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いわれなき迫害はねのけた

近代日本絵画の祖

岡倉天心、横山大観、菱田春草

その2

青山貞一 Teiichi Aoyama

October 27 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo


 ところでご承知の方もいると思いますが、3.11の東日本大震災津波により北茨城市にあった五浦の六角堂が津波で完全に流されました。私達は被災地現地調査で北茨城から福島全域を調査したとき、北茨城の五浦に行き流された現場を見ました。

 なお、以下は茨城・福島への3回目の現地調査後に書いた<北茨城>六角堂と岡倉天心です。

◆青山貞一・池田こみち:<北茨城>六角堂と岡倉天心 
 http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col1180..html


岡倉天心


津波により流出する前の北茨城、五浦の六角堂
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.25


津波により流出する前の北茨城、五浦の六角堂
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 


北茨城、五浦の六角堂     出典:NHK 岡倉天心

 この五浦の六角堂こそ、今の東京芸大の前身、東京美術学校の校長だった岡倉天心らが保守派の教授やマスコミから激しい攻撃、非難、迫害を受け校長を辞職させられた後、東京から横山大観、菱田春草らを引き連れ、別荘があった北茨城につくった近代日本画家の一大拠点です。

 残念ながら、東日本大震災津波で流されましたが、現在、再興されています。

  菱田春草は確か36歳の若さで他界しますが、横山大観は保守の日本画家やマスコミの激しい迫害としかとにもめげず、師匠である岡倉天心をサポートしながら89歳で他界するまで日本画の発展に貢献します。
 
 下は横山大観の写真です。激しい非難、誹謗を受けながら89歳まで日本画家としての信念をもちつづけた、したたかでしなやかな人柄がよくでています。同時に他人にやさしそうな人柄もにじみ出ています。こういう人間になりたいものです!


横山大観


無我  作 横山大観


横山大観


連峰雲  作 横山大観

 NHKの番組を見ると、日本では何事でも、前例のないこと、新たなことをすると、保守的な勢力が寄ってたかって迫害し、また徹底的に無視することで、当事者は最後は生きることすら厳しくなることがありますが、美術の世界でも同じだったことがよく分かります。

 写真はその「横山大観」の番組の最初の一場面(ナレーションする佐藤慶氏)です。


出典:NHK 横山大観

◆横山 大観 1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)

 日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山秀麿。

 1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。

 1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると、急遽結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請、見事に東京美術学校へと合格した。

 1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。美術学校卒業後、京都に移り仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となる。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになる。

 1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に校長・天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。岡倉を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加する。

 美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。

 現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。

 保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せはじめたため、大観は春草と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。

 この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。

 以後、日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となり、1937年(昭和12年)にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年帝国芸術院会員。

 戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞す。同年文化功労者。

 1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で死去。永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。脳は、現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されている。

出典:Wikipedia