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祐天寺短訪

    

 (東京都目黒区中目黒)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
28 May, 2018  独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

  ここ数年は、東京の城南にあり自宅や勤務先の近くにある由緒ある寺院を訪問しています。前回は、円融寺を訪問しました。

 2018年5月28日夕方、東京都目黒区中目黒にあります祐天寺を青山、池田で短訪しました。祐天寺は、青山の自宅から、また環境総合研究所からほぼ等距離にありますが、今まで一度も訪問していませんでした。

 祐天寺は浄土宗のお寺で東京都港区芝にある増上寺の第三十六世を勤めた大僧正、祐天上人の高弟祐海上人が、祐天上人を開山と仰いで享保3年(1718)に創建し、享保8年(1723)に明顕山祐天寺とと号したお寺です。私たちは徳川家に関する灯篭調査で増上寺には過去、何度もうかがっていることもあり、祐天寺の開祖が増上寺ゆかりの上人とのことで、葵のご紋や灯籠などにも注目して参拝しました。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 祐天寺は東京都目黒区中目黒にあります。以下はその祐天寺の位置です。


出典:グーグルマップ


 祐天寺への行き方としては、私たちは目黒区大岡山にある研究所から車で行きましたが、以下の通りです。東急東横線の祐天寺駅から徒歩8分です。午後5時まで無料駐車場があります。

 ・東急東横線「祐天寺」駅より徒歩8分
 ・車では山手通り「中目黒立体交差」から駒沢通りに面し左側にあります。

 なお、祐天寺の住所と電話、FAXの番号は以下の通りです。

 住所:東京都目黒区中目黒5丁目24番53号
 TEL :03−3712−0819   FAX :03−3760−6283


 以下は祐天寺の概要です。

◆祐天寺の概要

 祐天寺(ゆうてんじ)は、東京都目黒区中目黒五丁目にある浄土宗の寺院です。山号は明顕山。本尊は祐天上人像(本堂安置)と阿弥陀如来坐像(寄木造、阿弥陀堂安置)。現在の本堂は、元々は常念仏堂として建立された堂宇を再建したものです。

 出典:Wikipedia

 浄土宗寺院の祐天寺は、明顕山と号します。祐天寺は、祐天上人の高弟祐海上人が、祐天上人を開山と仰いで享保3年(1718)に創建、享保8年(1723)明顕山祐天寺と号しました。

 勧請開山の祐天上人は、生実大厳寺十五世、飯沼弘経寺三十世、小石川伝通院十七世、大本山三縁山増上寺第三十六世を勤めた大僧正で、徳川吉宗・大岡越前神忠相による町火消し組織も、祐天上人が弘安した消防制「いろは四十八文字」を基にしたものと言われています。

 享保3年の春ごろから増上寺36世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探す。しかし同年7月15日(1718年8月11日)に祐天が亡くなる。

祐天が廟所を目黒の地に建立する事を望んでいたこともあり、祐海は同じ目黒にある善久院を百両で購入し住職となる。損傷の激しい善久院に祐天の廟所と常念仏堂を建立再興した。享保8年(1723年)1月13日、祐天寺の寺号が正式に許可される。[3]祐天を開山とし、祐海は第2世となる。境内に柳原愛子(大正天皇の生母)の墓がある

 出典:猫の足あと

 次は祐天寺の略縁起です。

◆祐天寺の略縁起

・目黒の念仏道場
 増上寺第三十六世祐天上人は、正徳4年(1714)増上寺を退隠し、ひたすら名号の書写と念仏の生活を送りました。享保3年(1718)7月15日、弟子の祐海に「一寺を創営し、長時の念仏を修し、未来の衆生済度のために備えよ」と遺言し、鉦を鳴らして仏名を称え、世寿82歳にして西に向かわれました。祐海は遺命を受け、新寺建立禁止の世情ではありましたが、8代将軍吉宗公の許可を得て、善久院という寺に改めて祐天寺の名を付し、開創されたのです。こうして、この目黒の地に、祐天上人を開山と仰ぐ念仏道場は起立されたのです。

江戸の民衆から将軍家・皇族まで
 増上寺で学問を終えられた祐天上人は、隠棲の草庵を本所牛島(墨田区)に結ばれ、名号を書写し、念仏する生活をされていました。救いを求める人々は祐天上人に名号を請い、その功徳が江戸をはじめ広く日本中に弘まっていったのです。元禄12年(1699)桂昌院の篤い帰依を受けた祐天上人は、綱吉公の特別な台命によって、下総(千葉市)生実の大巌寺の住職となり、その後、家宣公により、増上寺の第36世に任ぜられました。将軍家はもとより、東山天皇の女院らの帰依を受けるなど、上人の書写した名号は今でも護り本尊として人々から大切にされているのです。

