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秋の信州を歩く(8)
松代・山寺常山邸

青山貞一池田こみち・鷹取敦


29 September 2009
初出:独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁


 象山神社から大本営地下壕に行く途中(帰る途中)に、山寺常山邸がある。

 以下いただいたパンフレットから山寺常山邸及び庭園の概要を紹介する。

■山寺常山

 山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格だった。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられた。常山は号で名は久道、のちに信龍と名のり、通称は源太夫といっていた。

  常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めた。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していた。

  明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめた。

■山寺常山邸

 現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬)が残されている。

 ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできない。

  表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大である。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができる。

  屋敷北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものである。

  庭園には神田川の水を引き入れている池(泉水)があり、そこから下流の屋敷へと通じる水路(泉水路)が残されている。


■表門

 長屋問形式と言われる問で、その全幅は約22mある。松代藩下に残る問の中では最大長である。江戸時代末期の建築と推定され、建築当初の姿をほぼ伝えている。


山寺常山邸の表門

■書院

 表門南側のやや高台に建ち、表門と渡り廊下でつながっている。座敷に係わる扁額から「萬竹庵」と命名されたことが推測される。



■庭園

 松代は庭園都市・松代といわれる程、現在も多くの庭園が各所に残っている。山寺常山邸もそのひとつである。


山寺常山邸の庭園

 庭園の特徴として、第一に、観賞用の大名提案や寺の庭とは、異なり、日常の暮らしと密着した生活の庭であるといえる。

 具体的には松代藩は泉水網が大変発達しており、カワ(道路沿いを流れる水路)とセギ(水量の少ない水路、農地の灌漑用水として使われた)そして泉水路(各戸の庭の池を結ぶ水路)と水路が用途によって分けられ整備されていた。



 山寺常山邸の泉水は神田川から取水されており、次の屋敷の泉水につながる泉水路も邸内に残されている。


神田川側から見た山寺常山邸

 第2に、借景庭園である。借景庭園とは庭内に立って、庭外の景色を「いけどる」作庭の手法として江戸時代に盛んに行われた。

 山寺常山邸も屋敷の西側に位置する竹山(象山)という山を借景として庭園がつくられている。


神田川側から見た山寺常山邸

 下は山寺常山邸の全体見取り図。上を流れているのが神田川。