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文武学校の視察を終え、私たちは松代城に向かった。下の地図にあるように、文武学校から松代城跡は歩いてすぐのところにある。 出典:文武学校入場時パンフレットより 下は松代城(海津城)の概要である。 ■松代城(まつしろじょう) 長野県長野市松代町松代にある城郭である。元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていた。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。
松代城(海津城)の概要 松代城本丸入り口 松代城石垣 以下は文武学校資料から真田氏の家系。 下は松代城の歴史的経緯。出典:Wikipedia ■松代城の歴史的経緯 戦国時代・安土桃山時代正確な築城時期は不明だが、1560年(永禄3年)、甲斐国守護大名の武田信玄が、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため家臣の山本勘助に命じて千曲川河畔の清野氏の館を改築させ、海津城を築いたといわれている。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。 信玄はこの城を高坂昌信に守らせ、武田氏と上杉氏の間で行われた川中島の戦いにおいては合戦の舞台となる。 武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となる。長可は旧武田家臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。 江戸時代
天守台があるが近世には失われたようで、本丸には四隅に二重櫓があった。 現代
元和8年(1622年)、真田信之は上田から松代10万石の藩主として松代に移り、その後、松代藩は真田氏による10代、約250年の間、信濃の雄藩としてこの地を治めている。 ※松代関連写真集 つづく |