 出典:祐天寺公式Web


 以下は新編武蔵風土記稿による祐天寺の縁起です。

新編武蔵風土記稿による祐天寺の縁起(荏原郡中目黒村)祐天寺

 境内8530坪、内拝領地2000坪、年貢抱地6530坪村の西の方字原にあり。当寺の拝領地は中下目黒両村にて1000坪づつたまひたれども草創以来当村に属すればここに出せり。浄土宗、芝増上寺末、明顕山善久院と号す。当所は増上寺第三十六世祐天大僧正隠居の地なり。僧正末期に俗弟祐海に属して、当寺を起立せしむ。享保4年祐海遺命を奉じて起立の功を遂げ、僧正を開山として其身は第二世におる。
門。冠木門なり。両柱の間2間。

 下馬札・門外にあり、明和3年7月8日土岐美濃守命を傳へて建てしむ。
二王門。表門の正面にあり。5間に2間。明顕山の三字を扁す。左右に力士の像を安ず。
鐘楼。仁王門を入て右にあり。2間半四方、鐘径2尺8寸、高さ5尺。銘末に享保13年と刻す。
本堂。二王門の正面にあり。その間を甍にす。堂は6間に7間。祐天寺の三字を扁す。本尊は祐天大僧正の木像なり。坐像にして長2尺8寸ばかり、前立の像あり、貌長け共に同じ。僧正は明蓮社顕誉上人と号す。陸奥国岩城の農新妻小左衛門と云ものの子なり。幼名を三之助と称す。三縁山の諸化休波和尚は俗縁の伯父たるにより、休波を紹介として、同所袋谷檀通和尚に投じて薙染す。時に正保4年僧正11歳の時なり。長ずるに及で学業怠らず、師檀通に随て諸国を遊行し、道徳日々に盛なり。

 後三縁山に庵を結び、又葛飾郡牛嶋と云所へ潜隠す。道化大に行はれて僧俗輻輳す。又勢州山田に赴きて念仏を廣む。その後桂昌院殿の召によりて大城に登れり。元禄2年常憲院殿の命を蒙り下総国千葉郡生実大厳寺に住せしめらる。明る庚辰の年同国飯沼弘経寺に転じ、宝永甲甲伝通院に住し、正徳元年増上寺に住し、大僧正となり、分昭院殿の御導師を勤む。程なく隠居して、享保3年7月15日麻布の別業にて寂す。荼毘の中に残りし舌形は今も当寺に持傳へり。本堂の後背に続き9尺四方の堂中に鐘をかく。勤鐘の二字を扁す。鐘の径2尺高4尺、安永7戊戌11月6世祐全と彫る。
客殿。本堂に向て右の方にあり。廊下を設て往来を通ず。この客殿はもと桂昌院殿の御殿なりしを賜りて造りしと云。


 次に祐天寺の境内と主な伽藍の紹介です。

 以下は祐天寺の境内の案内図です。下図では、一番下段に表門があります。


祐天寺境内案内図
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 ※ 祐天寺境内パノラマ  出典:グーグルマップストリートビュー・パノラマ


◆祐天寺の伽藍

表門

 以下は駒沢通りに面する祐天寺の表門を出て駒沢通りの歩道に立つ青山貞一です。


祐天寺の表門近くにて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 以下は表門です。


祐天寺の表門の前にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

北門


祐天寺の北門を入ったところで撮影
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


仁王門

 案内図で表門をくぐりそのまま上に向かうと仁王門があります。下の写真は仁王門です。なお、仁王門は目黒区の指定文化財となっています。


祐天寺の仁王門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

仁王門(目黒区指定文化財)

 この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造木瓦葺銅板葺(昭和6年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材です。正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。

 また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。

(目黒区教育委員会掲示より)


祐天寺の仁王門を背景に
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 仁王門には仁王像が配置されていますが、仁王像を容易に見ることができません。そこで、工夫して撮影した仁王像が以下です。

 
祐天寺の仁王門の仁王像 (左が吽形像、右が阿形像)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


◆地蔵堂

 案内図にあって仁王門の左下にあるのが祐天寺の地蔵堂です。以下はその地蔵堂の写真です。


祐天寺の地蔵堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


祐天寺の地蔵堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


地蔵堂前にある灯篭(文化十四年と彫られています)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


地蔵堂前にある灯篭(文化十四年と彫られています)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 以下は地蔵堂の内部です。


祐天寺の地蔵堂の内部
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

「南無阿弥陀仏」が刻まれた碑

 地蔵堂の裏に回ると「南無阿弥陀仏」の名号の刻まれた大きな碑があります。百万遍供養塔といいます。寄進をした七百名もの名前が刻まれています。祐天上人が亡くなって百年ほどして創建されていますが、多くの帰依を集めたことがわかります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


