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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

初夏のアマルフィ海岸を行く
 7日目

ヴィエトリ・スル・マーレの歴史と地形

    青山貞一・池田こみち  2013年6月14日
 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁


 2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー>

  
アマルフィの位置。 ヴィエトリの紋章 イタリア国旗

◆ヴィエトリ・スル・マーレの歴史

 ヴィエトリ・スル・マーレの歴史は他民族からの攻撃や略奪が多く、まちの住民の多くは虐殺もされています。

 以下は「イタリア旅行情報サイトJAPAN-ITALY Travel On-line アマルフィコースト便り Dalla Costa d'Amalfi」からの引用です。

◆悲劇に満ちたヴィエトリの歴史

 実はヴィエトリ・スル・マーレは他民族の突撃による荒廃の多い町でした。もともとは漁業の盛んなマルチーナという名のエトルリアの町だったのですが、西暦455年蛮族からの突撃を受けます。

 その後もさらにロンバルド族により何度も略奪されますが、数世紀後虐殺をまぬがれた生存者により建て直され、現在の名称ヴィエトリに至るヴェーテレという町が作られました。しかし、17世紀サヴォイア族に指揮されたフランス船団による襲撃を受け、町は略奪されてしまいます。

 こうした幾度もの襲撃を受けながらも、中世時にはヴィエトリの人々は現在私達が目にするヴィエトリ陶器の原型である彩色を施した陶器の技術や、アマルフィコーストの多くの建築物に見られるマジョリカ陶器の技術を習得していました。よって、現在ではヴィエトリ陶器は悲劇から生まれた・・・などと言われることがしばしばあります。

出典:イタリア旅行情報サイトJAPAN-ITALY Travel On-line
    アマルフィコースト便り Dalla Costa d'Amalfi

 以下はヴィエトリ・スル・マーレの歴史を紹介する一文です。

 サレルノからドライブすると、ヴィエトリ・スル・マーレは、アマルフィ海岸にならぶ13の真珠の最初の一粒で、美しく調和の取れた湾の一番奥まったところ、サン・リベラトーレ山の麓、ボネア川の谷の広い部分を占める位置にあります。

 その歴史が15世紀にまで遡るこの町の多彩な陶芸製品は世界的に名を馳せています。

 ギリシャの勇者ジェイソンが金の羊毛を探して放浪しながら、古い「マルシア」(おそらく、ヴィエトリ・スル・マーレ地区の現在のマリーナに当たる) の海岸で発見されたという伝説があります。

 この町は、エトラスカン(エトルリア人)を起源とし、海岸エリアの後背地、すなわちカーヴァ・ディ/ティレーニと交易を行う上で、海の商業交通の前哨地点として重要な役割を果たしてきたものと考えられます。

 ローマ人に占領され(この時代以降は、マリーナの村から発掘されたから多数の考古学的資料があります)、その後ロンバルドが支配した時代には、ヴィエトリ・スル・マーレはサレルノ市の郊外に位置づけられました。


◆ヴィエトリ・スル/マーレの地形

 下はヴィエトリ・スル・マーレの地形です。これほど複雑な地形をもつアマルフィ海岸のコムーネは他にありません。おそらく手前にある高い山がサン・リベラトーレ山です。

 これらの複雑な地形がヴィエトリ・スル・マーレの希有で秀逸な景観を想像していると言ってもよいでしょう。


ヴィエリトリ・スル・マーレの立体地図  手前がサレルノ側
出典:グールアース

 おそらく下の写真の山がサン・リベラトーレ山です。群馬県の長野原町にある丸岩山に似ています。実はこの山の山頂には、イルミネーションが付いた十字架があります。


おそらく写真の山がサン・リベラトーレ山
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


山頂にイルミネーションが付いた十字架があります
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


ヴィエリトリ・スル・マーレの立体地図  手前がアマルフィ側
出典:グールアース


ヴィエリトリ・スル・マーレの立体地図  
手前はラッテリー山脈側、左下はコムーネのカーヴァ、上側はサレルノ市
出典:グールアース

 下の写真はおそらくボネア川です。残念ながら現在は三面護岸となっています。


ヴィエトリ・スル・マーレを流れサレルノ湾に注ぐボネア川
出典:グーグルマップ


つづく