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秋の信州を歩く(6)
松代・松代城(海津城)

青山貞一池田こみち・鷹取敦


29 September 2009
初出:独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


 文武学校の視察を終え、私たちは松代城に向かった。下の地図にあるように、文武学校から松代城跡は歩いてすぐのところにある。


出典:文武学校入場時パンフレットより

 下は松代城(海津城)の概要である。

■松代城(まつしろじょう)

 長野県長野市松代町松代にある城郭である。元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていた。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。

通称 海津城、貝津城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 武田信玄
築城年 1560年(永禄3年)
主な改修者 田丸直昌、森忠政
主な城主 武田氏、森氏、真田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 太鼓門、堀、石垣、土塁など


松代城(海津城)の概要


松代城本丸入り口


松代城石垣



 以下は文武学校資料から真田氏の家系。
 下は松代城の歴史的経緯。出典:Wikipedia

■松代城の歴史的経緯

戦国時代・安土桃山時代

正確な築城時期は不明だが、1560年(永禄3年)、甲斐国守護大名の武田信玄が、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため家臣の山本勘助に命じて千曲川河畔の清野氏の館を改築させ、海津城を築いたといわれている。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

信玄はこの城を高坂昌信に守らせ、武田氏と上杉氏の間で行われた川中島の戦いにおいては合戦の舞台となる。

武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となる。長可は旧武田家臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。

江戸時代

  • 1600年(慶長5年) この年2月に田丸直昌の後釜として森忠政が入封。同時に豊臣家の蔵入地では無くなる。この時、海津城から待城へと改名される。
  • 1603年(慶長8年) 森忠政が美作へと加増転封されると松平忠輝が入封する。この忠輝領主時代に待城から松城へと改名されたという。忠輝以後は松平忠昌、酒井忠勝と続く。
  • 1622年(元和8年) 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。
  • 1711年(正徳元年) 幕命により松代城と名を改められた。
  • 1873年(明治6年) 火災により焼失。

 天守台があるが近世には失われたようで、本丸には四隅に二重櫓があった。

現代

  • 1981年(昭和56年) 本丸を中心とした城址の一部が国の史跡に指定された。
  • 2004年(平成16年) 太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(26番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
■真田家家系

 元和8年(1622年)、真田信之は上田から松代10万石の藩主として松代に移り、その後、松代藩は真田氏による10代、約250年の間、信濃の雄藩としてこの地を治めている。



※松代関連写真集


つづく