 以下は鐘楼です。仁王門をくぐって右側にあります。

鐘楼


祐天寺の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


阿弥陀堂


祐天寺の阿弥陀堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

阿弥陀堂(目黒区指定文化財)

 阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。

 また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。

(目黒区教育委員会掲示より)


祐天寺の阿弥陀堂と五社稲荷堂  出典:猫の足あと


阿弥陀堂の内部
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

阿弥陀堂の解説

 5代将軍徳川綱吉の養女、竹姫の寄進で、同じく竹姫が寄進した仁王門の12年前に建立されました。木割や細部絵様の簡素でありながらしっかりした線刻に、江戸時代中後期の特質をよく留めています。

 屋根裏には、享保きょうほう9年(1724年)の上棟時と、嘉永7年(1854年)、昭和7年(1932年)の修理時のあわせて3枚の棟札が納められています。

 繰り返し補修は行われましたが、大改修は行われず、仁王門とともに創建時そうけんじの姿を今日まで伝える建築物です。特に、小仏堂としての扱われ方や基本的空間構成は往時のままで、江戸時代中期の建築様式を知ることができます。

出典:目黒区教育委員会


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

・阿弥陀堂の解説

 5代将軍徳川綱吉の養女、竹姫の寄進で、同じく竹姫が寄進した仁王門の12年前に建立されました。木割や細部絵様の簡素でありながらしっかりした線刻に、江戸時代中後期の特質をよく留めています。
屋根裏には、享保きょうほう9年(1724年)の上棟時と、嘉永7年(1854年)、昭和7年(1932年)の修理時のあわせて3枚の棟札が納められています。

 繰り返し補修は行われましたが、大改修は行われず、仁王門とともに創建時そうけんじの姿を今日まで伝える建築物です。特に、小仏堂としての扱われ方や基本的空間構成は往時のままで、江戸時代中期の建築様式を知ることができます。

(目黒区教育委員会)


五社稲荷堂


祐天寺の五社稲荷堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


祐天寺の水盤舎

 以下は水盤舎です。


祐天寺の水盤舎
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


◆祐天寺の本堂


祐天寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 本堂は 「元々は 『常念仏堂』 として建立された 堂宇を再建したもの」 とあります。 江戸時代 万延元年・1860年 宝形造 内々陣、明治二十七年・1894年に 移築、明治三十一年に 入母屋造 外陣を、更に明治四十五年・1912年 それらを繋ぐ 内陣を設けて 複合すると 記されています。 現在は 「書院・新築された 仏舎利殿」 とも繋がっています)「祐天上人像」 を安置しています。


祐天寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

祐天(1637−1718)

 下の絵は祐天(1637−1718) 江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。


祐天(1637−1718) 江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧
出典:祐天大僧正利益記

祐天の経歴

 祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。

 
5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。

 ※増上寺第36世祐天上人300年御遠忌に寄せて 中外日報

 その間、明応7年(1498年)の大地震によって堂宇が損壊し、それ以来、露坐となり荒廃が進んだ鎌倉大仏を、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得て、養国とともに復興を図る。そして
鎌倉大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興に成功し、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺 (鎌倉市)の「奥之院」に位置づけた。

累ヶ淵の説話

 祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話である。この説話をもとに多くの作品が創作されており、曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などが有名である。後述のかさね塚を参照


◆祐天寺の仏舎利殿


祐天寺の仏舎利殿
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨を指します。


祐天寺の仏舎利殿の絵馬
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


祐天寺の仏舎利殿の絵馬を背景にした池田dこみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


祐天寺の仏舎利殿の絵馬
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


※出典:オシャレスポットがたくさん! 代官山・中目黒・祐天寺の
     人気エリアをゆったり街歩き
   木下あやみ

 東急東横線に乗車し「祐天寺」駅で下車、歩くこと約7分で「祐天寺」に到着。駅名にもなっている祐天寺を訪れるのはこの日が初めて。表門をくぐると、広々とした境内には、国の登録有形文化財に指定されている本堂、地蔵堂などがあり、見どころ満載なお寺でした。

 本堂の横の
仏舎利殿には画家の月岡栄貴(つきおかえいき)画伯によって累(かさね)の物語を絵で表した大絵馬があります。この物語が気になり調べたところ、江戸時代版のホラー小説のようなストーリーでした。

