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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

初夏のアマルフィ海岸を行く
 7日目

アトラーニの概要と歴史

    青山貞一・池田こみち  2013年6月14日
 
独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁


 2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー>


    
左はアマルフィの位置 アトラーニの紋章  イタリア国旗

◆アトラーニの概要と歴史〜イタリアで最も小さなコムーネ〜


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-6-7

 アトラーニははじめてですので、概要と歴史について紹介します。

 アトラーニ( Atrani)は、イタリア共和国カンパニア州サレルノ県にある人口わずか約900人の基礎自治体(コムーネ)です。

 峻険なアマルフィ海岸に位置する小さな町で、アマルフィの街の東隣にあります。面積は 0.12 km2 しかなく、イタリアで最も面積の小さなコムーネです。


アトラーニの人口推移  Source:Italiano Wikipedia

 アトラーニはサレルノ県北西部、アマルフィ海岸にある町の一つで西隣のアマルフィとは岬ひとつを隔てた関係にあります。両社の距離はわずか1km足らずです。徒歩でも10分程度と近接しています。一方、県都サレルノからは西南西へ約15kmあり、ソレントからは東へ約20kmとなります。さらに、州都ナポリからは東南へ約37kmの距離にあります。

 アトラーニは、峻険なアマルフィ海岸の入江に築かれた街で、ティレニア海に面しています。

 北にスカーラ、ラヴェッロといった高台にあるコムーネと隣接しており、町を見下ろす山中に散在するこれらのコムーネの集落とは、400m近い標高差があり、這い上がる道路によって両コムーネはつながっています。

 アトラーニは、「イタリアの最も美しい村」クラブ加盟コムーネです。その街並みの美しさから、たびたび映画やコマーシャルの撮影に用いられています。

 後述するようにアトラーニには以下の著名で歴史的に重要な教会がふたつあります。

 アトラーニにあるサンタ・マリーア・マッダレーナ教会(La chiesa di Santa Maria Maddalena)は、13世紀建立され、海に面して建ち、バロック様式のファサードとマジョリカ式のドーム、鐘楼を持っています。

 サン・サルバトーレ教会(La chiesa di San Salvatore de' Bireto)は10世紀建立されました。アマルフィ共和国のドージェは、この教会で権威の証となる帽子(地元の言葉ではbireto)を授けられることになっています。


アトラーニ。谷間の背後はスカーラ(左上)とラヴェッロ(右上) Source:Wikipedia

■アトラーニの歴史

●初期の歴史とローマ時代

 アトラーニの起源はいまだ不明です。考古学の研究では、紀元前1世紀からの遺跡を発見しているとされています。

 当時、ローマ人の別荘地としてのアマルフィ海岸の地域は存在していました。アトラーニは西暦79年に起きたヴェスビオス火山の噴出による灰や破片で覆われたといいます。

 灰や破片はアトラーニを囲む周辺の山々に堆積し、その後、それらの灰や破片は谷間に投棄されたそうです。

 ポンペイのローマ人の別荘の資料から現在のアトラーニの周辺の山々に人が定住していたとされています。 このことは以下のヴェスビオ山大噴火の影響範囲の推定図からも明らかです。


ヴェスビオ山大噴火の影響範囲 L'eruzione del 79AD.


Eruzione del Vesuvio del 1760-1761 Source:Wikipedia Italiano

 5世紀、アトラーニにいた原住民はラッタリ山脈地方に逃げ、集落をつくり定住していました。アトラーニの存在を初めて文書化しているのは、西暦596年の日付の司教から教皇グレゴリウスの手紙であるとされています。


●アマルフィ公国時代


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-6-7


アトラーニ北部の住宅地  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アトラーニ
出典:Google Mapストリートビュー


アトラーニ、背景にある山脈はリッテラリー山脈
出典:Google Mapストリートビュー

 アマルフィ公国にはポジターノからアジェーロラ、ピモンテ、チェターラまでまで多数の地域が加わっていましたが、アマルフィ公国の領土にあってアトラーニはアマルフィとともに「双子の都市」としてとりわけ高い位置にあったとされています。

