針で行政(官僚)はやりたい放題している。 したがって、仮に立派な理念法や基本法が修辞学的にあっても、実際に行政法が効力を発揮しなければならない場面ではザルにつぐザルとなっているは、たとえば廃棄物処理法をみれば一目瞭然である。ここにメスを入れずして、日本でまともな行政法を制定することは今後ともできないだろう。 過日、私が基調講演を行ったムダな公共事業の徹底見直しに関する集会で上記を述べたところ、菅直人代表代行(当時)は、「日本には立法府がない」という趣旨の発言をしていた。G7諸国にくらべ突出した歳費、関連経費をもらっている国会議員の発言、それも立場ある国会議員の発言とは思えない「ひとごと発言」に私はおどろきいた。 しかし、考えてみればたとえ野党といえど国会議員が行政法の成り立ちとその課題をしっかりと学習し、しかも司法審査を前提に政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針などを含む行政法の成り立ちを問題視している国会議員がどれだけいるのかについて首をかしげざるを得ない。 これは私が直接かかわった議員提案法案、しかも参議院発、野党発で制定された環境法においても同様だった(おそらくこの法案は日本の環境法で唯一の議員提案法案か)。国会議員は自分たちが関与し議員提案が制定したことで満足していたが、案の定、官僚はその後重要な部分でいかに骨抜きにするかに奔走していた。 これについても私は助言したが、立法手続上困難なものばかりだった。もちろん、改正時に修正することは可能である。また環境法に限らず行政法では10年後には立法時に付帯決議がつけられるが、これまた野党対策のガス抜きとなっていて、抜本的に改正されることはまずない。 立法府の中核にいる政治家が堂々とそのような発言をするくらいなので、いまのままでは立法府が行政府をコントロールすることは到底不可能だ。 立法府(そして司法)が行政府(官僚)に実質的に蹂躙される状態は今のままでは今後とも変わらないだろう。 要約的に言えば、法案の条項は、人間で言えばいわば「骨」にすぎない。もちろん「骨」は骨格をなすという意味で重要である。しかし、いくらその「骨」の部分を議員立法で立法府側がつくったとしても、人間は当然のこととして「骨」だけでは生きれない。 では「皮」、「肉」そして「血液」などの部分は誰が作っているのかと問えば、それらは役人(官僚)がつくっているのである。これではいつになってもまともな人間にはならない。 役人は政令、省令、施行規則、告示、運用上の規則、規定、技術指針で何をしているかと言えば、自分たちの良いようにし、官僚組織の権益に沿って法を「骨」ぬきをしているのである。 ただ、大部分の行政法はもともと内閣提案法として役人が立案し、衆議院あるいは参議院の法制局が仕上げているので、日本の行政法にはまともな「骨」すらない(大笑い)ことになる。仮に議員提案法案が増えてもの話しである。念のため。 日本の立法において、あいかわらずないものは理念だ。しかし、仮に崇高な理念や基本方針は不可欠だが、仮にそれが「骨」に含まれていたとしても、それを現場で具体的に担保する「皮」「肉」そして「血液」がなければ、まさに「絵に描いた餅」となる。食べれなくとも餅はあった方がよいのでは、と言われれば否定はしないが、単なる修辞学的なものでは意味も価値もない。 .... 振り返ってより本質的に何が問題であるかと言えば、国会、立法府が本筋の立法において思考停止、機能不全していることが最大の問題である。 上述してきたように行政法では、「骨」そのものも大部分は官僚がつくり、「骨」以外についてはもともと官僚が自分たちに都合の良いようにつくっている。もちろん、霞ヶ関の官僚にとっての自分たちは、国民にとって大部分は良いことにはならないことが問題である。 ではどうすればよいか、もちろん立法府が議員立法などを通じて立法府の機能を回復することが最重要である。 さらに、少なくとも政省令など重要な部分についても立法府の十分な審議、チェックをいれることが問われる。 さらにやはり行政訴訟をもっと容易に提起できるように行政事件訴訟法を改正し、敏速な司法審査を行うことが重要である。裁判の場に、霞ヶ関の官僚を引きずり出し、徹底した反対尋問を行える弁護士をつくることも肝心である。多くの弁護士は、行政訴訟は難しく、勝ち目がなく、カネにならないとして関与したがらない。 そのためには、立法府同様に思考停止、機能不全の大マスコミも、この分野で少しは機能して欲しいと思い(笑い)。 以上 ■環境省<告示>の例 重金属汚染の測定分析方法 詳細重金属の測定分析方法には大別して溶出分析と含有分析がある。 日本の重金属分析では、従来、いわゆる溶出分析に対応した基準しかなかった。しかも日本の溶出分析を定める環境省告示では、「試料液をpH5.6から6.3に調整し」とある。 これについて梶山正三氏(弁護士、理学博士)は以下のように述べている。 「日本の溶出分析は非常に問題があるということを私はどこでも言っている。日本の溶出分析は、要するに、土壌なり底質から重金属がどのように溶け出してくるのか、試料を乾かし、細かくし、それをpH(ペーハー)5.8〜6.3溶液のなかにいれ、それを6時間ふるわけです。通常は酸性でやらなくてはいけません。というのは、重金属はアルカリ性では溶け出ないからです。だから酸性で溶け出してくるかどうかが重要なのですがが、環境庁告示第13号、第46号ではpHが酸性でないため原理的に溶出しないのです。環境庁告示第46号は土壌環境基準で、第13号が廃棄物をそのままうめていいかどうか、有害性があるかどうかというのをみるときに使います。どちらも液pH(ペーハー)は5.8〜6.3です。それに対してTCLPはアメリカの方法、Total Availabilityはオランダの方法です。オランダではpH7と4で行い両方合わせ何もでなくなるまで分析するという、しつこい方法となっています。またスイスは、だいたい4で行っています。日本はだいたい6です。pHが2違うとだいたい100倍違います。それで、この上のグラフですが、だいたいpHペーハーが2違うと溶け出してくる濃度が100倍違います。そういうデータなんです。」
一方、先進各国における重金属の分析は含有分析が主流となっている。 理由は、溶出の方法以外に、土壌、底質などサンプルの種類、性質により溶出濃度が著しく異なることがあるからだ。 |