 ※月岡栄貴(つきおかえいき)画伯
  1916−1997 昭和後期-平成時代の日本画家。
  大正5年4月22日生まれ。前田青邨(せいそん)に師事。昭和23年院展に初入選,
  56年「やまたのおろち(古事記より)」が日本美術院賞,60年「風神雷神」が文部大
  臣賞。古典を題材とした作品をえがく。平成9年6月21日死去。81歳。東京出身。
  東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は栄吉。

 約300年の歴史がある祐天寺は高僧として名高い祐天上人が「この地に念仏堂を建てたい」と願ったのが始まりです。しかしその願いを果たすことなくこの世を去り、高弟である祐海上人が遺志をつぎ、江戸幕府に熱意を伝えた結果、八代将軍吉宗から保護を受け、1720年に本堂などが完成したそうです。このお寺の歴史に思いをはせ、温かい気持ちになりました。


 以下は境内の仁王門の右側にあるかさね塚です。

◆かさね塚





撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28
 
 以下はかさね塚です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

 以下はかさね塚の由来です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-28

かさね塚の由来

 祐天上人は増上寺第36代の大僧正で徳川家5代〜8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事蹟あり。文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。

 大正15年、6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習ならわしとなっている。(上記境内掲示より)

 以下は、三遊亭円朝の「真景累ケ淵」における祐天上人の浄霊の部分です。

 渡しを渡って横曾根村へ着き、土手伝いに廻って行くと羽生村へ出ますが、其所は只今以て累ヶ淵と申します。どういう訳かと彼方で聞きましたら、累が殺された所で、与右衞門が鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだという事、全くは麁朶を沢山背負わしておいて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込むようにして、上から与右衞門が乗掛って、砂で息を窒めて殺したというが本説だと申す事、また
祐天和尚がその頃脩行中の事でございますから、頼まれて、累が淵へ莚を敷いて鉦を叩いて念仏供養を致した、その功力に依って累が成仏得脱したという、累が死んで後絶えず絹川の辺には鉦の音が聞えたという事でございますが、これは祐天和尚がカンカンカン叩いていたのでございましょう。
  出典:三遊亭円朝作 「真景累ケ淵」岩波文庫)

 以下はWikipedia における累ヶ淵(かさねがふち)です。舞台は、茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸となっていますが、祐天上人の出身地は茨城県です。

 ※ 累ヶ淵(かさねがふち)


 以下は祐天寺の文化財です。

◆祐天寺所蔵の文化財
・木造祐天上人坐像(東京都指定文化財)
・般若心経1巻(東京都指定文化財)
・紺紙金字法華経巻第三1巻(東京都指定文化財)
・祐天上人の墓(東京都指定文化財)
・祐海上人の木造坐像(目黒区指定文化財)
・祐天寺仁王門(目黒区指定文化財)
・阿弥陀堂(目黒区指定文化財)
・柳原愛子(大正天皇生母)の墓(目黒区指定文化財)
・白子組並びに灘目の海難供養碑(目黒区指定文化財)
・かさね塚

◆木造祐海上人坐像(目黒区指定文化財)

 この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に祐海の遺言とともに納められました。江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。



(目黒区教育委員会掲示より)


祐天上人の墓(東京都指定文化財)

 祐天上人ゆうてんしょうにんは、江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。磐城いわきの国(福島県)に生まれました。増上寺で出家し、修行を深め学問に励みますが、引退して本所牛嶋にて、ひたすら念仏と名号書写みょうごうしょしゃの日々を送りました。

 元禄げんろく8年(1695年)桂昌院けいしょういんに法問ほうもんをおこなったところから、将軍綱吉との関係が深まります。

 小石川伝通院でんづういんなどの住持をへて、正徳しょうとく元年(1711年)将軍家宣いえのぶより芝増上寺第三十六世大僧正に任じられ、享保きょうほう3年(1718年)82歳でなくなりました。

 祐天寺は、弟子の祐海上人ゆうかいしょうにんが祐天上人の遺命により念仏道場を開き、祐天上人を開山と仰いで自らを二世としたことから始まります。廟墓びょうぼは、無縫塔むほうとうといわれる形で、卵塔の部分は90センチメートルです。祐天寺墓地の中心をなしています。



(東京都指定文化財)


灘目の海難供養碑・白子組の海難供養碑2基(目黒区指定文化財)

 江戸時代に「灘なだの樽回船」と、関西の木綿問屋仲間「白子組」の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で台風にあい、たびたび沈没した。その遭難者のために江戸の商業問屋仲間が建立した海難供養碑である。いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東、自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定される。

 その碑文により、たび重なる海難の事実を知ることが出来る。また、それぞれの碑は、船籍所在地における史的事実の裏づけがある。近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究の貴重な資料である。



(目黒区教育委員会掲示より)

 
以下は東門を出てすぐのところにある墓地で撮影した写真です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-28


 本稿はこれで終わりです。