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与野党逆転ではじまる
民主義政治の夜明けA
〜安部総理の誤算〜


青山貞一
 
掲載日:2007.8.3


 私は、今の日本の政治は決して北朝鮮を嗤えない、といってきたが、安倍総理、久間前防衛大臣、赤城農水大臣などの自民党の中枢部の行状をみていると、その感をますます強くする。

 赤城前農相は論外だが、安部総理の参院選挙後の会見を見ていると、何を言われても馬耳東風、決まり文句を繰り返すだけ、およそ政治家として最低限具備すべき、リテラシー、コミュニケーションそして説明責任を持ち合わせていないことが明白となっている。

 ただこれは、自民党中枢部に限ったことではない。

 日本の政治家の多くに当てはまることだ。

 自分が言いたいことだけ一方的に話し、質問にはまともに答えない(答えられない)政治家が何と多いことか。まして自分に都合が悪いことに応えない政治家が圧倒的だ。

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 ところで最近、興味深いコラムを読んだ。

 それは「日本国民ほど保守的で、現状を変えたくない国民はない」、というものであった。言い得て妙だ。

 ここ数年、いや、ここ10数年、日本中で起きていること、とりわけ政権与党のガバナンス(統治能力)や政策、施策に起因する問題や不祥事を見ていると、その重大さからすると、大規模なデモ起きても何ら不思議はない。少々大げさにいえば、市民革命が起きても不思議でないものも多数ある。

 しかし、どうだろう、こと日本では、デモのひとつも起こらない。そんな保守的で従順な日本国民も、今回ばかりはそうでなかった。 

 私見では、国民の気持ちの奥深くに蓄積した<怒り>には大別して次の4つがあると思える。

(1)繰り返される自民党的古い体質、すなわち「カネと政治」に関するどうしようもないルーズさへの怒り、

(2)繰り返される天下り、天の声と官製談合による利権構造的な古い体質に対する怒り、

(3)官僚任せ、そして外郭団体などによる官僚もどきのやりたい放題による税金の無駄遣いに対する怒り、

(4)小泉・竹中コンビが「改革」の名の下で行ったような度が過ぎる規制緩和やレッセフェーレ(放任的自由主義)による「格差社会」化への怒り


である。

 今回の参議院選挙では、上記の4つの怒りが、ほぼ一年のうちに同時暴発したといってよいだろう。

 大きなきっかけが、(3)の一種としての社会保険庁事件にあったことは間違いないが、松岡元大臣、赤城前大臣の不祥事に象徴される(1)の「金と政治」に、またこの一年、何人もの保守系知事が(2)にからむ官製談合事件で逮捕、起訴された、さらに、日本各地における(4)の「格差社会」の顕在化があった。

 その意味からすると、参院で与野党が大逆転したのは、社会保険庁事件と赤城前農水大臣のオチャラカ対応がカウンターとなっていたとしても、政権政党により永年繰り返され継続してきた、(1)から(3)の税金の浪費、そして小泉、竹中コンビによって具体・顕在化した(4)という、ボディーブローが大きく作用していると言っても過言ではない。

...

 上記の(1)から(4)に共通するのは、税金の使途であり、カネである。

 事実、今回の参院選挙結果に関連する国民、有権者のビヘイビアをよく見ると、国民がの怒り心頭となった原因の多くは、「税金の使途」であり、「納めた金の行方」に絡むことであることが分かる。

 言い方を変えれば、国政選挙では、高邁な理念、政策よりも、身近な利害にかかわることがきわめて重要であることが分かる。これは過去の衆院、参院の選挙でも、増税などカネに係わることで自民党が負けていることからも明らかである。

 後述するように、二世、三世のオボッチャマ総理や大臣には、これら国民の怒りがまったくわかっていないのである。安部総理大臣の大いなる誤認であり誤算である。

◆青山貞一:大マスコミが書かない二、三世議員総理たらい回し

 安部政権が誕生したのは、昨年の9月である。

 安倍政権は、国家主義的、権力的な言動を繰り返してきた。

 たとえば安倍総理は「戦後レジームからの脱却」と気張ってみたものの、国民の多くは「戦後レジームからの脱却」などには、ほとんど関心を示さなかった。

 小泉劇場によって得た全体議席の2/3に及ぶ衆議院議席を背景に、安部政権は、改憲準備や教育基本法の改悪、集団的自衛権の恣意的解釈、イラク特措法の継続など、いうなれば国家主義的な政治・外交をやりたい放題やってきた。

