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中津の歴史探訪

B大江医家史料館

青山貞一

掲載日:2008年7月13日
独立系メディア E-wave Tokyo
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●大江医家史料館


 
中津は江戸の昔から、蘭学をもとに日本の医学、歯学、医療の礎をなした偉人を多数輩出している。その起点となっている寺町の東林寺の東はずれにある大江医家史料館に行ってみた。

 中津には歴史民俗資料館の分館として村上医家史料館がある。同分館には中津における医学・蘭学の歴史や医家の文物を展示し、我が国の幕末、明治維新における医学や蘭学史で日本有数の施設と認知されている。

 これに対し、中津市の寺町のはずれにある大江医家史料館には、「解体新書」の刊行などのオランダ語の医学書の翻訳から始まる蘭学者の誕生や漢方と西洋医学を取り入れた「漢蘭折衷派」の代表華岡青洲の資料、さらに明治に入ってからの歯科医第1号の小幡英之助や心臓拍動の謎を解明した田原淳などの資料が展示されている。

 その他、平成15年3月に寄贈された「解体新書」(1774)以前に、長崎のオランダ通司によって翻訳された解剖書の図版「和蘭全躯内外分合図(1682年ころ完成し、1772年刊行)も展示している。
 
 筆者は福沢記念館、寺町、中津城などを視察、見学した後、大江医家史料館を訪問した。玄関でベルを押すと、学芸員(?)が戸を開けてくれ、靴を脱いで史料館に入る。依頼すると無料で学芸員が丁寧に説明をしてくれる。また庭には薬草園もある。こちらも依頼すると詳しい説明をしてくれる。

 「医は仁ならずの術 務めて仁をなさんと欲す」 この言葉は、宝暦8年(1758)初代大江玄仙以来、代々御典医を勤めた大江医家に伝えられた言葉であるという。 

 医者や医学関係者は、是非一度この大江医家史料を訪問して欲しい。入館料は大人210円。

 参照:入館時に配付されるパンフレット

 ※大江医家史料館にいってみよう(PDF)
   史料館の住所:大分県中津市鷹匠町906
   史料館の電話番号:0979-22-0049


中津の寺町のはずれにある大江医家史料館
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10


入館するときは右のインターフォンで連絡する
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 ●史料館の主な展示物
  • 解体新書
  • 重訂 解体新書
  • 和蘭全躯内外分号図オランダぜんくないがいぶんごうず
  • 華岡青洲画像
  • 華岡青洲所診画帳
  • 大江雲沢塾入門帳
  • 大江医家医則  など                                      
     以下は中津の主な医学関係者。

    ◆村上宗伯 〜寛文10年(1670)
    ◆根来東叔 享保6年(1721)頃〜天明7年(1787) 眼科医
    ◆前野良沢 享保8年(1723)〜享和3年(1803) )「解体新書」を刊行
    ◆田中信平 寛延元年(1748)〜文政7年(1824) 医師
    ◆辛島正庵 安永8年(1779)〜安政4年(1857) 蘭方医
    ◆村上玄水 天明元年(1781)〜天保14年(1843) 蘭方医
    ◆大江春塘 天明7年(1787)〜弘化元年(1844) 蘭方医
    ◆大江雲沢 文政5年(1822)〜明治32年(1899) 医学校及び病院を開設
    ◆村上田長 天保10年(1839)〜明治39年(1906) 田舎新聞を創刊
    ◆田代基徳 天保10年(1839)〜明治31年(1898) 外科医
    ◆藤野玄洋 天保11年(1840)〜明治20年(1887) 医学校及び病院の院長
    ◆小幡英之助 嘉永3年(1850)〜明治42年(1909) 歯科医
    ◆田代義徳 元治元年(1864)〜昭和13年(1938) 整形外科医
    ◆田原 淳 明治6年(1873)〜昭和27年(1952) 病理学者


    ●蘭学者の系譜と

     下は中津城の場内に掲示されている「日本の蘭学者」の系譜。よく見ると、福沢諭吉、村上玄水など中津出身者、関係者が多いことが分かる。

    ※中津の蘭学者一覧

    福沢諭吉、田代基徳(外科)、小幡英之助(歯科)、奥平昌高(蘭学者)、辛島正庵(蘭方医)、村上玄水(医者)白石照山(儒学者・教育者)、大江雲沢(藩医)、前野良沢(蘭学者、藩医)、杉田玄白(外科医)、村上田長(医者、ジャーナリスト、教育者)、田原淳(心臓病理学)ら

蘭学者

 蘭学を修め研究した人。江戸時代にを開いて蘭学教育を行った人について言うことが多い。医学について蘭学を実践する医師を漢方医に対して蘭方医という。蘭方医が蘭学者であることも多いが、オランダ流医学を習っただけの蘭方医は蘭学者に含まれない。また長崎通詞は、蘭学に対し学問的に貢献した場合には蘭学者であると言える。

出典:Wikipedia

前野 良沢

 享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日))は、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。号は蘭化。

 前の良沢は、母方の大叔父の宮田全沢に養われる。1769年(明和6年)蘭学を志して、晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。

 留学中に手に入れた西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周ら盟友と3年5ヶ月で翻訳し『解体新書』を編纂した。

 しかし、解体新書発行当時、その業績は知られておらず(発行時に名を出したのは杉田玄白他数名)その存在が知られるのは解体新書の翻訳作業の困難を記した杉田玄白の『蘭東事始(蘭学事始)』を待たねばならなかった。

 良沢が解体新書に自らの名を出さなかったのは、その翻訳の不備(とはいえ、当時の日本の語学水準からすれば、その翻訳は奇跡に近い完成度を誇っていた)を自らがよく解っており、これを恥として許すことができなかったためと言われている、また一説としては、蘭学に対する幕府の対応が微妙でもあったため、万が一の際に、最も蘭語に通ずる良沢に咎が及ぶのを避けるためと、前説の訳の不備に対する良沢の気持ちを杉田が酌み取ったためともされている。その後、蘭学に対する真摯な姿勢より、藩主奥平昌鹿より「蘭学の化け物」と賞賛され、これを誉とし「蘭化」と号する。

 寛政の三奇人のひとり高山彦九郎とは親しかった。娘の嫁ぎ先である幕府医師・小島家に於いて没した。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。...

出典:Wikipedia



出典:Wikipedia


つづく