行人坂・大円寺短訪 (東京都目黒区目黒) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 28 May, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
2018年6月1日、目黒不動尊の視察を終えた後、私たちは青木昆陽の墓を参拝し、階段を下りて山手通りを横切り、目黒川に出ました。この辺りは、以前、環境総合研究所が目黒雅叙園に隣接する場所にあったころ昼食などでよく来た場所です。 下の写真は目黒川の太鼓橋から撮影した両岸です。左側の建物が有名な目黒雅叙園です。写真中金色に見える建物の後ろに雅叙園マンションがあり、10年間ほど研究所がその雅叙園マンションにいたこともあり、この辺りから目黒駅周辺はよく歩いていました。 目黒川と雅叙園 江戸時代の太鼓橋からみた風景 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 これは江戸時代の浮世絵に出てくる太鼓橋からの目黒川の風景です。 ※1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りでした。 長さ8間3尺(約15.3メートル)、幅2間(約3.6メートル)であり、名前の通り いわゆる「太鼓橋」の形状をしていました。 出典:江戸時代の太鼓橋(歌川広重『江戸名所百景』、1857年)。 さて、目黒川から目黒駅に向かうには、非常に急峻な行人坂を上ることになりますが、その途中に、大円(圓とも書きます)寺があります。 行人坂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 以下はグーグルマップによる大円寺の位置です。 大円寺の位置 出典:グーグルマップ ◆大円寺の概要 その大円寺(だいえんじ)は、東京都目黒区下目黒にある天台宗の寺院であり、山号は松林山といいます。本尊は釈迦如来。大黒天を祀り、元祖山手七福神のひとつとなっているます。寺の住所は以下の通りで、目黒区下目黒になります。 〒153-0064 東京都目黒区下目黒1丁目8ー5 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の山門 これもリニューアルされています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の本堂 大黒天 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の本堂 大黒天 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の阿弥陀堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の阿弥陀堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の仏心閣 出典:猫の足あと 大円寺の釈迦堂 出典:猫の足あと 大円寺の釈迦堂 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の鐘楼 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の道祖神 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 以下は大円寺の歴史です。 ◆大円寺の歴史 この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。 大明王院がこの寺に統合されている。 この大円寺には500に及ぶ石仏があります。その石仏は、後で詳述するように、1772年(明和9年)2月に大円寺で発生した大火によって亡くなられた人々を供養するために置かれています。 ◆大円寺の石仏群 大円寺の石仏群 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の石仏群 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の石仏群 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 以下の解説は大円寺の石仏群についての詳細です。 大圓寺の概要 目黒区教育委員会 大円寺の石仏群 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 行人坂敷石造道供養碑と庚申塔 出典:猫の足あと 行人坂敷石造道供養碑と庚申塔 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の石仏群 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 大円寺の石仏群 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 下の写真は薬師如来です。 大円寺の薬師如来 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 ◆大円寺の文化財 大円寺の文化財 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 重要文化財 ・木造釈迦如来立像 附:菊花双雀鏡1面(鏡面に「釈迦如来、建久四年十月十六日、丹治氏乙犬女」 の線刻がある) 附:紙本墨書紙片3枚(「丹治氏乙犬女」「記千□(歳)女」「公□氏」 とある)。 「三国伝来の霊像」と称される京都・清凉寺の本尊釈迦如来像を模した、 いわゆる「清凉寺式」の釈迦如来像。身体の露出が少ない衣の付け方、同心円状 の衣文、縄目状の頭髪など、清凉寺式釈迦如来像の典型的な様式を示す。 本像は、像内納入品の銅鏡の線刻から、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)の 造立と判明する。また、像内に納入されていた宝永4年(1707年)の木札の記載に より、この像は当時鎌倉の杉本寺にあったことがわかる。清凉寺式釈迦如来像の 典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の 作品として貴重である。 東京都指定有形文化財 ・大円寺石仏群 520躯(釈迦三尊像 3躯、十大弟子像 10躯、十六羅漢像 16躯、五百羅漢像491 躯) 天明年間(1780年代)、前述の目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作ら れたとされている。 ここでは、行人坂について詳しく紹介します。 ◆行人坂 行人坂(ぎょうにんざか)は目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂です。急な勾配や江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場などで有名な目黒雅叙園があることで知られています。 江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝でもあり、富士見の名所としても知られ、また、明和の大火ばかりでなく八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもあります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 目黒川架橋供養勢至菩薩石像 出典:猫の足あと 目黒川架橋供養勢至菩薩石像 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 ◆行人坂の概要 行人坂は、坂上の一部を品川区上大崎として、坂の大部分は目黒区下目黒1丁目を東西に貫く150mほどの長さの平均勾配が約15.6%になる急峻な坂で、坂はJR目黒駅西口の三井住友銀行目黒支店と同事務センターの間を坂上として始まり、西に向かった坂を左手に大円寺、目黒雅叙園を見ながら下りきると目黒川にかかる太鼓橋に至ります。 江戸時代には、江戸と目黒不動や目黒大鳥神社、碑文谷円融寺などへの参詣や目黒の農産物を江戸に運ぶ交通の要衝でもあり、行人坂の名の由来は17世紀前半寛永のころに出羽三山の一つ湯殿山の行者の大海法印が大日如来の堂を建て、大円寺の元を開き坂を開きました。以来、行者が多く住み、そのため行人坂と言われるようになったと伝えられています。 行人坂は坂の頂上からおおむね西南西に急勾配で下るため江戸時代には坂上からは富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、『江戸名所図会』にも坂の全景と富士見茶屋、太鼓橋の三つが描かれていまあす。 行人坂に面する名所や有名な会社としては、明和の大火や五百羅漢で知られる大円寺・目黒雅叙園・太鼓橋・ホリプロ本社などがあり、すぐ近傍には行人坂教会やトンカツの老舗「とんき」などがあるります なお、急峻な坂であり、自動車は上りの一方通行となっています。 ◆江戸の2つの大火事と大円寺 行人坂にある大円寺は見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅し上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもあります。 大円寺は武州熊谷無宿の真秀という僧によって放火されましたが、放火された大円寺も責任を問われ、再建が認められたのは70年以上も後のことででした。縁起担ぎの好きな江戸庶民は明和9年を「めいわくの年」と読んでよくないことがおきるのではないかと恐れていましたが、それは的中し大惨事が起きてしまうことになりました。 明和の大火は江戸三大大火の一つで目黒行人坂大火とも呼ばれています。大円寺にあり、行人坂の名所でもある石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされています。 また、明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説あります。吉三=後の西運上人はその1説です)。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にありますが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれた。 本稿はこれで終わりです。 |