 だが、これらに真っ向から反対した共産党や社民党関係者もいるが、ふつうの国民は、まさにひとつのデモも起こさなかったのである。

 これは国会運営でも同じである。本来、日本の行く末をかかわる重要法案を含む17法案の強行採決が繰り広げられたが、ここでも同様であった。

 おそらくこれが冒頭に述べた「日本国民ほど保守的で、現状を変えたくない国民はない」というゆえんである。

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 安部総理を見ていると、学生時代を思い出す。安部総理は、思想、イデオロギー、理念で世の中は変えられると思っている。まして小泉政権を踏襲した衆院全議席の2/3があれば、なおさらと。

 しかし、いかなる革命も、国民の価値、すなわち生活に根ざした意味と価値を理解することなしに達成できない。

 これは、今から40年前、吉本隆明氏が記した著作、たとえば「共同幻想論」や「言語にとっての美とはなにか」など、の大きなテーマにもなっている。

 結論から言えば、圧倒的多くの国民は「戦後レジームからの脱却」などには、意味も価値をもたないのである。

 吉本は自分の姉が、まさに何の変哲もない日常的な事柄に意味や価値をもって一生を生き続けることに大きな関心をもった。これは社会変革や政治変革を志した者誰しもがわかり感ずるものであるはずだ。

 自民党、なかんづく安部政権は、衆院の2/3議席を背景に、普段、依然としてヒツジでヒラメと思われている国民は、自分たちのすることに大勢として追随する、と読んだに違いない。

 確かに、冷戦構造崩壊以降、とくに9.11以降、国民の多くは、「テロ対策」との連関で国家主義的な政治・外交をある程度容認してきた。しかし、だからといって上述の(1)から(4)を国民は容赦、黙認しなかったのである。

 ここに安部総理、政権の大きな誤算があったと思う。

 安部総理は、あるときまでは強引、いや独裁的な国会運営は、自分勝手な思想や理念からして、許されるものと錯覚してきたのである。

 もともと安部総理は、危機管理能力や統治能力からほど遠い政治家である。また国のリーダーとしての資質、素質に欠けている。にもかかわらず、この一年、時代錯誤の思想と理念を法、政策、施策化できたのは、いうまでもなく衆院で2/3議席があったからであり、まがりなりに参院で多数の議席を占めていたからである。

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 ところで、考えれば分かることだが、市民革命の定番、フランス革命はも、ルソーやヴォルテールの平等論や社会契約説が流布され、国民がそれに共感したことがあるが、市民革命のひとつの具体的トリガーは、王妃マリーアントワネットらによる永年にわたるカネの使いたい放題、贅沢三昧に端を発していると言える。

 フランスの民衆は、王妃マリーアントワネットの政治的無知さとそれが故の民衆への配慮の欠如、国費の浪費などに対し怒り心頭となり、死刑という判決を下したとも考えられている。歴史書は王妃が一部の寵臣のみを偏愛したことも記している。

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 いずれにしても言えることは、安部総理は、衆院議席の2/3は自分のものという偉大なる勘違いをしてきたこと、そして何よりも国民への配慮をまったく理解せず、理解しようともしなかったことである。

 安部総理は、本来、衆院全議席の2/3議席とともに、上述の(1)から(4)のすべてを取り返しがつかない負の遺産として継承していることに、まったく気がつかなかったのである。

 私はことあるたびに、独立系メディアで自民党の国会議員が二世、三世ばかりであることに触れた。

 今回の一連の出来事を見ていると、安部総理、小泉前総理はもとより、塩崎官房長官、麻生外相、赤城前農水大臣、渡辺大臣などなど、失言、不祥事を起こしたり、それを庇う、さらにおよそリスク管理や出処進退をわきまえない総理大臣が、いずれも二世、三世であることが分かる。

 何でもそうだが、家督を継ぐだけで、幼少から何らまともな苦労をしていない人間に、国民の生き様を知り、配慮すべき本来の政治家が務まるわけがない。

 これでは国民、有権者は浮かばれないのである。

つづく