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中津で探した「福沢諭吉」
の知られざる「3著作」

青山貞一

掲載日:2008年1月8日
2008年7月12日拡充

 2008年正月の5日と6日、福岡県の豊前市と大分県の中津市に九州自動車道路に関する環境調査ででかけた。

 豊前市と中津市は、もともと一体だったようだが、廃藩置県以降、福岡側にあった中津は大分県の北端の市町村に組み入れられた。平成の大合併時、長野県と岐阜県の間で県を超える合併問題があったが、似たような話がここでもあるようだ。

 ところで中津市と言えば、幕末の中津藩時代、父親が死亡し1歳6ヶ月の福沢諭吉が母親ら6人で移り住んだ町として知られている。


中津市教育委員会による福沢公園の説明


福沢諭吉記念館の一角にある旧宅の図


福沢諭吉記念館の一角にある福沢諭吉宅後記念碑


福沢諭吉記念館の一角にある福沢諭吉先生像

 豊前と中津で環境調査が一段落した6日午後、中津市にある福沢諭吉記念館(正式には、国指定史跡文化財、福沢諭吉旧居福沢記念館)を訪問した。訪問時、私一人しか記念館にいなかった。

出典:福沢記念館入場券の表紙

 福沢諭吉と言えば、「学問のすすめ」など、品行方正で学問一辺倒と思われがちだが、その実、幼少から少年時代は勉強好きでもなく、やんちゃな少年だったそうだ。

 私自身、福沢諭吉というと「脱亜入欧」はじめ日本の隣国アジア諸国を軽視してきた元祖、欧米いや米国追随、さらに言えば「西欧カブレ」という先入観をもっていた。丸山正男の著作、評論などを通じてその感を強くしていた。さらに言えば、「民営化」の元祖、というイメージも強い。実際、福沢は多くのひとびとに「西欧カブレ」と思われ、暗殺の危機に何度もあっている。


福沢諭吉の主な著作:出典:福沢記念館

 その福沢諭吉の著作は中津市学校開設時に用いた「学問のすすめ」が有名だ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというへり...」は福沢の代名詞とさえなっている。


国指定史跡文化財、福沢諭吉旧居福沢記念館の内部

 それ以外にも「西洋事情」、「文明論之概略」、「帳合之法」、「修身要領」、「上論條例」など多くの著作があることは周知の通りである。

 今回、福沢諭吉記念館を訪問した際、福沢が当時、執筆した作品のなかであまり知られていない秀逸というか先見の明ある著作を発見した。以下にそのいくつかを紹介したい。福沢が明治初期にすでに現在の日本を見据えていたことが分かる。

(1)分権論

 福沢は明治10年に明治政府の極度な中央集権制の弊害を見抜いていた。著作における「人民自治の気風をおこすべきこと」という下りがすばらしい。分権論は今に言う道州制というよりは、米国、ドイツなどの連邦制を眼中においているようだ。残念ながら日本は現在に至まで世界に冠たる中央集権国家、それも官僚社会主義国家となっている。

出典:福沢記念館


出典:福沢記念館

(2)学者安心論
 
 まさに御用学者批判である。「民間に独立して思うところを主張すべきである」という下りがすばらしい。現代、学者の多くがいわゆる御用学者と成り下がっている。それを明治初期に見据えていた。

出典:福沢記念館


出典:福沢記念館

(3)士人処世論

 これもまさにその通りであり、現代にそのまま当てはまる。過日、沖縄大学の桜井学長と那覇で話した折、今、沖縄県で学生に将来何になりたいかと聞けば、役人になりたいという返事が返ってくるという。福沢は、当時の知識人が立身の道をひたすら官途(役人)に求め政府の小吏となり寄らば大樹となることに痛烈な批判を浴びせている。そのうえで、役人にならずとも、民には無限の可能性があることを力説している。まさのその通りである。

出典:福沢記念館


出典:福沢記念館

 下の写真は福沢諭吉記念館内にある蔵。


中津の福沢諭吉宅にある蔵

 下は家族と一緒に中津で暮らした家の内部。非常に質素なものである。


中津の福沢諭吉宅の内部

 下は中津の福沢諭吉宅の外観


中津の福沢諭吉宅の外観