ところで、雷門通りを墨田川と反対方向に100mほど行くと有名な仲見世通りの入り口に出る。下の写真は入り口にある雷門である。この辺には、たくさんの観光客、とりわけ中国、台湾などアジア諸国から来た観光客や欧米からの観光客でごったがえしている。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
◆雷門
表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。
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浅草寺周辺 出典:Mapion
下が仲見世通りである。お土産屋、雑貨屋、食べ物屋などの小さなお店が通りの両側に所狭しと並んでいる。浅草といえば、このアーケード構造の仲見世通りがひとつのシンボルである。「雷おこし」の店だけでも数10軒あるのではないか。
私が住んでいる東京都品川区の武蔵小山商店街は、日本で最初にアーケード商店街をつくっているが、仲見世通りのアーケードは道幅も狭く、一軒一軒の店も小さいので、にぎわいがすごい!
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
◆仲見世
雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
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下は仲見世通りがいったん切れる交差点である。左右にも商店があるが、やはりメインはアーケードがある仲見世通りということになる。この日は、何しろ暑く、アイスキャンデー、ソフトクリームなどの露天商も多数でていた。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
下の写真は、仲見世通りを浅草寺側に抜けたところである。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
みくじは、結構、若い人と海外からの観光客が集まっていた!
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
この後、下の宝蔵門そして浅草寺(浅草寺)へと続くが、残念ながら現在、浅草寺は平成の本堂大営繕で一大修復工事中であった。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
◆宝蔵門
雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。
現在の門は昭和 39年(1964 年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。
2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。
耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。
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再建された宝蔵門は下の写真にあるように、なかなか秀逸。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
ところで浅草寺は、東京都内で最古の寺院であるという。山号は「金龍山」。本尊は聖観音菩薩。元は天台宗に属していたが第2次世界大戦後に独立し、聖観音宗の総本山となった。
観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)であり、江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。
下は平成の大営繕で一大修復工事中の本堂である。ここでお参りをする!
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
下は本堂内部から宝蔵門側をみたところ。
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
◆本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2 年(1649 年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。
現在の堂は昭和33年(1958 年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。
内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。
毎年12月13日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。
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下は五重塔である。この五重塔は空襲で焼失し、再建されたものである。
◆五重塔
再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。
基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラダープラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。
その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに塔跡を記した碑が立っている。碑の横、交番の前の地面はアスファルトをはがし木が植えられ、憩いの場となっている。
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撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S10 2010.7.14
下は、江戸時代の浅草寺(東都金龍山浅草寺)の絵である。文政3年(1820年)である。絵の右側に流れる大きな川は隅田川である。雷門通り、仲見世通りもよく見える。
東都金龍山浅草寺図(文政3年(1820年)
現在の浅草寺一帯は、現地でよく見ると、周囲にはたくさんのビルがあるものの、上の東都金龍山浅草寺図とほとんど変わらないことが分かる。
欧州では、どこのまちでも中世の街並みを旧市街(Old Town)として、そのまま保全、保存し、それが一大観光名所となっており、世界遺産(文化遺産)にもなっているものが多い。
残念ながら日本では、たとえば江戸時代の建築物や土地利用を旧市街として地域一帯をそのまま保全、保存することがなく、多くの場合、せっかくの歴史的文化遺産の周辺の景観が見るも無残な姿となっていることが多い。
その意味からも浅草寺一帯を旧市街として「世界遺産」に登録することを提案したい!