この春のゴールデンウィークに北軽井沢に1週間ほどでかけた。浅間牧場入り口の軽食の店の外の壁に、「草軽鉄道」の新聞記事やモノクロームの古い写真が沢山が張ってあった。 いうまでもなく、「草軽鉄道」は長野県の軽井沢町と群馬県の草津町を結んでいた鉄道である。記事や写真の多くは、「草軽鉄道」が昭和37年に廃業することに関連したものであり、北軽井沢駅を写したものであった。 草軽鉄道の草津温泉駅跡 現在、軽井沢から草津までは、西武系の路線バスなど、バス以外の公共機関はない。まだ現役の吾妻線のたとえば万座鹿沢口駅からは、草津行きそして北軽井沢経由で軽井沢に行くバスが1時間に1、2本ある程度だ。
しかし、よく考えてみれば、今でこそこの種の鉄道が軽井沢から北軽井沢を経由し草津まであったら、別荘族だけでなく、草津の温泉めぐりをするひと、スキーを楽しむ人、本物の自然景観を楽しみたい人に、どんなにありがたがれるのではないか、など勝手に考えてしまう。 確かに保養所や別荘から上信越高原国立公園や浅間山系、白根山系などには乗用車がないとどうしようもないが、もし「草軽鉄道」があれば、いろいろな楽しみ方ができるだろう。 その意味で、21世紀、地球温暖化時代を迎えた今でこそ、この種の公共輸送機関の出番ではないだろうか? 草軽交通のWebによれば、「草軽電鉄の創業は、スイスの登山電車のように高原の避暑地へ、又、草津温泉へと旅客を導くというアイデアに端を発し、さまざまな努力によって会社設立へこぎつけた。明治45年2月草津軽便鉄道株式会社発起人一同による「創立の趣旨」の中には次のように書かれている。「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資するところあらんとする。」とある。 さらに、大正14年草軽電気鉄道と社名を変更。大正15年9月、軽井沢〜草津間、全長55.5kmが全線開通し、『四千万尺高原の遊覧列車』をキャッチフレーズに草軽電鉄は活気にあふれた時代を迎えた。多くの文士や著名人が軽井沢、草津を訪れた。湯治客や避暑客を乗せて走った草軽の電車は、戦時下、戦地へ赴く出征兵士達を運ぶようになった。とある。まさに日本近代の歴史がここに見てとれる。 昭和37年廃線の後に 草軽電気鉄道株式会社より発行された「草軽電鉄の歩み」に路線図があるので以下に示す。 草軽電気鉄道株式会社より発行された「草軽電鉄の歩み」より転載 当初から高原の避暑地や草津温泉に旅客を導くという目的があったわけだ。 以下は最新のデジタル技術で再生修復してみた「草軽鉄道」モノクローム写真。 往年の「草軽鉄道」 往年の「草軽鉄道」 |