 アトラーニには、アマルフィで最も豊かで強力な一族であるパンタ家らが居住していました。アマルフィとアトラーニはアマフルィ公国の元首、知事、裁判官などの指導者を選任又は解任する権利を持っていました。公国における富と力の象徴である元首(公爵)はアトラーニにあるサルバトーレ・デ・ヴィレクトという礼拝堂で"ビレクト(Birecto)"という帽子を授与されていたことからも分かります。

 当時のアトラーニは現在の領域よりも広く、大きな要塞で防御されていました。現在、聖マグダラのマリア教会が立っている岬に大きな城がありましたが、1135年と1137年にピサから攻撃をうけデ・リベーラドン・パラファンによって500年に建てられた"塚"や"聖フランシスコ"海岸にあった塔が破壊されました。


アマルフィ市役所にある古代アマルフィ海洋共和国の紋章
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8  2011年3月


アトラーニはアマルフィとともに「双子の都市」、そのアマルフィ大聖堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-6-7


現在のアマルフィ
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008年3月

 アトラーニは歴史的にアマルフィ公国の経済と社会の発展に協力してきたのですが、その背景にはアトラーニはアマルフィ海岸の中心にあり、アマルフィと双子の関係をもっているというプライドがあったからと思われます。

 アトラーニには、「布」、「生地」、「パスタ」の工場をもつなど生活や経済面でもアマルフィ公国を支えてきたと言えます。

 アトラーニは宗教生活でも充実しており、多くの教会、修道院、礼拝堂がありました。モンテマッジョーレには6つの修道院がありましたが、1343年9月の大津波で海岸線が水没し、アマルフィとアトラーニの宗教施設は破壊されました。その後のピサによる連続襲撃によって12世紀以降の数年間のアトラーニとアマフルィのあらゆる活動は沈静化し、弱体化しました。


アトラーニ。谷間の背後はスカーラ(左上)とラヴェッロ(右上) Source:Wikipedia


 1620年、ナポリで生まれたアントニア・ガルガーノの息子は密輸業者として妻と一緒にアウト刑務所に投獄されましたが、彼はその後、いわゆる"いちじくの反乱"のリーダーとなりました。この反乱はナポリ王国全体に広がり、アマルフィにも及びましだ。そして反乱運動はフランスの庇護のもとでリアル共和国を宣言し、スペインの攻撃に屈する翌年の4月まで続きました。

 17世紀、大疫病のペストがイタリア全土に広がり、アマルフィのアトラーニでも多くの犠牲者だしました。

 1807年6月、ジョセフ・ボナパルト、ナポリ王は、アマルフィ海岸を公式訪問しアマルフィとアトラーニの美しさに心を打たれ、ナポリからアマルフィへの道路の建設を約束したとされています。


アトラーニ遠景、背景にある山脈はリッテラリー山脈
出典:Google Mapストリートビュー

■2010年の洪水

 2010年9月10日に局地的集中豪雨で大洪水が起き、アトラーニの浜辺からまちの主な道路に沿って海水が進入し、町中が水浸しとなりました。銀行はじめさまざまな施設が浸水しました。そのなかでバーで働いていたフランチェスカマンシという名の女性が行方不明となっています。

 土砂崩れがあり、大量の泥が一気にアトラーニの地先の海浜に向かい流出し、夕方6時頃に市庁舎を出た市長は豪雨で傘が開けなかったと話しています。この豪雨はアトラーニの集中豪雨であり、1km西のアマルフィではそれほどの豪雨はなかったといいます。

 私達は2011年3月にアトラーニの高架橋を車で通過しましたが、アトラーニの海浜側は大規模な修復工事をしていました。おそらく2011年9月の大洪水の後遺症への対応だと思います。


アトラーニの干潟(潮が引いた状態の地先) Source:Wikipedia Italiano

つづく